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国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.8

最終報告m(_"_)m No.7投稿お礼欄の御言葉を拝見する前に作成完了していた最後のボツネタを一つ^^ その前に、 >本文は、「天長節紀元節等の祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」 肝心の部分を見落としていました、大変失礼いたしました。 >「日の丸記載無し」 仰せのとおりですね。 >「福井県史」 この背景色と書式、以前見た記憶が蘇りました^^ 貴重な情報をありがとうございます。 ----------以下(ボツネタ)---------- またまた追加投稿失礼致しますm(_"_)m 中味が薄くツッコミどころ満載と自認する我が身としましては、 少しでも空白?部分を埋められないものかと思案し、 断続的に明治前期の政府・地方行政の検索作業をしてみましたところ… トンデモ文言に出会しました。 〇『秋田沿革史大成.下/橋本宗彦/橋本宗一/明31.11』 <254/531>(482頁4行目~) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763199/254 ○國旗ヲ揭クルハ明治十年彼ノ鹿兒嶋戰爭ノ際九月二十四日賊ノ城山ヲ攻メ落シタリ 此ノ報ヲ得ルヤ政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト 此トキ本縣各郡區長ニ令シテ國旗ヲ揭ケシム 爾來祝祭日及ヒ自己ノ祭日ニモ之ヲ揭クルモ防ケナシト 卽日ノ丸ニ地白ノ竪二尺五寸巾三尺位ヲ法トセリ 後大ナルモノヲ製スルモ随意トス(大喪ノ際ニハ國旗ノ上ニ同巾ニシテ竪三寸位黑布ヲ付ク) 上記が事実なら明治政府の積極性を示す傍証となるはずですが、 残念ながら当時から20年経過し編集・発行も個人名の一般書籍ゆえ、 裏付け作業に入りましたが、足取りが掴めません。 明治10年9月以降明治10年内と11年の太政官布告・達にとどまらず、 内務省達、陸軍省達などまで範囲を広げましたが、WEB上では見当たりません(><) 私の見落としも有り得ますので、視点を変え、他府県を当たってみました。 WEB限定のため、止むを得ず編集・発行個人名書籍や出所不明分等も含みます。 ※布告=明治19(1886)年2月26日公文式制定以前に発布された命令・法律の類、太政官布告など。 ※布達=明治19(1886)年公文式制定以前に太政官の発した法のうち各庁を対象とする達、 縣から区長戸長等への達など、また官公庁等が広く人々に知らせること。 〇『愛知県布達索引:沿革備考.第一巻/村木鶴次郎編/村木鶴次郎/(明治17出版)18再版』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788157/38 <38/176> 第三編 條規 第貳章 祭祝日 ・明治06.09.15/無號布達/御祭祝日ハ日章國旗ヲ揭クヘシ ・明治06.10.22/無號布達/御祭祝日及國旗揭揚方ヲ示シ最前ノ日並ヲ取消ス ・明治11.06.12/甲第112號布達/六年十月無號布達國旗揭揚日ニ春秋二祭ヲ追加ス 〇『岡山県布達類集全書.上/岡山県/明30.12』 <4/245> 第一類 祭日祝日 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788347/4 ・丙第20号/明治08.12.26/(省略) ・甲第106号/明治09.09.22/是迄國旗揭表區々有之候處  以來ハ左ノ御祝祭日ニハ一般揭表可致此旨普達候事 年中國旗揭表日 (省略) ・大和文化研究 http://www3.kcn.ne.jp/~hata6144/HUKOKU72.htm 明治七年/祝日に旗を掲揚すること 第八十七号 歳中祝日ニハ別紙雛形之旗ヲ各大区会議所並学黌エ可致掲表 其他区戸長始家々ヘ同様之小旗ヲ掲候義ハ可為適宜 尤掲ケ方ハ短キ竹竿ニ付シテ各家之軒先ヘ斜ニ差出置可申候事 右之趣管内無洩相達者也   明治七年三月 奈良県権令藤井千尋 (図省略) など祝祭日に関する明治一桁年の「日の丸」掲揚は見出せますが、 現時点では秋田事例と同等内容は見出せず確認が取れません。 各府県全てを検索するのは時間的に無理ですが、 明治10年以前の他県布達状況から察すれば、秋田事例は採用出来兼ねます。 でも、開港場県庁は5年余りでの掲揚廃止措置に、 明治中央政府の当初の消極性を疑わなかった私は、 明治一桁年の地方行政の状況を全く調べもしていませんでしたが、 秋田事例により、明治一桁年の地方行政側の積極性の有り様が見えてきました^^ 一つで全てを語るのは無理があるのは承知していますが、 明治6年頃の東京府下の周知状況から数年の間には、 畏まった国旗と捉えるか、祝祭日・催事の飾り物の一つ程度の捉え方かを別にすれば、 他府県下でも周知は進み、学校の義務教育化(明治23年)を待つまでもなく、 明治10年前後には概ね認識されていたのではないかと。 またNo.7投稿の行幸・行啓等にともなう催事などは限られた地域とはいえ、 それ以外の学校とは限らない奉祝催事や一般の家々も含めれば、 徐々に「日の丸」掲揚・飾付を見る場面も増えていったのではないかと。 あと、子供も含めた情報弱者問題につきましては、 No.7投稿「遅くとも明治23年の義務教育化以降の数年内」部分を削除、 「早ければ東京府下と変わらず明治6年頃、遅くとも明治10年前後」に変更したいと思います。 もちろん、布達ですから行政側からの奨励に過ぎないため、 各戸への伝達には地域毎の温度差はあったかもしれませんが、 見慣れない物を見れば話題にのぼるのは世の常、口コミを馬鹿にしてはいけません^^ また周知・認識し得た事とは別に、 御指摘の「そんな時代に通達・布告が徹底できたのか疑問です。」の件は 確かに(国旗か飾り物かの捉え方は別としても) どの時点で、どの地域で、どの程度受け入れられ祝祭日等に 家々の「日の丸」で埋め尽くされるに至るかまではハッキリしませんが、 何しろ「表札」よりは高値でしょうから^^ 今の世でも、維新前後や明治期の遺恨を語る人々がいらっしゃいますから、 熱さめやらぬ当時ならば、なおさら、地域によっては反発が強かったのは確かだと思います。 当時直接関わった人々やその親族なら、中には生涯反目を通した方々も居たかもしれません。 でも一般の民はどうでしょう?善くも悪くも民は「したたか」、 本音とは裏腹でも新政府との付き合い方の術は心得ていたのではないかと。 (誠にもって都合の良いフレーズですが…苦笑) まだまだツッコミどころは有ると思いますが(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^ ----------以上---------

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 『秋田沿革史大成』記載の 「國旗ヲ揭クルハ明治十年彼ノ鹿兒嶋戰爭ノ際九月二十四日賊ノ城山ヲ攻メ落シタリ 此ノ報ヲ得ルヤ政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト…」について。 「西南の役」は、「鹿兒嶋戰爭」と呼ばれていたのですね。 それがいつしか中央集権が進んで、東京から見て西南の辺りの戦争となったのでしょうか。 つまらぬことばかり気になっています。(独り言) 「政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト…」ということは、明治10年9月当時、わが国の家々には国旗があったと、政府は認識していたことになりますね。 #5のご回答に、明治7年2月 筑摩縣で「旗日布告畫とき 國旗を製して戸毎にくばる」の郵便報知の記事がありますが、もしかすると全国あちこちでこんなことがあったのかも知れません。 小さな疑問は尽きませんが、「日の丸が一般民衆に周知されたのは」の疑問は、#7のご回答で解決したと喜んでいます。

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