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喫茶店の思い出
- 喫茶店が絶滅の危機に直面している中、その重要性を振り返ります。
- 喫茶店は恋愛や友人の交流、飲食の場として多くの人々にとって特別な存在でした。
- 現在の状況は残念ですが、喫茶店への思い出や感謝の気持ちを共有しましょう。
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いやあ、大人になって思いましたけれど、 「休憩する」「一服する」という意味合いに於いて昭和な喫茶店こそ最強です。 チェーン店の中でその雰囲気を出せるのはルノアールくらいなものです。 (首都圏の人にしか分かんないでしょうが、サラリーマン御用達のちょいと高級な喫茶店) シアトル系のコーヒースタンドじゃ出せないオーラがそこにはあります。 閑話休題。 私が子供の頃にはまだスタバも無く、マックのコーヒーはほとんど白湯のような味でした。 まだ小学生にもなっていない頃、親父がサボる口実として喫茶店に連れて行かれました。 紫煙の立ちこめる店内で、我々兄弟はむさぼるようにマンガ(主にジャンプ系)を読み、 当の親父は(我々には見えない様に)賭け脱衣麻雀をやっていました。 ジュースは飲めるしマンガ読み放題。大好きでした。 うちの近所のガキは毎週ジャンプ買ったりしてませんでしたので、 アニメの半年以上先の展開を知っている我々もちょっとしたヒーローになるわけで。 唯一嫌な顔をしていたのは母親ですけどね(苦笑)。 時は流れて中学生。 親と行動を共にする事は無くなり、友人達だけで出かける日々。 多少の小銭は持ってるけど、喫茶店に入るなんて大人のする事、そういう時期です。 ある年の大晦日。友人と初詣に行くと言って深夜に出かけました。 そう、1年でこの日だけでは親公認で夜遊びオーケー。 ハイテンションで騒ぎまくり、自販機でビールを買って防波堤で初日の出を拝み、海に空き缶を投げ捨て(ごめんなさい)、 ようやく初詣に向かおうと思ったけどお腹がすいた。 コンビニも近所には無くて駅前をふらふらしてたら早朝から(多分終夜営業してた)開いてる喫茶店を発見。 おっちゃん達にまぎれて中坊4人でカレーとコーヒー。なんかいい気分でした。 さらに時は流れて高校生。 自宅にサイフォンと直火式エスプレッソマシーンまで揃えた自称コーヒー通の私。 とある校外の式典に出席した帰りの事、友人の2人でふらふら自転車こいでたらこだわりのありそうな喫茶店発見。 コーヒーだけで20種類くらい書いてあるお店です。 自称コーヒー通としては見逃せぬと早速入店。 いろいろある中で、妙に目に付いた「ウィンナーコーヒー」を何も知らずに調子こいてオーダーする私。 運ばれて来たのはホイップがしっかり乗ったコーヒー。そこまでは想定の範囲内。 想定外だったのは、リキュールが入っていた事。そうキタか。 ※ウインナーコーヒーは別にリキュールを入れるのがスタンダードと言う訳ではない。 もちろんすました顔で飲み干して、多少ふらつきながら帰路につきました。 ついでに大学生。 すでにスタバもドトールもよく見かける時代になっていましたが、 私がすんでいた大阪の下町にはまだまだ沢山の喫茶店がありました。 自宅の隣にあった古ぼけた喫茶店。老夫婦がやっているお店でした。 ご近所と仲良くせねば、と、ほぼ毎朝朝食(200円でコーヒー、トースト、ゆで卵)を食べに。 寡黙なご夫婦でしたが、少しずつ世間話なんかもするようになり。 ある日、私の自宅のドアノブに袋がぶら下げられていました。 中にはメッセージが書いた紙切れと本が2冊入っており、そのご夫婦からの贈り物でした。 ………がっつり某新興宗教の本でした。 そこから徐々に疎遠になったのは言うまでもありません。
