• ベストアンサー

死刑廃止論者の理屈とは?

死刑廃止論者の方は、どういった思考から廃止を唱えるのでしょうか? 人の罪(群衆から願われた・着せられた罪も)は、命で償うことが掟でした。(明治初期まで) どうしたら人間の罪を許せるのでしょうか。 偶然の巡り合わせや、神の祟りに求めればいいのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • abewainpo
  • ベストアンサー率8% (53/611)
回答No.4

今の死刑は密室で行われており、せっかくの見せしめの機会を台無しにしているからでしょう。どうせなら、焼き殺したり、馬に繋いで体を引き裂いたりして、その映像をNHKで放映すべきです。

tax_sos
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ドイツなどでは魔女狩り等当時に使われた拷問具の博物館があり、 誰でも見学できます。 そういったものも日本にも必要かもしれませんね。

tax_sos
質問者

補足

補足ではないですが、 命の食べ方というDVDがあります。 牛肉も刺身もそのまま生きているわけではありませんよね。 お米を中性洗剤で洗うJKもいるそうですが。 そもそも命とはなんであるか。 私たちが生きているのは、たくさんの命の上に生きていることを自覚すべきですよね。 魚の解体ショーでは生ぬるいですね。 牛の解体を、鶏の解体を、しっかり教育の一環として見せるべきですよね。

その他の回答 (7)

  • mikky777
  • ベストアンサー率69% (44/63)
回答No.8

 No6です。  >誰か一人に罪を負わせないと怒りが納まらないのが人間ですから、ジレンマを感じますね<  その「罪を負わせられる」人が、あなた、もしくはあなたの家族でも、かまわないのですか? ってことが問題ですね。「怒りが納まらない人間」は、そのことを認識できないのでしょうかね?  それと、冤罪の場合、真犯人は逃げおおせている訳です。それで、誰でも良いから「誰か一人」に罪を被せれば、「怒りが納まる」って、それで被害者・遺族は本当に浮かばれるのか? も、問題ですね。

tax_sos
質問者

お礼

自分の考えを信じて疑わないのが人間です。 自分の過ちに気付くのはいつになるのか。 現在でも常識は変わります。 新事実で塗り替えられます。 裁判で犯人とされば、これは無実であっても人々から犯人というレッテルを貼られ、 裁判所のお墨付きをもらうわけです。 たぶん、お礼を書いただけまた書き込みが増えていくのでしょう。 他の方のご意見を覗いたいのですが、この方ばかりの回答で埋め尽くされ、 他の方が書き込む余地がなくなるのを懸念してこの辺で締め切り、改めたいと思います。

  • rokutaro36
  • ベストアンサー率55% (5458/9820)
回答No.7

No.1です。 (Q)被害者が「忘れる」「思い出等にして心にしまい込む」ということに 期待されているのでしょうか。 (A)いいえ。 そのような期待をするのは、思い上がりですよ。 被害者には、哀悼の意を表する以外に何もない。 (Q)一方、「死」とは絶対的であり、それ以上加害者に求めることが出来ない 最高位の償い。 (A)本当に最高位の償いなのでしょうか? 私は、そのことに非常に疑問に思っています。 死刑に処することで、加害者を楽にさせていることは、 本当にないのでしょうか? 世の中には、生きていることがつらくて自殺する人もいます。 ならば、死刑によって、そのような救いを与えている危険は ないのでしょうか?

tax_sos
質問者

お礼

恐らく、生と死のそれぞれの世界のどちらに主軸を置くかによるのでしょう。 基本的に命あるものはすべて死にたくない。 しかし、スピリチアルな考え方もあります。 処罰される側がどちらかによるのかもしれません。 ただ、この生の世界から死を以て退場するという意味では、 最高位の償いなのでしょう。

