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もう一人自分が。

もう一人自分が欲しいなどと、ワケのわからないことをあえて考えていたら、二重人格になりますか?

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  • jume
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回答No.8

「性格」とか「人格」に当たる英語にpersonality(パーソナリティ)というのがあります.これは語源を辿るとラテン語のpersona(ペルソナ)という言葉に行き着くそうです.ペルソナはもともと「仮面」という意味を持っていました.それがキリスト教の用語としても取り上げられ,神の存在様式,すなわち三位一体の位を意味するようになりました.三位一体とは,キリスト教の神が「創造主(父)」としての顔と「贖罪者(キリスト/子)」としての顔と「聖霊」としての顔を持ち,元来,それらはひとつのものであるとする考え方です.つまりですね,神すらも「多重性」を持っているわけです. さて,もし多重性の仮面を剥いだらどうなるか?という疑問ですが,私は剥げないいんじゃないかな?と思います.たとえ剥いだとして「自分探し」とか「自己啓発セミナー」とか「新新宗教」が言うような「ほんとうの自分」なんてものは,存在しないのだと思います.そこには対象を志向する無名の心の動き(志向作用)だけが在るのではないでしょうか.眠ったときのご自身の志向作用を思い出してみるといいかも知れません.私たちは“わたし”すらない世界を彷徨っています.夢の中でも“わたし”は,はっきり志向されていないのではないでしょうか? そこで“わたし”とは海原に現れては消えるあの白い波頭のようなものだと考えてください.波は水と空気が絶えず接触することで生成し消滅する現象です.「水です」とも「空気です」とも言い切れない.この言い切れないところに波の本質が在る.つまり波とはその瞬間に生起した現象でしかないんです.そこで“わたし”の方に目を移してみましょう.宮澤賢治がその詩集『春と修羅』の序で面白いことを書いています.  わたくしといふ現象は  仮定された有機交流電燈の  ひとつの青い照明です  (あらゆる透明な幽霊の複合体)  風景やみんなといっしょに  せはしくせはしく明滅しながら  いかにもたしかにともりつづける  因果交流電燈の  ひとつの青い照明です  (ひかりはたもち その電燈は失はれ) “わたし”とは有機的につながった人間や風景の中で明滅する電燈のような現象なんですね.他者との関わりを絶って“わたし”というものは現象しない.だから原理的に仮面を脱いだ“わたし”は存在し得ないのだと私は考えています.ただし,眠っているときや何も考えずにボ~っとしているときなんかは,ときどき誰でもない自分が浮き上がってくるような気がします.もし仮面を脱ぐ瞬間があるとするなら,そういう時でしょう.つまり“わたし”を意識していない瞬間が仮面から解放される唯一のときなのではないでしょうか. すみません.後者,解離性のことについては,答えられそうにありません(前回の知識が限界です!).でも主人格以外での会話は可能だとか聞いたことがあります.あるいは会話できる人格とそうでない人格があるとか.曖昧です.記憶障害説以外には,河合隼雄が『コンプレックス』(岩波新書)という書物の中で,コンプレックス(感情の複合体)が自我を乗っ取ることだと書いていた記憶があります.これも曖昧.あとは脳の器質的障害とか(海馬の萎縮?).めちゃ曖昧.なもんで,前者「多重性」についての「仮面は脱げるか?」「仮面そのものを脱ぐと顔がなくなるか?」の方を,答えられる範囲でフォローしてみました.