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おはようございます。 isokenさんとこの類の話は面白いのでもう一度だけ・・・ ポーカーゲームで全財産を使い果たし世田谷まで歩いて? 泣きたくなりましたか?(大笑) 私は歩いたことはありませんが随分な距離でしょうに。(笑) ビール壜で殴られたのは私の実体験です。 新宿の雀荘でやくざ者に殴られました・・・学生の頃の話です。 映画館が「武蔵野館」であったかは覚えておりません。 今のビックカメラの看板の横の小さな映画館だったように思います。 スピルバーグの初めて監督した映画「激突」はここで観ました。 上手な監督だと思った記憶があります。 万年東一の話をしましょう。 仰るとうり名利のようなものには恬淡のような人だったようです。 渋谷では安藤昇、新宿では加納貢この二人が舎弟分で・・・。 isokenさんは宮崎学は御存知でしょう、あのグリコの犯人に間違われた、 この人の「突破者」、あるいは「不逞者」いずれも面白いのです。 未読でしたら是非!!それぞれ厚い本ですがisokenさんなら飽きないでしょう。 花形敬、良家の坊っちゃんだったそうですが、 当時、日の出の勢いの力道山をして謝ると言うのですから、 「ステゴロ最強の男」、むべなるかですね・・・ 花形敬については逸話含めて沢山あるでしょう。 同じ宮崎学さんに「万年東一」、上・下があります、共に厚い本ですが、 これもisokenさんなら面白く読めるでしょう。 安藤、加納、花形・・・当時の事情がとても詳しいのです。 「人斬り小光」は仰るとうり爆弾マッチ・・・ でも、そのあとは雀荘などで不自由なマッチのかわりに、 牌を揃えてあげたり、とても仲の良い関係になったようですね。 どうも長々と質問と関係のない話を・・・・ 考えてもおられないでしょうが、 BAは候補にも入れないでください、私は楽しい話で充分ですし、 また楽しい質問をしてください。
お礼
再度の御回答、ありがとうございます。 我々がやり取りしますと、どうしても話がそっち方向に流れてしまいますね、まあそれはそれで楽しいのですが・・。 さて今帰宅しまして、書斎の本棚を覗いて見ましたら、「突破者」「不逞者」「血族」他、宮崎学氏の本が6冊有りました。 正直言って、彼の著書に関する印象は薄かったのですが、折に触れ読み返してみたいと思います。 何しろ興味深い経歴をお持ちの方で、京都の博徒を生家に持ち、大学入学前後から左翼活動に奔走、その後地上げを生活の糧とし、以降作家として歩む、まあ絵に描いた様な波乱万丈の人生。 以前「朝まで生テレビ」のパネリストとして、よく御出演されておられましたが・・。 >ポーカーゲームで全財産を使い果たし世田谷まで歩いて? 当時まだ学生でして、バイト先であった青山の少し高級な居酒屋(余談ながらこの店の隣りが、バーブ佐竹が経営するナイト・クラブでした)の仲間と共に、時折お店がはねた後タクシーで新宿へ直行しておりましたが、何しろ勝てない、今思えば当然なのですが・・。 散々バイト代を巻き上げられ、今日負けたらちくってやろうと思って行ってみると、既にがさを喰らって普通の喫茶店に様変わりした後、悔しいやら・ほっとするやら。 まあ新宿とは面白いところです、まさに人間の欲望が渦巻くカオス、そしてそこに繋がるビジネスは、それこそ合法・非合法を問わず枚挙に暇がない。 何しろ世界有数の歓楽街ですから、当たり前といえばそうですが。 またお付き合い下さい、ありがとうございました。
こんばんは。 喫茶店の思い出? 纏わる思い出と言っても・・・僅かな期間ならありますが。 私、受験に失敗しましてね一年ほどの浪人生活があります。 高田馬場の予備校に通いました。 講習の前、喫茶店で時間を過ごすのが日課でした。 駅を出て左に100Mくらいの場所の小さな喫茶店でしたが・・・ モーニングセットのおにぎり2ヶと味噌汁、それとコーヒー、 それで当時50~60円、100円はしなかったでしょう。 やはり辛くて暗い思い出しかありませんね。 何が辛いと言って人に遅れる不安でした。 たまにガロの「学生街の喫茶店」を耳にします。 何やらあの頃の自分が懐かしくもあります。 おかげさまで次の年には入学出来ましたので、 以来、喫茶店なるものにはとんと御無沙汰で今に至ります。 西部新宿線の終点は西部新宿駅、降りれば歌舞伎町です。 歌声喫茶、シャンソン喫茶と随分あったように思います。 