  • mikky777
  • ベストアンサー率69% (44/63)
回答No.6

 私は死刑廃止論者ですが、その根拠は、ひとえに「冤罪の場合、取り返しがつかない」からです。  死刑存続論者の理屈は、すべからく「死刑判決を受けた人=真犯人」を当然の前提とした理屈です。しかし、そのようなことは、なんら証明されていません。その意味で、死刑存続論者の理屈は、破綻しています。  人間は神ではないのだから、絶対的真実は分かり得ません。どんなに刑事司法手続きを上手くやっても、冤罪の可能性はなくなり得ません。まして、日本の刑事司法は、冤罪だらけです。むしろ、冤罪を作り出すシステムに成り下がっています。  ところが、死刑存続論者は、ほとんどの場合、刑事司法の実際を知りません。それどころか、刑事訴訟法の規定さえろくに知りません。知らないままに、論理的に破綻した理屈をを捏ね回している、というのが正直な私の感想です。  死刑は、刑事訴訟の最終局面なのだから、刑事訴訟法等の規定、刑事司法の実際の運用等を知らずして、責任ある議論ができる訳ありません。  死刑判決を受けた人が、必ず真犯人とは言い切れない。冤罪の可能性は払拭できない。冤罪の場合、死刑は執行されてしまったら、取り返しがつかない。したがって、死刑は廃止するべきである。これに尽きます。

tax_sos
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 冤罪の場合は、その通り根本から違いますね。 ただ、人からその罪を願われた場合や着せられた場合でも、 誰か一人に罪を負わせないと怒りが納まらないのが人間ですから、 ジレンマを感じますね。

回答No.5

死刑制度が実施されている日本ですが、凶悪事件の発生はこの死刑制度にかかわり無く発生している、だから死刑制度は廃止せよ、となっています。 日本の場合は、被害者の身内並びにその者の周囲のに存在する被害者は、人命を奪った加害者は被害者同様の罰則が有って当然とかんがえる。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

”死刑廃止論者の理屈とは?”     ↑ 色々あります。 1,被害者は既に死亡しているが、加害者は生きている。  死亡した人間に人権は無いが、生きている加害者には  人権がある。  故に、人権上は加害者が優先する。 2,冤罪の場合、取り返しがつかない。 3,真摯に反省している人間を死刑にするのは   問題だ。    4,被害者でもない国家が殺害するからダメだ。 5,死刑を廃止したカナダでは、殺人が減少した。  (これは数字のマジックですが) 6,廃止は世界の潮流である。

tax_sos
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 犯罪者には、あらゆる一切の権利は剥奪されてしかるべきではありませんか。 その罪を犯すまでに、小さな罪のようなものを子どもの頃から繰り返してきているはずです。 罪を犯してから反省するのはどうでしょう? 罪を犯す前に、大人であるならば気がつき、自制するべきです。 特に、命が関わっていることは絶対原則だと思います。 人類の歴史から、欧米に牽引されないようにならないものですかね。

  • hideka0404
  • ベストアンサー率16% (819/5105)
回答No.2

遠島の復活。

tax_sos
質問者

お礼

それは掃き溜めというか、政府や国が管理できない無法地帯(島)を作ることではないですか。

  • rokutaro36
  • ベストアンサー率55% (5458/9820)
回答No.1

(1)復讐 現代の刑法の基本は、「目には目を」という古代の復讐法を 否定して、自由を奪って、刑務所に入れて、日々、反省させる ということを目的としている。 にもかかわらず、「死に死を」というのは、死だけを特別扱いして、 復讐法的要素を残しているのであり、論理的に矛盾している。 もちろん、「死は特別なもの」ということに、一定の論理性と 説得力はあるが、「矛盾している」ことには違いない。 (2)死刑は法による殺人である 人を殺すことは、殺人であることには違いない。 死刑とは、法による殺人である。 従って、殺人者が人を殺すことと、法による死刑の執行は、 殺人という点で同じである。 手段と方法と倫理が違うだけのこと。 ならば、殺人者とそうではない一般人とを分ける もっとも明確な線引きは、 「いかなる理由があろうとも決して人を殺さない」 という一線である。 死刑は、その一線を曖昧なものにして、 一般人に殺人の一端を担わせる矛盾をはらんでいる。 1円を盗んでも盗みは盗み。 盗人と一般人を分ける明確な一線は、 金額の大小ではなく、盗むという行為をするか、 しないか、という一線である。 殺人と死刑も同じ論理。 (3)許す 減刑なしの終身刑にして、一生刑務所に入れる。 決して、許すわけではない。 日本には、終身刑がないという問題がある。 従って、その点においては、法の不備と言わざるを得ない。 死刑を廃止するならば、終身刑を設けるべきである。 無期懲役は、必ずしも、終身刑ではない。

tax_sos
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 個別に回答していただき分かりやすいです。 「許す」ことはやはりできないのですね。 被害者が「忘れる」「思い出等にして心にしまい込む」ということに 期待されているのでしょうか。 一方、「死」とは絶対的であり、それ以上加害者に求めることが出来ない 最高位の償い。