caballero
質問者

お礼

恐ろしくお礼が送れて申し訳ありません。お礼を読んだそのときにかけなかったもので、すいません。 >風景やみんなといっしょに  せはしくせはしく明滅しながら  いかにもたしかにともりつづける その電燈が消えるのは 一つ つぶてが転がるのとかわらず  振り向けば手のひらに 知れないどんぐりが一つ ころり 私が消えるのは 石ころいっこころころと一緒です 電燈は失われ 光も保たれない 無数の波頭にも おいつけない 意識も伴わす 想い出も 始まってない 無数の波頭が 明滅してる 今ついた灯りが さっきついた灯りと 今またついた灯りと 朝、起きた僕は 宮沢賢治いわく明滅する青い照明ですが、滅の時は照明ではない事で、波頭のごとく、出たり消えたりですが、毎回、同じ電燈から発せられる青い灯りのみが僕であって、今ある目の前にある電燈と、後ろ向いて振り返った時にある電燈が同じであるという事が言えるのは、私が継続されている事の事実を証明するために必要で、また、私が継続されているのと同じ理由でその電燈も継続されているわけで、言い切れない独我論の「かもしれない」に終止符が打てそうな気がします。 さらに、壊れた電燈を見る人が見れば、コレはあの電燈の取っ手であろう。記憶を読み解く事が可能で、「見られてこそ」 明滅する波頭の話、非常に参考になりました。ありがとうございます。

その他の回答 (7)

  • orimoto
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回答No.7

【ANo.#3お礼への返信】 >この発言!スーパー強力!って思います。いかにしてかえうるのでしょうか? >ぜひ教えてください。お願いします。 よく人間の特性について、先天的、後天的と言うじゃないですか。この後者の部分について意識的に取得していくことによって、人間って変わるんだと思うんです。癖みたいなものから場合によったら性格まで。 だから「自分のこういうところがイヤだ」とか、「こういう風になりたい」とかいう願望とかをもつことが先決で、そしてその目標に向かって努力する。その努力で得たものが無意識に自分に潜在化したら、これは自分の変化だと思う。結局自分の変化って、願望の、脳への刷り込みだと思うんですが。

caballero
質問者

お礼

二重人格者は自我を二つ所有している人体というわけではないのですか? 例えば、一つの私はこと創作的で、日々の精進をめざし、いつの間にか表現力が向上している(できて当然、努力の結果の潜在化?)。かたやもう一つの私は遊人で、恐怖の忍者ごっこから生活的旅路まで、あらゆる体験をたのしみたがる。かたや事象を生み出そうと、かたや事象をとらえようと必死であるが、自我は一つである?。記憶は連動しています、、、。あ~あっ、あ~~ぁ、。皆さんのおかげで少し分かりそうです。自我って、チョッとで直してきます。 ありがとうございました。

  • jume
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回答No.6

「解離性同一性障害」というのが今の呼び方です.アメリカの精神医学会が定めているDSM-4という精神疾患の分類と診断の手引きの4版で,そのように定められました.それ以前は「多重人格」という言葉が用いられていたようです.このあたりはまだ流動的で,はっきりした共通見解が導きにくいという状況のようです. 人間は,一個の性格で成り立っているわけじゃなくて,幾つもの“わたし”で構成されているわけですが,それらの記憶の連関が途切れると「同一性」(アイデンティティ)が「解離」状態になるようです.その大きな原因の一つがいわゆる「幼児期のトラウマ(心的外傷)」というやつです.アメリカの場合,解離性同一性障害を引き起こす原因となるほとんどが虐待(精神的・肉体的・性的‥)によるようです. これは人間に備わった「防衛手段」だと言われています.子どもというのは,親に絶対的に依存しています.そのため親に見捨てられることを極度に恐れます.だから,親に叱られれば,大抵,おとなしくなります.普通の人はそうやって社会的な規範を身に付けていくわけです.つまり躾のメカニズムですね.デパートのおもちゃ売り場で泣きじゃくっている子がお母さんに「置いてくよ!!」って怒られていますが,そうやってみんな大人になっていくんです.虐待というやつも,基本的には躾と同じメカニズムが働いています.但し,躾に比べ,耐えがたい苦痛が子どもを襲います(このあたりは境界が曖昧です).そのとき防衛手段として,怒られているは自分じゃないと信じることによって,怒られている自分と,そうでない自分の記憶の連関を絶つわけです. 従って,自分が幼くて(noname#603さんに言わせると8才以下らしいですが),自分ではいかんともし難い辛い状況におかれていれば同一性が乖離することも起こり得ます.ちなみに解離性同一性障害の場合,いま意識されている自分ともうひとりの自分の間の記憶の連関が絶たれているわけですから,社会生活を営む上で非常な困難を要します.好んでなるようなものではないし,病気に苦しんで居られる方には社会的な支援があってしかるべきだと思うし,周りの人間の病気に対する正確な理解も必要かと思います. しかし普通の人が記憶の連関を絶つわけですから,ちいさな解離現象はそれこそ日常的に起こっていると言えそうです.自分にとって都合の良くないことを「抑圧」すると言う作業は人間の基本的な防衛機制としてフロイトが既に指摘しています.また「人が変わったように」という表現がありますが,やはり人間は一個の性格でかっちり決められていないように思います(パーソナリティの語源はペルソナつまり仮面だと言われています).わたしもsokuraさんがおっしゃるような“わたし”の複数化(これを心理学的には「多重性」と言います)を楽しむのが,いいのだと思います. 晩年のニーチェが叶わぬ想いを寄せたロシア人女性ルー・ザロメ(後にフロイトとも交流を持った)は,ニーチェを回想して「通常の生活において彼は非常に礼儀正しく,穏やかで,いつも好意のこもった落ち着きを見せていた.――彼は社交のもつ形式を楽しみ,自分でもそうした形式をもっていた.しかしそこには常に,仮装への喜びが潜んでいたのである――つまり,決して暴露したことのない,内面の生活を覆うためのマントと仮面への喜びがである」(三島憲一[1987],『ニーチェ』岩波書店より)と書き残しています.