シャンソンの好きな連中は銀座の「銀巴里」などへも足を伸ばして・・・ 私や友人は硬派を気取っておりましたから、 軟弱な奴らだと悪態をついておりましたけど(笑) 私は渋谷はあまり知りませんでしたけど、 新宿、馬場は殆ど毎日飲み屋街を彷徨ってました 新宿西口などは今では高層ビルが立ち並ぶお洒落な街ですが、 当時はまだ少し尾津喜之助の「光は新宿から」、あの言葉のように、 戦後のマーケットの匂いが残っていたように思います。 売春を仲介する屋台が何軒かありましたものね・・・。 たまに新宿へ寄ることがあります。 「しょうべん横丁」、今は「思い出横丁」と言うらしいのですが、 あの一角だけ時代にとり残されたように残っています。 新宿で朝を迎えて友人数人と呑みなおしたことも、 今となってはもう懐かしい思い出です。 自堕落としか言いようのない毎日でしたね。 さすがのisokenさんもビール壜で殴られたことはないでしょう? 映画ですと「カシャーンパラパラ・・・」と乾いた音ですが、 本当に殴られると「ゴンッ・・」と鈍い音がして頭から血がタラタラ(笑) 酔ってるからでしょう、痛くはありませんが顔が血でぬらぬらして・・・ 喫茶店の思い出でもう一つ、 当時、三越の裏に万年東一が何時もいるという、たしか「白ゆり」? 遠くからでも不良の神様の尊顔を拝したいものと、 捜しましたが見つけることが出来ませんでした。 運が良ければ「人斬り小光」こと小林光也にも会えたろうにと・・・ これは今でも無念です。
お礼
こんにちは、回答ありがとうございます。 >モーニングセットのおにぎり2ヶと味噌汁、それとコーヒー、 >それで当時50~60円、100円はしなかったでしょう。 恐らく10年程度下った私の時代ですと、トースト・ゆで卵・ミニサラダ・コーヒーというラインナップで300円前後、僅か10年で数倍とは、世の中インフレ傾向で、給料は上がるが物価も上がる、そういう時代であったろうと。 ところが今の物価水準は20年前とさほど変わりが無く、消費マインドも長期低迷ときている、個人経営の喫茶店がやってゆけなくなるのも、むべなるかなですね。 >たまにガロの「学生街の喫茶店」を耳にします。 >何やらあの頃の自分が懐かしくもあります。 当時中学生でしたが、この頃の歌が最も私の琴線に触れます。 あっという間にスター・ダムに上り詰め、潮が引くように消えて行った、ガロとはそんな印象のグループでした。 ところで先日、とあるTV番組に恐らく何十年振りかでマークが出演して、トミーが自殺に至った原因を吐露しておりましたが、彼らの全盛時代から早40年、歳を取るはずです。 >新宿西口などは今では高層ビルが立ち並ぶお洒落な街ですが、 >当時はまだ少し尾津喜之助の「光は新宿から」、あの言葉のように、 >戦後のマーケットの匂いが残っていたように思います。 戦後のアウトローな匂いを、長らく残していたようですね、終戦より10数年は、テキヤさん全盛の時代であったとか・・。 >「しょうべん横丁」、今は「思い出横丁」と言うらしいのですが、 >あの一角だけ時代にとり残されたように残っています。 ああ新宿大ガード先の、雑多な通りですね、確かその先に武蔵野会館?があった記憶が・・。 戦後の闇市の系譜を引くのは、最早あの一角だけらしいのですが。 >新宿で朝を迎えて友人数人と呑みなおしたことも、 >今となってはもう懐かしい思い出です。 私は歌舞伎町のポーカー・ゲーム喫茶で電車賃まで使い果たし、世田谷の自宅まで歩いて帰った事が有ります、それも2度ばかり。 深夜の甲州街道をとぼとぼと下る姿はそれはもう惨め、幡ヶ谷の交差点を左折する辺りでは、泣きたくなったものです。 >さすがのisokenさんもビール壜で殴られたことはないでしょう? turukamejirouさん御自身の体験談でしょうか?、私は荒事は苦手でして、やくざ好き・暴力好きは映像の中だけと決めております。 >当時、三越の裏に万年東一が何時もいるという、たしか「白ゆり」? >遠くからでも不良の神様の尊顔を拝したいものと、 >捜しましたが見つけることが出来ませんでした。 「不良の神様」又は「元祖愚連隊」、その筋では有名な方ですからねぇ、当然名前は知っておりますが、確か安藤昇の兄貴筋だったでしょうか? まだそんな方が御健在の時代でしたか、何でも至極名利に恬淡なお人であったとか、尚「白ゆり」⇒「白十字」ですね。 ところで私の憧れは、「ステゴロ最強の男」花形敬、言わずと知れた安藤昇の舎弟ですが、ネットに生前の写真が何枚かアップされておりまして、私の勝手な想像とは随分と異なる印象です。 >運が良ければ「人斬り小光」こと小林光也にも会えたろうにと・・・ >これは今でも無念です。 確か「爆弾マッチ」の片腕を叩き切った人であったかと・・。
