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実体験

実体験には、負けます。 ・・・しょうがないなあ。

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回答No.3

 こんにちは。  実体験やその実感にもとづき何かを主張する(もしくは はっきり言えば欲求を押しつける)ことに わたしたちは よわい。手に負えないことさえあります。  ということは その場をそのまま欲求の尽きるまで叫ばせておけばよいとも考えられるのではありませんか?  いつまでも心が静まらないのなら それでもそのまま喚くにまかせればよい。のと違いますか?  まれに待ったなしという場合がありますが つまり包丁を持って暴れまわったり 屋上から飛び降りるわよと脅したりするときですが 基本は その精神錯乱の状態をやり過ごすことです。静まるまで俟つ。これです。  そういう意味で  ★ ・・・しょうがないなあ。  ☆ です。相手が 人間の状態になるまで俟つしかありません。

kurinal
質問者

お礼

B様、こんばんは。 目の覚めるようなご回答ありがとうございます。 >「相手が 人間の状態になるまで俟つしかありません。」 法律論的には、「急迫不正の侵害行為には正当防衛が可能」であるとか、 「本人にとって、望ましくない、取り返しのつかない結果を生ずるような、 (本人自身の)行為については、阻止する・改めさせることが出来る」、 そんなのも、あります。

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noname#189751
noname#189751
回答No.5

A という結果があり B という、それに対する事実認識があり C という批判的立場があったとします。 Cにおけるスタンスの設定の違いに伴って、Bに対する批判も違ってくる。 その場合、Bという事実認識の比較にのみに移行してしまった場合には Aがある、という結果は、あまり意味をなさなくなってきてしまう・・ そういった事もあるかと思います。 たとえば 一つの島があって、それをめぐる所有権の問題などもそうだと思います。 Aという事実・結果は変わりないものの Bに対する見方によって、様々な解釈の違いが生じてしまう 解釈の違いの一人歩きの危険性もあるわけです。 島がある・・という事実は二の次になってしまう 100mを9秒台で走った・・という事実 人間が走った・・という事実 走った姿を見たという事実認識 走ったという事実は無味乾燥でも、走った姿は感動的です。

kurinal
質問者

お礼

A様、こんにちは(こんばんは?)。 >「所有権の問題」 それほど、たいした問題でも、ないですね。

noname#189751
noname#189751
回答No.4

フィクション と ノンフィクション >実体験には、負けます。 ・・・しょうがないなあ。 だから フィクションは 頑張る 数限りないフィクションが生まれる でも・・ たった一つのノンフィクションにはかなわない 虚構という自由は、事実という真実の前に無力です。 でも・・ その無力こそが人間らしい この世界を自由に色付けしてみたい・・という願い、バイタリティは素晴らしい と思いませんか・・。 フィクション と ノンフィクションは同時進行です。 振り返ると ノンフィクションが残って見える。 負けたのではなく、そう見えるだけです。 客観的事実から、心の真実というものを差し引く事はできない。 無理に差し引いて 負けた と言っても 本当に負けたとは言っていない。 体験と事実の比較において 他者の方が より客観的に見える という事のように思います。 >・・・しょうがないなあ。

kurinal
質問者

お礼

about72様、ご回答ありがとうございます。 またまた「歴史(認識)問題」になりましたね。 関連して連想致しました表現としては、 (A)「「100mを9秒台」というような、誰も否定出来ない結果を残せば、誰も否定出来ない」 (B)「二人のこと(もしくは、「相手の本当の良さ」)なんて、 その二人だけで(あるいは、その片割れが)判っていれば良い」

回答No.2

体験しても、感性が鈍ければ「負けます」。 「体験」の実体は、感覚器官表面での量子相互作用 (視覚は光子=量子そのもの、触覚は感覚細胞表面 の分子と物体の最外殻電子の反発=光量子の交換、 聴覚は大気分子と感覚細胞の分子振動の運動量伝 達=光量子交換、味覚・嗅覚は浮遊分子と感覚細胞 の表面分子の結合=最外殻電子の光量子の交換) であり、その向うに何を感じるかは、五感の相関した 量子相互作用パターンの蓄積による、脳内の思索に 過ぎません。 逆に言うと、真の「実体験」である、「感覚器官表面 での量子相互作用」を感じるためには、深い思索が 必要です。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 「個」と世界との関係、ということで、了解致しました。 >「逆に言うと、真の「実体験」である、「感覚器官表面 での量子相互作用」を感じるためには、深い思索が 必要です。」 「勘違い」というのは、誰にでもあるのでしょう。 「個」のレベルでの試行錯誤が、「理論」にも繋がると思います。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.1

人間の脳は、理性や理論を司る大脳新皮質という 部分と、感情や本能を司る大脳旧皮質という 部分から構成されています。 人間は、この旧皮質に達しないと納得しません。 理論をいかに理解しても、それだけでは納得 できないのは、旧皮質にまで達しないからです。 だから道徳は教育によっては身につきません。 教育は理性に訴えるものに過ぎないからです。 この点宗教は便利です。 宗教は理性を飛び越えて、旧皮質にまで達する ことが可能だからです。 だから、多くの国では、宗教に絡めて道徳を 教え込むことをやっているのです。 新渡戸稲造の「武士道」にあります。 「お国では、宗教教育をしていないと聞きましたが  ほんとですか?」 「ほんとです」 「お~、それでどうやって子供達に道徳を教える  ことができるのでしょうか」 「我が国には武士道があります」 と、こういうわけです。 実体験は理論の問題、つまり新皮質の問題ではなく 旧皮質の問題です。 だから、いかに理論を駆使しても、実体験には 負けるのです。 恋愛もそうです。 恋愛は旧皮質の領域です。 だから、どんなに理性的なひとでも美女には 狂うのです。

kurinal
質問者

お礼

hekiyu様、ご回答ありがとうございます。 小生の理解と、若干異なるような気が致します。 小生は、「新皮質⊃旧皮質」というように考えました。 言い換えますと、「理論⊃経験」です。 つまり、「経験の集合が理論であって、その逆ではあり得ない」というわけです。

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