caballero
質問者

お礼

>“わたし”の複数化(これを心理学的には「多重性」と言います)を楽しむのが,いいのだと思います。 多重性ですか、、、その仮面は脱げるんでしょうか?仮面がざまざまに変容はしますが、仮面そのものを脱いじゃうと顔がなかったりするんですか?(真剣) その幼少期に剥離してしまった記憶、仮に二つになったとすると、最初からの自分は当然嫌な思い出を持たない方に継続されるんですよね?この場合、仮面をつける本体の顔が二つできたってことなんですか。そして、もう一つの嫌な思い出をもつ記憶(顔)は別個に育っていくわけですよね、すると、認識器官、認識機能は、その二つの記憶に同時に働きかけるんですか?嫌な思い出が始まりの記憶の人をQとして、もともとからの記憶を持つ人をPとすると、Qは、PがもつQが生まれる以前の記憶を所有しておらず、PはQの管轄にある記憶には触れえないのか。これからの体験は、PとQにそれぞれ分別され、割り振られた記憶をPとQがそれぞれが所有するんですか?それとも、一つの事象で二つの体験。つまり、PとQはそれぞれの記憶を持つ事で、それぞれ固有の世界を有しており、肉じゃが一つ食べても、かたや「うまい」とかたや「まずい」ということが起こるのですか?あたかも他人どうしのように。それとも、やはりよく言うように、Qの記憶が変化している間は、Pは眠っている状態なのでしょうか?そこら辺がよく分からないのですが、ぼくとしては、多重人格者は、一人で会議や討論、けんかなどができる人だと思ってます。なぜなら一人ではないからです。一人がおきている間にも、もう一人は活動できるのではないかとおもっています。返信お待ちしています。ありがとうございました。

noname#603
noname#603
回答No.5

>がんばってね!? って、なにをハゲマサレル、、、、 >、、、ってなりたいのかなあ? そういうわけじゃないんですが、、、、 文脈で、なりたいのやら、わからなかったのですが、 どうかわからないので、”?”ですし、 もちろん、本気で応援してる訳もないのでしたが。 送られてくるレスなんか見ても、 ”あこがれ”ていらっしゃるそうで、なりたいのかな、 と思った瞬間、”そういうわけ”じゃなかったんですね。 だったら、”ハゲマサレル”のはおかど違いでしょうので、 さらりとお流しあそばせ。 ご存知のとおり、「多重人格」の治療で、激しい戦いを していらっしゃる方も沢山いらっしゃいますが、 なりたくてなれるものでもないし、 患者さんが現にいらっしゃるのに、 ほんと”がんばって”なんて、ないですよね。 お読みの方々には、大変失礼いたしました。 いつも、”がんばって”は使わないほうですが、 便宜上使ってしまいました。 これからも、やっぱ、使いません。きっと。