お礼をいただきまして、ありがとうございます。 ”渋谷プリンス”、ご存知ですか。そうです、確か、あの、ごみごみしたあたりはセンター街と呼ばれていました。で、もう一度計算をしたところ、私の大学時代も1974-78年でした。重なりますね~。 私の認識では、ロック喫茶という風ではなくて、”ほぼ何でもあり”のリクエスト可能の喫茶店です。アース・ウィンド・アンド・ファイアーがよくかかっていて、私がたまに”涙が微笑みに変わるとき”をお願いしても、かけてくれましたので。。。演歌でなければ、なんでもあり、だったのではないでしょうか。 リクエスト曲をかけるときに、DJさん、”渋谷プリンス・プレゼンツ~”と叫んでいませんでしたか???isokenさんは、リクエストなさったこと、ありました? あのお店をご存知の方に遭遇するとは。。。奇遇です。 私はヒューストンに越してきて、もう二十五年になります。 中心地はほぼ何も変わっていないですね。ダウンタウンからミュージアム・ディストリクト経由で、旧アストロ・ドーム終点で、ささやかな路面電車ができたぐらいですか。(当初は、電車が来たとき、運転者がどうしたらいいか、とっさの判断を間違えた事故が頻発していました。)アストロ・ドームも先月の選挙で、維持費軽減のため、とり壊してしまう、と決まったようです。市街地を取り囲む住宅地がさらに、平らかに広がりました。 バーベキューとテックス・メックスを召し上がりに、いらしてください。とはいえ、ヒューストンは、観光資源が何もないのが、問題でして、日本の家族も友人も、なかなか遊びに来てくれません。
お礼
再度の御回答を賜りまして、痛み入ります。 尚Ciaopolpoさんの方が、私より若干先輩に当たられるようです、大きな口を叩きまして、誠に失礼しました。 >リクエスト曲をかけるときに、DJさん、”渋谷プリンス・プレゼンツ~”と叫んでいませんでしたか???isokenさんは、リクエストなさったこと、ありました? ところで件の「プリンス」、DJが何やら叫んでいたのと、やたらとジャクソン5がお好きであったとの記憶はありますが、どうにも思い出せません、悲しいかな全ては忘却の彼方です。 >私はヒューストンに越してきて、もう二十五年になります。 ・・とすると平成元年前後、学術的には既に始まっていたバブル景気のタイムラグが、そろそろ庶民に波及し出した頃であろうかと、それにしましても四半世紀、昭和の終焉と共に祖国にも別れを告げられたといったところでしょうか。 さて私も当時は日本におりませんでした、但しそれがその後僅か15年の間に、3ヶ国9年に及ぶ海外赴任の端緒になろうとは、思いもよりませんでしたが・・。 ただサラリーマンの海外赴任は、帰国する事が大前提ですから、Ciaopolpoさんのケースとは明らかに異なり、現地に溶け込む努力やその他諸々を、おざなりにしたきらいは否めません。 しかも味覚が年々保守的になってきている自分を自覚しておりまして、ロング・ステイであればともかく、永住は難しいようです。 >バーベキューとテックス・メックスを召し上がりに、いらしてください。 メックスと名が付きますから、メキシコに関する何かとの想像は働きましたが、なるほどメキシコ風テキサス料理でしたか。 仕事柄それなりに海外と関わって生きて参りましたが、個人的に最も縁遠いエリアが恐らくアメリカ、何度か行きはしましたが、未だ何も知りません。 一方ここ最近訪れるのは東南アジアか東欧ばかり、たまにはいいのかも知れませんねアメリカ南部、ヒューストンは確かユナイテッドの本拠地でもあったかと・・。
