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世間なんていらない、「空気」なんていらない

日本人にとって、世間や、いわゆる「空気」を排した、<生き方>とは、可能なものなのでしょうか? ひとつの社会を成り立たせるために必要な要素とは、その社会の構成員が、「自我を持った存在」であることが重要であるとされます。その一方で、日本社会においては、自我というものを肯定的に受けとめるのではなく、世間や、いわゆる「空気」に従属した生き方を是とする傾向が、いまも根強く残っています。 多様性を「武器」にする社会をつくる必要がある、いまの日本社会においては、このような過去のものの見方、過去の考え方にすがるのではなく、自我を肯定的なものとして受け止め、自尊心を高くすることを良しとしたほうが、社会的にも、国際関係のためにおいても、なにかと有利ではないかと思うときがあります。

みんなの回答

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.1

できなくはないでしょう。 私も空気を読むなどの行為は友好関係を築いたり身を守るために必要な時はありますが、今の日本、特に学生時代は度をはるかに超えてると思います。 というわけで学生に視点を置いて考えてみるとあることを思い出しました。 国際都市や国際国家と言われる、たとえばシンガポールでは学生同士のいわゆる「いじめ」がほとんどありません。 なぜなら多様な文化の生徒が存在し、ちょっとした違いなど気にもならないんだそうです。 いわゆるいじめは日本語の「イジメ」で世界に通用してしまうほど広まると言う恥ずかしいことになっていますが、起きるきっかけは個性を受け入れられない器の小ささにあることが多いと私は考えています。 個を殺し何の個性もない普通をなぜか尊重し、当たり障りのないオール平均点を良しとする中で、ちょっとした目立った個性を「浮いた存在」とし攻撃するのがいわゆるいじめでしょう。 あまりにも文化が違う生徒が混在していれば、ちょっとした個性などおかしくもなんとも感じないということです。 このことから、島国根性や海外経験がほとんどないという風土を変えて国際化、つまり多様な文化への理解や体験を進めていけば、個々の個性を認め合える社会に変化できると私は思います。 残念ながら文化や習慣より英語の暗記にやっきになってる程度の現状では無理でしょうけど。 他国を理解するとは言語を理解することではなく、他国の文化を受け入れる器の大きさのことですから。 まったく話せないのにやたら外国人とすぐ打ち解けまくる人がいますが、それは器が大きい、まあ逆に言えばおおざっぱで細かいことを気にしないとも言いますが、そういうタイプであるように見えます。

noname#189115
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