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慶次郎と上杉家

前田利益が上杉家に仕えたきっかけは慶次郎が若い頃義父の利久(前田利家の兄)が信長に叱られたところを上杉景勝が取り成してくれたからだと言われていますが そのときのエピソードを詳しく教えてくれませんか?

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sekirei1
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.4

他の方は、他の大名家の人物をとりなすことはないとお考えのようですが、私は可能性はあったと思います。複数の資料で他の大名が別の大名に家臣の執り成しをしています。 従って、前田利久が上杉景勝にとりなしてもらう可能性は0ではありません。 ところが、ちょっと年代があわないのです。前田利久が信長に叱責されたのが1569年ですが、 この時の上杉景勝は長尾顕景といっておりまして、まだ修行中の身でした。 こんな人にとりなしてもらっても余り効果が無いでしょう。 1575年に漸く上杉景勝と改め、官位ももらい上杉家の重臣になっていますので、この後なら 問題はないのですが、その頃の織田・上杉間は敵対していたはずですね。 おそらく、上杉謙信か、上杉家の重臣の誰かが前田利久を執り成したのかもしれませんが、真相は よくわかりません。古い軍記物の類だと人物の名前が誤記されていることは往々にしてあります。 前田利益が上杉景勝に仕官した理由は、よくわからないはずです。 また、長谷堂城の戦いで前田利益が殿軍をした史料は複数あるようですね。 http://okibun.jp/maedakeiji/に、色々と書いてあります。

参考URL:
http://okibun.jp/maedakeiji/
azuki-7
質問者

お礼

もしかすると謙信だったかもしれません 何かで見たんですが記憶が曖昧です 直江兼続と慶次郎が無二の友人関係だったのもそこから来ているそうです

その他の回答 (4)

  • nor117
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.5

下でも一度答えた者です。 上杉謙信であればとりなした可能性は否定できません。景勝とは異なり武田信玄に対抗するため一時期上杉謙信と織田信長は友好関係にありました。 しかし上杉謙信と織田信長が同席したという記録はありません。歴史上、上杉謙信は2回上洛していますが2回とも時の将軍足利義輝の招きによるものです。同時期、織田信長はまだ桶狭間の合戦よりも前の時期で尾張の小大名にすぎませんでした。 友好関係を結んでいた時期に書状等でとりなした可能性はありますがそういう資料は知る限り存在しません。 長谷堂城の合戦に前田利益が参戦したのは間違いありません。当時の上杉家の資料である「上杉将士書上」にも派手な格好をして「大ふへんもの」と書かれた旗指物を持っていた旨が記されています。同時期に召し抱えられた浪人の中ではトップクラスの給料を与えられており「武の家」上杉家においても前田利益の武勇は認められていたのだろうと推測されます。 ですが一般的によく言われている退却戦での活躍については同時代の資料には記載がありません。江戸時代中期に成立した常山紀談などから退却戦での逸話がみられるようになります。関ヶ原合戦当時の資料にはむしろこの退却戦で戦死した上泉泰綱(剣豪上泉信綱の孫)の活躍が記されています。 ちなみに某漫画では前田利益は非常に若く描かれすぎです。実は織田信長と同世代です。生年にはいくつか説がありますが徳川家康よりも年上なのは間違いありません。某漫画では徳川家康がおじいちゃん、前田利益が若者に描かれていましたが…。上杉景勝とは20歳近く、直江兼続とは30歳近く歳が離れているのが真相です。関ヶ原合戦の時は60歳を過ぎています。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.3

すでに回答にあるように質問の話は時系列がめちゃくちゃでありえません。 よって詳しいエピソードなどありません。 なお、前田利益が長谷堂の戦いに参戦していたという史料を見たことがありません。

azuki-7
質問者

お礼

長谷堂城の戦いでしんがりを努めたそうです

  • nor117
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.2

前田利久は前田家の長男であり前田家の当主でしたが織田信長の命令によって弟の前田利家に家督を無理やり譲らされました。理由はいくつかありますが一番の理由は前田利家が織田信長の側近をつとめており可愛がられていたからです。 そのほかにも前田利家自身が武勇に優れていたことも挙げられます。戦国時代ですから主君としては家臣の家の当主を武勇に優れたものが務めていた方が安心できます。 上杉景勝は上杉謙信の跡継です。越後(新潟県)の大名でしたが織田信長の中央政権とは敵対していました。上杉景勝が中央政権に組み込まれるのは織田信長が本能寺の変で死に豊臣秀吉が中央政権を担うようになった後です。 そのため質問者様の内容にあるような上杉景勝が敵対している織田信長の家臣を織田信長に対してとりなしてあげる、と言った出来事は起こりえません。 なお、前田利益は当初前田家に仕えていましたがその後浪人しています。浪人した理由ははっきりとはわかりませんが前田利益本人の妻や子供はそのまま前田家に残っています。 上杉家に仕えたのは関ヶ原合戦の直前に徳川家との戦争を控えた上杉家が大量に浪人を召し抱えた時期です。前田利益は非常に風流人として知られており浪人中も多くの大名や公家と交流があったことが知られています。上杉家とのつながったきっかけもそこから来ているものと思われます。

azuki-7
質問者

お礼

いや 上杉景勝と織田信長が何かの席で一緒だったとき(多分安土城かどこかに呼ばれたと思う)のときに景勝と信長 そして利久と慶次郎は会ってます

回答No.1

こんばんは。 上杉家に仕えたというよりも米沢藩で隠居したという方が正しいかも? 前田慶次は京都で歌舞伎納めをして一夢庵ひょっとこ斎と 名前を改めています。 上杉家に仕えた時点でもう武士ではなかったと推測されます。

azuki-7
質問者

お礼

そうなのですか? しかし長谷堂城の合戦ではしんがりを勤めていますが…

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