- domaine-espoir
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こんにちは。 喫茶店で印象深いことは、子供の頃、とてもたくさん有りました 毎週日曜行っていました 家族や濃い知り合いの人で その回ごとに1人か2人は都合で変わっていましたが。 まだ小学校にも入っていないときから行っていたらしいし、 そのときから大人の話というのに、耐性がついたみたいです。 ただ、大人になって、そんな大人の話にちっとも感心しない自分もいます 話、かわって 喫茶店が独自に準備してて読める本や雑誌って、貴重です とくに個人のひとがやってるお店だと、 その人の感性がもろに伝わってくるし 自分に伝わってくるものだと、 良い気分のときに遭遇するとついお店の人に話したくなる あと、鉄板かも知れませんが、 ケーキやトースト類、そのほかで そのお店だけの独自のお得意ものがあると、 つい頼んでみたくなります そうじゃなくても、昭和の香りが結構する喫茶店で、 ナポリタンやオムライス、ミッスクサンド、クリームソーダなんか、良いですよね 全国チェーンじゃなくて、地域で同心円状に広がっている喫茶文化 地域を隔てても同じものがあったり、違うものがあったり。。。 楽しいですよねぇ、話すと。
お礼
回答ありがとうございます。 >喫茶店が独自に準備してて読める本や雑誌って、貴重です まあお店のコンセプトにも依りますが、私にとっての喫茶店には、漫画とスポーツ新聞、そして可愛いウェートレスさんは不可欠でした。 トーストを齧りながらスポーツ新聞に目を通す早朝、それはもう一人前になった気分。 >そうじゃなくても、昭和の香りが結構する喫茶店で、 >ナポリタンやオムライス、ミッスクサンド、クリームソーダなんか、良いですよね かつて多くの洋食を喫茶店で学んだものです、尚付け加えるならば、カツカレー・ハムトースト・ピザトースト・ポークジンジャー、その辺りでしょうか。
- santana-3
- ベストアンサー率27% (3891/13901)
再度お邪魔します。 今から30年以上前ですが、秋葉原でアンプの真空管を探して、徒歩で神保町に行き古本街で物色し、御茶ノ水の「穂高」で一服するのが楽しみだった事がありました。 この穂高は今もありますね。小説にも登場する「由緒正しき喫茶店」ですね。 山にも登っていた私は、この店に出入りする事で一種の優越感に浸っていました。 当時の御茶ノ水には色々な喫茶店がありましたが、時代の流れで殆ど消えてしまいましたが、昔馴染みの店を見つけるとタイムスリップしたようで感無量です。
お礼
再度の回答、恐れ入ります。 >御茶ノ水の「穂高」で一服するのが楽しみだった事がありました。 その喫茶店の事は勿論存じませんが、その昔少々郊外に至りますと、コテージ風の喫茶店をよく見掛けたものです。 「チロル」他、山に因んだ店名の喫茶店も、少なくありませんでした。 尚話が横道に逸れまして恐縮ですが、今春初めて飛騨高山に参りまして、「新穂高ロープウェイ」で山頂から散見し、その後「穂高荘」という、露天風呂へリフトで降りて行く、そしてその露天風呂がやたらと広い旅館に宿泊しました。 「穂高」という名を拝見して思い出した次第ですが、それにしても何十年も前の事は鮮明に記憶していながら、僅か数ヶ月前の事がこのありさま、不思議なものです。
- greenglass2012
- ベストアンサー率17% (23/133)
学生時代阿佐ヶ谷の駅近くの喫茶店によく入り浸っていました。 オーナーから暇の時でいいから手伝ってくれないかと言われ バーテン見習いをしたことがあります。夜は飲み屋に変わり そっちの方も手伝いました。いろんな話が聞けて結構楽しい 思い出です。それとは別に昔は純喫茶という看板を掲げた 店をよく見かけましたが今はほとんど見かけませんね。 純喫茶、なんともいい響きじゃないですか、ウチの店では アルコール類は一切出しません、というオーナーの潔さが 感じられます。そういう看板を見るとつい入りたくなってしまいます。
お礼