caballero
質問者

お礼

>患者さんが現にいらっしゃるのに、 確かに、病的なものとして苦しんでいる方もおられますが、うまく、同居人と共に暮らしておられる方もいると思うので、一概に励ますのが倫理に反するわけではないと思います。 >これからも、やっぱ、使いません。きっと。 いいじゃないですか!使っても。僕の返信も、あなたの回答にも非があったわけでは全然ないですよ!その、なんていうんですか、「?」の表現だとか、些細な事でも共感しているつもりです。  ですから、此処で私が聞いているのは「二重人格になるか?」ということです。 分かりにくい表記ですみませんでした。できれば、もう一度回答いただけると嬉しいです。 

  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.4

 いつも会っているような気がしていますが。で、回答は他の方が心理学で答えておられるので、文学にします。  埴谷雄高(はにやゆたか)という小説家を知っていますか?彼は、戦後文学の傑作「死霊(しれい)」を自己批評する中で、「私」という問題に触れ、無数の「私」が小人のように、「私」から飛び出ていく、というような表現をとっていました。  「もう一人の自分」は「今の自分」を意識している限り発生しません。「自分は自分」と判断する意識がある限り、小説的な幻想の中で、「もう一人の私」を楽しむのがせいぜいです。二重人格になったら、「自他」が同時存在しますから。  そこで、問題となるのが「私」という存在なのですが、これは、今の私の「役割」を単純に輪切りにし、割り振ったものにすぎず、「私」という 実体はありません。ですから、誰でもが、本当の「私」とは何なのか?という疑問を発するようになります。  そこで、「私」に与えられた回答は、「私」とは、その都度社会的関係の中で割り当てられたひとつの「役割=ロール」だ、という一般的な見解が成り立ってきました。しかも、これは、その都度右に左にゆれる「あいまいにして、統一性のない演技者=パフォーマーとしての私」ということになることから、一層現代人は「不安」のただ中にいる、というようなことになっていきます。  したがって、それを逆手にとり、「私」の複数化、これも「私」、あれも「私」というように、ゆれ自体を楽しむかのような考えも出てきます。  私は、そうした、さまざまな「自分」を楽しむことは、現代に必要な智恵と考えます。  小説の中、音楽の中、絵画のなかで存分に「二重人格」を楽しんでください。 良き作品とは、もう一人のあなたが、あたかも「今の世の中で呼吸をしているおまえは俺ではない!俺こそがおまえだ!!」と主張するかも知れません。自己抹殺の恐怖も味わってみてはどうでしょうか?   

caballero
質問者

お礼

>いつも会っているような気がしていますが。 いつもあってますよ~!もちろん。 >それを逆手にとり、「私」の複数化、これも「私」、あれも「私」というように、ゆれ自体を楽しむかのような考えも出てきます。 その小説家は知りませんがよくよく共感できます。現代では多くの人が実践されてるんではないでしょうか? こんな歌があります 「ぼくも~好きだよ~♪、 英文法~。」(ホントにあるんですよ!って) つまり、社会でもまれに見る学習形態、だがもうそんな事はどうでもいい、こんなマニアックで不思議なことをあえてしている自分に酔っちゃってます。「机にカリカリ~♪」ってなにやってんだこの演技派めぇ~。酔ってる場合じゃねぇ!このヤロウッ♪おれはいそがしいねんっ、しっかりせえってっ!オイ!・・っ・・・・。 >「もう一人の自分」は「今の自分」を意識している限り発生しません。二重人格になったら、「自他」が同時存在しますから。 この場合、二つの曲が同時になってても同時に聞けたりするんですか?私はコレ、君はコレってそれは無理ですね、、、。じゃぁこれは?私にはコレが見えているが君には見えていないのか?って状況、考えられるような気がするんですが。 ぬぅ~。二重人格、多重人格、記憶は一つではないのか?言葉が一つではないなら。 >自己抹殺の恐怖も味わってみてはどうでしょうか? こえぇ~よ~~;_; それだけは~って感じだったはずなんですが、なんかマヒしてる、、、。 ありがとうございました。