関連するQ&A

  • 死刑廃止論者

    重犯罪がお起こる度に、死刑廃止論者がプラカードを持って裁判所に集まり 「死刑を廃止しろ」と叫ぶ。 その人たちによると「ヨーロッパではすでに死刑が廃止している」という。 では、ヨーロッパの死刑とはどんなものだったのか。それは ギロチンです。 つまり、ギロチンは第二次世界大戦後も行われていて、フランスでは1980 年代まで続けられていました。ドイツ、オランダも同様です。 ギロチンによる死刑廃止が即ち全面的な死刑廃止となったのです。 そういうことを言わない死刑廃止論者は卑怯です。 切断された首が転げ落ちる様をヨーロッパの民衆は楽しんでいたのです。 これだけでも残虐な刑罰と言えますが、日本での斬首刑は明治時代の初期に 行われた以降は禁止になりました。西南戦争終了後に初代鹿児島県知事を 務めていた方の首を日本刀で斬首したのが最後と言われています。 斬首刑が残酷だから死刑を止めた国と同じように語られたら、日本の法律は ヨーロッパに批准し残酷性を止めるために死刑を廃止するという本末転倒の 論理になってしまいます。 どう、思いますか。 私はこのままの死刑制度で良いと思いますが。

  • どうしても理解できない「死刑廃止論者」の考え

    こんばんわ。 あの宮崎死刑囚に死刑が執行されました。 死刑判決から2年、事件から数えると20年ということですから、 「ようやくか。というか、まだ生きてたのか、こいつ」 というのが正直な感想です。 でも、世間では現鳩山大臣の下で死刑執行数が増えているということで (といってもまだ102人も死刑未執行の人間がいるんだぜ) またぞろ、死刑廃止論者達が騒いでいるようですね。 私は死刑制度存続論者です。理由は (1)人の命を(理不尽に)奪ったものは、(原則として)  自らの命で償うべきである。 (2)命を奪われた被害者、また被害者遺族の「仇討ち」を  国家は代行すべき義務がある。 大きくこの二つです。私は宮崎被告のような人間に人権は認めません。 とても残念なことではありますが、世の中には人権を与える価値の無い 人間がわずかながら存在します。そういう人間は社会の安全を維持し、 公正さを保つためにも、国家が粛々と抹殺しなければならないし、 またそういう権限を国家に堂々と与えるべきです。 死刑廃止論者は事あるごとに、「死刑廃止は世界の圧倒的トレンドだ」 などと言いますが、一国の法律論や刑罰論というのは、その国の歴史、 民族性、精神性、宗教観に深く関わることであり、「他国がどうだ」 などということは全く関係ありません。(日本人の価値観が変わらない限り)、日本が世界でただ一つの「死刑制度存続国家」になったとしても、なんら恥じ入ることはありません。 また廃止論者は「終身刑制度」を導入し、凶悪犯罪者の贖罪意識を なんとか起こさせることを言っています。 でも、例えば、この宮崎が、例えば終身刑で寿命まで生きて、 その間に悔い改めて、人間の心をとりもどす可能性が100%ありますか? もう一度聞きますが、100%ありますか? 100%の可能性がないのなら、上述(2)の被害者、被害者遺族の「仇討ち代行」が優先されるべきです。宮崎はこの期に及んで、「自分は無罪」とほざいていたようです。また「絞首刑」による死をとても恐れていたらしい。20年という長い時間をかけても悔い改められなかったこんな人間は、(残念ですが)、その恐れていた絞首刑によって、少しでも 被害者、被害者遺族の苦しみを知るべきです。 長くなりましたが、私はどうしても、どう屁理屈をこねられても、 「死刑廃止論者」の考えがわかりません。 私が間違っているのでしょうか? (補足)ただ、唯一、留保事項があるとすれば「冤罪」の可能性だけです。その意味では「冤罪は絶対に防ぐ」という前提が死刑判決には 求められるとは思います。しかし昨今の「死刑廃止論者」は明らかに 犯行が確定される容疑者(光市事件やこの宮崎事件)でも、死刑廃止 論をぶってきます。何故?意味が分かりません。

  • 死刑廃止について

    みなさんは、死刑廃止について、どう思いますか? 人を何人も殺し、逃げ回って、やっと捕まって、死刑になる。 通常、3人以上の殺人で、死刑になるといわれています。 しかし、犯した罪が重すぎる場合、一人の殺人でも、死刑になることがあります。 誘拐殺人 これは、最も重い刑罰です。 家族を殺された遺族。 そういう人の為にも、死刑は廃止してはならないと思います。 人の命を奪って、実刑になるなどとは、許されないことだと思います。 実刑になって、罪を償っても、殺された人は生き返りません。 自分の命で償うべきではないでしょうか? 本当なら、一人殺しても、死刑にするべきではないでしょうか?