回答ありがとうございます。 >学生時代阿佐ヶ谷の駅近くの喫茶店によく入り浸っていました。 中央線沿線・学生の街、阿佐ヶ谷の面目躍如ですね。 私は東京出身なので、遂に叶わぬ夢と終わりましたが、個人的にイメージする中央線沿線は、「神田川」そして「同棲」の世界でした。 >それとは別に昔は純喫茶という看板を掲げた >店をよく見かけましたが今はほとんど見かけませんね。 ああ、確かにそうですね、その昔雨後の竹の子の如く存在した純喫茶なるもの、最近では殆んど見掛ける事がありません。 先にも申し上げた通り、個人経営の喫茶店は淘汰される時代になりつつある、しかしながら都内で唯一その例外とも言えるのが、恐らくそして何故か日本橋・京橋界隈。 この著名なビジネス街の裏道に一歩入りますと、昔ながらの喫茶店が結構残っております、御参考までに・・。
- ミッタン(@michiyo19750208)
- ベストアンサー率15% (3894/25667)
#9続編 で、喫茶店のお客様は常連さんばかり ある日、いつものように「いらっしゃいませ」とお水とお絞りを手渡したときにある男性客と手を握ってしまいました 「あらぁ…イヤ~ン」とお決まりの如くの行為を繰り返していましたら、その男性がウチによく遊びに来ていた兄貴の友達のお父様だったと判明 それからよほど気恥ずかしかったのか手を握ってくれなくなりました ちょっと淋しくなってしまいましたね 近所ですから、こう言う話はいっぱいありますよ~!!
お礼
前項から続く、・・という事で、再度の御回答ありがとうございます。 >「あらぁ…イヤ~ン」とお決まりの如くの行為を繰り返していましたら、 おや!、常連さんには、そんなサービスがあったんですか?、お得感満載ですね。 お店が常連さんばかりになるのも、分かる気が・・。 >近所ですから、こう言う話はいっぱいありますよ~!! う~ん、いいウェイトレスさんというか、いいお嬢さん、私なら懲りずに通って、毎回手を握ってもらっちゃいますけど・・。
- ミッタン(@michiyo19750208)
- ベストアンサー率15% (3894/25667)
元・ウェイトレスです 近所に喫茶店がオープンすると言うので,知人のスカウトにより働くことになりました マスターの「営業マンがさぼれる」をコンセプトに橋の袂の隠れ家的場所に建てられた店 続きは自宅にて!!
お礼
>元・ウェイトレスです 元・ウェイターです、もっともアルバイトの分際ではありましたが。 連投ありがとう、尚私のお礼も次項に纏めてという事で、宜しくです。
高校時代には、下校途中、女友達とは駅前の札幌ラーメンのお店に行きましたが、男友達とは、坂を下る途中の、コーヒーのおいしい喫茶店で待ち合わせしました。そういえば。背伸びしていたんでしょうね。 音楽のかかっていない店内には、カウンターと二人がけのテーブルが三つ、四人がけのテーブルがひとつの小さなお店でした。いつも、すばやくブレンドを頼む彼。おごってくださっていたので、おいしくいただきましたが、たまにはクリームのかかったコーヒーも飲みたかった私です。コーヒー一杯で、一時間は粘りました。いろいろな話をしましたね。 大学時代には、女友達とは、帰宅途中の渋谷の穴倉のような喫茶店。DJがいて、洋楽をリクエストできました。確か、その名も”プリンス”。もう、なくなってしまったでしょうね。中島らもさんのエッセイに出てくるジャズ喫茶よりは、もう少し普通の客層でした。暗くて、うるさくて、初めてタバコを試してみたのも、あのお店でした。コーヒー一杯で三時間も粘れるのは、ありがたかったです。女の子同士の待ち合わせには、格好でした。 ボーイブレンドとは、もっぱら、千駄ヶ谷駅前のルノアールでした。大学が中央線沿いだったので、根城にしていた青山まで、至近距離かつ駐車しやすかったんでしょう。窓が大きくて、午後の日差しが穏やかに差し込んでいるところで、近況報告をしたり、今日は何をしようか、とたくらんだり。。。ルノアールさんにはお世話になりました。新宿御苑や明治神宮もすぐそばでした。素敵な恋人同士でしたね。今にして思えば。 カフェと喫茶店の違いって、一体なんでしょう。私の住むヒューストンでは、最近、やっと、おいしいコーヒーを供する、昔の喫茶店風のお店ができ始めました。なんだか、三十年前、1980~90年代の自分に逢えそうな気がしてしまいます。