  • orimoto
  • ベストアンサー率32% (130/406)
回答No.3

「もう一人の自分が欲しい」と考えなくても、1人の人間の中に複数の自分がいることが、脳生理学で解明されたということを、本で読んだことがあります。発見者はザリガニという人だったと思います。 では通常なぜ人間は1人の自己としてふるまえるのか?それは、複数の自分を統合する「自我」が存在するからだそうです。これがなにものかの追求が、脳生理学でなされているといいます。 だとすると、もう一人の自分が表面に出てきたらならば、これはいわゆる二重人格です。1人の人間が一つの自分を持つ状態が、自然の姿であるわけです。 一方心理学では自分を「自我」と「客我」にわけて考えます。サラリーマンで言えば、「自主的な自分」と会社から「期待される自分」です。しかしまともな人間は、この2つを同時に演じることが出来ません。2つの間にはつねに葛藤・妥協があります。そしていままでは「期待される自分」にかぎりなく近づいていました。これが会社人間です。そしていまは、「自主的な自分」になることが重要だという反省が出ています。 こうした脳生理学・心理学の先端的研究成果を踏まえると、「もう一人の自分が欲しい」というのは、単なる願望で,もし実現したとしたら、それはもう病的な状態です。 人間は1つの自分しか持てないようにできているのです。 ただしそれを変えることはできますが。

caballero
質問者

お礼

>ただしそれを変えることはできますが。 この発言!スーパー強力!って思います。いかにしてかえうるのでしょうか? ぜひ教えてください。お願いします。

  • KINGBIRD
  • ベストアンサー率53% (597/1108)
回答No.2

 多重人格とは乖離性人格障害のことですね。  人はよく、日常会話でも「私って二重人格の気があるの」などといいますが、一人の人間に両極端な面がいくつもあることは多重人格と呼びません。  心理学では、人の心が自分では耐えられないほどのダメージを受けた時に、「これが自分でなければひとごととしてやりすごせる」ために作り出される人格であると捉えられています。  多重人格者のほとんどは過去に過酷な性的虐待のあとがあるといわれているそうですが、それは上記の理由からです。    ですから、「あえて」という言葉には他者に強迫された切羽詰った響きは私にはあまり感じません。(むしろ、自己嫌悪からくる現実逃避っぽい?)多重人格者になりはしないと思います。  もっとも、あなたが暴力にさらされ、逃れられないという閉塞感を感じておいでなら何らかのアクションをとる用意があります。gooを通じご連絡ください。  深刻な場合は手助けできることは少ないと思いますけれど、この場に発言した者として。

caballero
質問者

お礼

>ですから、「あえて」という言葉には他者に強迫された切羽詰った響きは私にはあまり感じません。 そうです、全然切羽詰ってません、、、(;_;)(ご心配してくださってホントに感謝しています。うれしいです。でもあえて言うなら、さらされているといえないこともないですが、、、) >むしろ、自己嫌悪からくる現実逃避っぽい? はは、いや、う、全然好きですよ、又、現実から逃避なんておよそ不可能と考えているのが、私の「現実」ですし「幻術」には興味ありますが、逃げたいわけじゃぁあろませんよ。 >これが自分でなければひとごととしてやりすごせる ということはその場合のもう一人は、常に泥を喰うような状態なんですか?

noname#603
noname#603
回答No.1

あえて、だと無理かも。 多分、8才以下だったらなれるかも。 がんばってね!?、、、ってなりたいのかなあ?

caballero
質問者

お礼

その8歳ってどこからきたのかは疑問ですが、劇的じゃない!二重人格!その点で多少あこがれますが、同居人にもよると思います。 >がんばってね!? って、なにをハゲマサレル、、、、 >、、、ってなりたいのかなあ? そういうわけじゃないんですが、、、、

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