  • 死刑廃止

        死刑廃止論者の方へ質問です。    最近「死刑になりたかったから。」という理由で人を殺す事件がよく起きているように感じます。  そこで、例えば、秋葉原の通り魔事件のような凶悪事件であり、冤罪の可能性は100%なく、精神的な異常もなく刑事責任が問える場合を考えます。(実際にこのようなケースが過去にあったかどうかはわかりませんが、決して現実離れしたケースではないと思います。)  このようなケースでも、死刑廃止を支持するのでしょうか?  私は、命よりも大事なものは無いと思っています。 死刑廃止を支持する方の中には、命の重さをその根拠にしている方もいらっしゃいます。しかし、私は命が一番大事だからこそ、だからこそ、命を奪った人はその一番大事な命をもって償うべきだと思っています。      

  • 日本人の死刑容認論は国際化の死刑廃止論に逆向してい

    日本人の死刑容認論は国際化の死刑廃止論に逆向しているものである。 しかし日本人の97%以上は他人の命を奪えば命で つぐなえ である。ただし明らかな犯罪の場合である。そんな中、国民の 心情 を無視し てまで 廃止するのか? である。ほんの 少数点数稼ぎの冤罪やらより 大量の自殺大国の 原因の削減にそれこそ命崖けで 取り組むべきが先ではないのか? よっぽど身内が殺されなければ解らないようだな?あのアマサンも?

  • 死刑廃止論者への具体的な反論ってありますか?

    先日、ネットで 「いかなる場合でも人が人の命を奪うことは許されない。故に死刑には反対である」という意見を見かけました。 私は、被害者感情や凶悪犯(更生の余地なし)の存在を鑑みると死刑制度の存続が妥当と考えます。 死刑廃止論者の方は、“死刑に犯罪抑止効果は認められない”や“更生によって犯罪者の社会復帰を目指すのが人権擁護の立場からすれば正当”や“世界の風潮は【死刑廃止】である”という意見で死刑廃止論を補強しています。 このような考えに対して具体的な反論ってありますか?

  • 死刑廃止論者

    先日、たかじんのそこまで言って委員会で 死刑廃止論者の菊田弁護士(元明治学院大学教授) 安田弁護士を含め光市弁護団を批判とも取れる発言をしていたのですが、菊田弁護士と安田弁護士の関係が気になります。 この二人対立してるのですか? 活動方針がまったく違うのでょう?

  • 死刑廃止に賛成な人へ質問

    死刑廃止論というのがありますが、私は反対です。 死刑賛成側の私の言い分は、 一度犯した過ちは加害者が更正したところで消える事は無い。 故意に人を殺め、どれほど償ったと言っても真実はわからない。 憲法は平等に人の命を最大限に尊重しているが、人を殺めた人間の命は最大限に尊重するに至らないと思う。 緩い法律に縛られるから甘えがでて殺人なんていうのをやってしまう。 「いかなる場合も家畜・奴隷を許さない」に但し書きで「人を故意で殺めたものはこの限りではない」みたいな物を付け足してほしい。 結局、殺人を犯した人間は更正なんてできない。「生きてその罪を背負え」と思う人もいるかもしれませんが、遺族からすれば当然死刑を願うのではないでしょうか。 遺族の意思は十分尊重する必要があると思う。 死刑廃止に賛成な人は何故、賛成なのでしょうか。

  • 死刑廃止したら

    死刑廃止したら殺人事件が減ったどころか増えてます。 アムネスティの死刑廃止したら殺人減少したと言う虚偽データ カナダでは1966年に死刑廃止以降殺人事件が急増している事が分かる サイトの下記のグラフ参照 http://www.geocities.jp/aphros67/090620.htm 死刑回避してしまうアホ裁判官も死刑反対とか言う人も殺された人の命よりも殺人鬼の命が大事と言ってるような悪人にしか見えませんね。 死刑廃止論者は死刑廃止したら殺人減少したと大嘘言ってまで犯罪者の命を庇う極悪人です。ある意味殺人犯より憎たらしいです 朝鮮人追放、傷害致死、殺人、強姦、飲酒運転と無免許運転と麻薬で死亡事故、強盗致死だろうと法改正し即死刑と言う法律が正常 刑法39条廃止、生野通り魔の在日と大阪の全裸でトラックで2人殺した在日が精神異常で無罪という異常な判決、不起訴処分。精神異常で殺人する怪物は死刑にするのが正常な感覚ですが刑法39条と言う危険な悪法が存在しています 被害者より加害者の命と人権を大事にする現在の法律は精神異常者が作ったとしか思えません。 ぼくは高卒で馬鹿ですが、有識者の皆様は いかがお考えですか?