お礼
回答ありがとうございます。 テキサスにお住いですか、それはそれは、彼の地を私が訪れたのは、随分と昔の事になりましたが・・。 私が知るヒューストンは、美術館を始めとする文化施設が点在し、美しくそれは広大な都市でした、そして広義な意味でのヒューストンを出るのに、車で何時間か掛かったような・・、まあ私の記憶はさほど当てにはなりませんが。 ところで、 >大学時代には、女友達とは、帰宅途中の渋谷の穴倉のような喫茶店。DJがいて、洋楽をリクエストできました。確か、その名も”プリンス”。もう、なくなってしまったでしょうね。 これってひょっとすると、センター街の中ほどにあった、ロック喫茶「プリンス」の事でしょうか? 私は中学~大学まで10年間も渋谷に通いましたから、あの辺りの事は殆んど存じておりますが、ロック喫茶と銘打つ割には、ここのDJはソウルがお好きでした。 ただ「プリンス」なんてありふれた名前ですし、私が通ったのは高校・大学時代の事ですからまさに1970年代後半、違うのかもですね。 >窓が大きくて、午後の日差しが穏やかに差し込んでいるところで、近況報告をしたり、今日は何をしようか、とたくらんだり。。。 悪い子ですね、率直に私がイメージするその光景は、御嬢様が少し背伸びをして、大人に至る数年間のモラトリアムを楽しんでいるといった感じでしょうか、御気に障りましたらお許しを・・。 >素敵な恋人同士でしたね。今にして思えば。 ごちそうさまです。 >カフェと喫茶店の違いって、一体なんでしょう。 う~ん、よく分かりませんが、日本文化の延長線上で、独自の発展を遂げたのが喫茶店、一方文字通り外国のそれもパリ辺りのコンセプトをそのまま取り入れたのがカフェ、そんなところでしょうかねぇ。
- santana-3
- ベストアンサー率27% (3891/13901)
まだ、ポケベルも携帯も無い時代。 喫茶店は連絡場所に使っていましたね。 「○○様、お電話が入っております」などと言うウェートレスさんの声で、店の電話に出る。 なんだか悪い奴の取引か、張り込みのデカにでもなった気分がしました。(太陽に吠えろの見過ぎか) まあ、出先で見積もりを上司と打ち合わせしているのですが、隠語で話すと何だか背徳を感じたものでした。
お礼
回答ありがとうございます。 >まだ、ポケベルも携帯も無い時代。 >喫茶店は連絡場所に使っていましたね。 ああ、確かにそういった利用法もありましたね。 喫茶店の規模に依っては、周囲から遮断されたブース・タイプの公衆電話だったりして、スマホ・携帯が普及した今となっては、隔世の感があります。 仕事が嫌いな私にとって、外回りは貴重な息抜きの時間でしたが、ポケベルはともかく、外国にいてさえ社員を捕捉出来得る携帯の普及は、正直迷惑以外の何ものでもありませんでした。
- 1
- 2
お礼
回答ありがとうございます。 いや~、語られた思い出の数々、恐れ入りました。 >「休憩する」「一服する」という意味合いに於いて昭和な喫茶店こそ最強です。 正直申して、子供達が騒ぎ・お母さん達が井戸端会議に熱中するファミレスでは、くつろげない気がします、というか殆んど足を運びませんが・・。 >チェーン店の中でその雰囲気を出せるのはルノアールくらいなものです。 広々としたスペースと、ふかふかのソファーが特徴のお店ですね。 >コンビニも近所には無くて駅前をふらふらしてたら早朝から(多分終夜営業してた)開いてる喫茶店を発見。 日中は喫茶店で夜間はスナックというお店でしょうか、昔よくありましたが。 >自宅にサイフォンと直火式エスプレッソマシーンまで揃えた自称コーヒー通の私。 喫茶店のマスター風のスタイルで上下揃え、ストレートで飲む事を強要する、異常なまでのコーヒー好きが、私の友人にもおりました。 >ご近所と仲良くせねば、と、ほぼ毎朝朝食(200円でコーヒー、トースト、ゆで卵)を食べに。 う~ん安い、お得感満載、でも新興宗教の話は困りますよね。