  • 死刑廃止論者の死刑執行

    死刑廃止論者の死刑執行 千葉氏は死刑制度の廃止論者だったと言われていますが、法務大臣として2名の死刑執行を命令しました。省内からの圧力だったか、あるいは自らの選挙戦敗北から次期への布石が働いたのか、誰も真意は読み解くことはできません。 みなさんは、死刑制度の是非について、どのようにお考えですか? これは質問と言うより、「見方」をお聞きするものです。 このテーマはあまりに重く、簡単に何が正しいとか、おかしいとは言えない話題です。 人の普遍的な問題を含んでいるからです。 かつて、鳩山邦夫法務大臣は死刑囚をパッカパッカと13人も執行を命令しましたが、私は法務大臣の死刑執行の"命令"の有無はあまり大きな問題でないと思っています。なぜなら、最高裁など国の司法機関で法律に基づいて判断した以上、法務大臣がこれを否定するのもおかしな話ですから。 本当の論点は、「法的」な死刑制度そのものです。つまり、本当に国の機関が「人の死を決めていいのか」です。例えば、アメリカの大統領は、アフガンやイラク、ベトナムでも何万人という民間人を殺害してきました。しかし、その戦略を支持した大統領や国務長官などは有り余る報酬で老後を優雅に生活しています。そう言う歴史はよくある話で、日本でも起きています。「大量殺戮すれば免れ、数名でも個人だから死刑」という矛盾を含んでいます。 一方、自分の愛する子供を突然、殺されて心のやり場のない苦しみにある家族がいっぱいいるのも事実です。なぜ、最愛の家族を亡くしたのに、殺人者が刑務所で生きながらえているのかという絶えがたい憤怒が家族に湧き上がるのも必然です。全国犯罪被害者の会が今も立場を主張しています。 一方で、我々は、自分の「意志」でこの世に生を受けてきた訳ではありません。また、人を殺すために生まれてきた人もいません。近代の哲学者カントの認識論には、人間の思考にある後天的なものを明確に取り上げています。例えば、鳩山邦夫氏の両親が、小さい頃に離婚し精神的に情緒不安定になり、非常に生活にも困窮していたとしたら、場合によったら、窃盗や、生きるための非人間的な行動に陥ったかも知れない。これを100%、否定できないでしょう。人は誰も社会で育ち、規制改革などの失敗も含め、国の制度や施策の影響を受けています。自殺者が多いのも、ある意味、国の施策の原因が何パーセントかあるでしょう。 では、もし、刑務所内で飯を食って長らえているのは許せなくて、なんとか、死をもって償うこと以外、家族にとって許容できるものが無いという考えだけが優先されるとしたら、上記のような後天的な国が作った要因はどうなるのだろう?死刑を執行する国そのものにも遠因があるはずである。 さらに、死刑執行が本当の意味で、被害者家族に、苦しみを乗り越えられる安息を与えることになるだろうか?殺された愛する家族が戻ってこないという事実は、未来永劫、決して消えないし、結局、被害者自ら運命を乗り越える以外に無いのも事実である。 果たして、怨念と敵(かたき)によって、残された人間は苦しみを乗り越えることができるのだろうか?何も生まないと私には思えてしようがない。例え、国家であろうと、死刑制度は、人が人を殺すことに変わりない。冤罪の問題もあり、凶悪事件の抑止に直結するとも思えない。 内閣府の死刑制度に関する調査によると、最近は85%ほどが容認となっているようである。ここ何年か増える傾向にあり、秋葉原殺人事件のように「誰でも良かった」とするような理解を超えた残虐性が増えていること事にも原因があるのかもしれない。 一方、世界的には死刑制度は廃止の流れが強い。 みなさんも、是非一度、感情論だけではなく、人はなぜ生きてきて、何で苦しみを乗り越えられるのか、また、社会制度を果たして絶対的なものとして受け入れていいのか、自問して欲しい。