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尾久橋通りについて
- 「尾久橋通り」の事実とは?
- ウィキペディアの情報と東京都の説明が食い違う
- 戦前の「尾久橋通り」の呼び方はどうだったのか
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質問者が選んだベストアンサー
Wikiと内容が一致するブログなども散見されますが、 単なるコピペなのか残念ながら何れも情報源が明示されていません。 そんな中、 〇広報誌『緑と水のひろば/AUTUMN 2011/公益財団法人 東京都公園協会』の中の 「東京水辺ライン 隅田川“橋”物語─尾久橋」に氏名入りで下記の記述がありました。 http://www.tokyo-park.or.jp/parkfriend/download/pdf/hiroba65.pdf <14/17> …、昭和7年(1932)に最初の尾久橋が架かり、 昭和43年(1968)にこれが老化して現在の橋に架け替えられます。… 上記の公益財団法人に問い合わせるのが近道かもしれませんが、 先ずは予備知識を収集したいと思います。 >事実はどうだったのでしょうか。 下記の『荒川区史(昭和11年)』では、 「尾久橋」相当区間界隈には渡船場所「熊野渡(熊野の渡し)」があったこと、 「熊野渡」の昭和9年度1ヶ年の渡船人員は「16,000人」であったこと、 最近(※昭和8年頃当時)に至るまで本区地方の荒川渡橋は千住大橋のみであったこと、 その後、昭和8年に小臺橋(※小台橋)、昭和9年に尾竹橋が架橋されたこと、 当時荒川区内の橋梁は上記3橋を含め総数19(※711・712頁一覧表)が存在しましたが、 「尾久橋」の記述は有りません。 〇『荒川區史/東京市荒川区編/東京市荒川区/昭11.10印刷、昭和11.12発行』 ・「第十三章 河川及び橋梁 第二節 橋梁」 <388~393/407>(710頁~720頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261549/388 ・「第八章 交通及び通信 第一節 交通」水上運輸>渡船 <280・281/407>(495~496頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261549/281 続きまして、 ・渡し碑コレクション>熊野の渡し[くまののわたし] によりますと、 http://hamadayori.com/wata-col/sumida/kumano.htm 「尾久橋」南側(荒川区側)西の階段を下りると荒川区の建てた標識が設置されていて 「熊野渡」が昭和25年3月まで利用されていた旨が明記されているとのこと。 ・渡し船碑>熊野の渡し http://tkyburabura.web.fc2.com/ferryboat/ferryboat.html …昭和7年~43年頃まで初代「尾久橋」が存在したと仮定した場合、その直下を 「熊野渡」の渡船が昭和25年3月まで運航され続けた理由の説明がつきません。… あと、下記『荒川区都市計画マスタープラン/平成21年3月/荒川区』でも、 「昭和9年(1934年)に放射11号線(尾久橋通り)が地区内(※東尾久地域)に完成し、 昭和43年(1968年)に尾久橋が架橋されたことにより、 地域の交通機能が大幅に改善されました。」と記述されています。 〇『荒川区都市計画マスタープラン/平成21年3月/荒川区』 第4章 地域別街づくり方針 5 東尾久地域 1.東尾久地域の特性 地域の成り立ち・地域資源 <119/190>(114頁) http://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/kouso/keikaku/toshikeikakumasuta/toshimasu.files/d03800088_1.pdf 続きまして、下記の各年代「地図」の尾久町付近を拡大にしてみますと、 〇日文研所蔵地図 地域別索引「東京都」 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/index_area13.html 「尾久橋」相当区間は戦前から都市計画の予定道路の中には含まれていたものの、 前記の昭和9年(1934年)時点の放射11号線(尾久橋通り)地区内完成区間は、 後記「昭和十五年東京全図」からも概ね把握できますが、 「尾久橋」に限っては少なくとも昭和7年頃~昭和35年頃の間は計画段階のままで、 「尾久橋」相当区間には橋梁は存在しなかったものと読み取れます。 ・大東京全圖改正新町名入/内容年代(和暦)昭和7/版本者: 株式会社報知新聞社 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1325.html 「道路予定線(道幅22m以上)」の黄色2本表示。 ・昭和七年東京全図/内容年代(和暦)昭和8/版本者: 九段書房 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1236.html 予定線箇所には「熊野渡」表記。 ・昭和十五年東京全図/内容年代(和暦)昭和15/版本者: 九段書房 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1237.html 「小台橋」と「小竹橋(?尾竹橋)」の間に「熊野渡」表記。 ・最新大東京案内圖/内容年代(和暦):昭和17/版本者:日本統制地図株式会社ほか http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1339.html 「小台橋」と「尾竹橋)」の間には表記無し。 ・新東京区分荒川区詳細図/内容年代(和暦)昭和22/版本者:日本地図株式会社 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1349.html 「小臺橋」と「尾竹橋」の間に「熊野渡」表記。 ・東京都区分詳細図荒川区/内容年代(和暦)昭和31/版本者:日地版本株式会社など http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1501.html 「小台橋」と「尾竹橋」の間に「熊野渡」表記。 ・東京都市計画図足立区/内容年代(和暦)昭和35年 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1494.html 「小台橋」と「尾竹橋」の間に計画線表示。 以上の傍証を積み重ねる限りでは、 …冒頭の公益財団法人に根拠を問い合わせるまでもなく… 「尾久橋昭和7年創架」説は否定せざる得ません。 >現在の「尾久橋通り」は戦前にはどのように呼ばれていたのでしょうか。 戦後生まれには難問なので、当て推量に過ぎないことを先にお断り申し上げますm(_"_)m ・神戸大学附属図書館>新聞記事文庫 道路(03-160)/中外商業新報 1927.7.22(昭和2) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00095557&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 東京市の大道路計画 総工費約三億七千万円 都計委員会案成る 郊外の部 幹線放射道路 (幅員二十二乃至二十五米) … 十一、日暮里町日暮里郡市界から舎人村舎人埼玉県界まで (尾久町、西新井村、江北村、伊与村経過九、三〇八米)… ・『東京府史.行政篇 第4巻/東京府編/東京府/昭10至12』 「第一 道路及橋梁 第二章 東京都市計畫道路 五 昭和二年八月決定道路」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207680/69 <68~73/552>(71~81頁) 幹線放射道路 路線番号 一一 改修区間 北豊島郡日暮里町日暮里市郡界ヨリ南足立郡舎人村舎人埼玉県界ニ至ル 延長 九、三〇八米 幅員 二五米 ・東京都「通称道路名の設定事業」 下記「<資料3>通称道路名設定事業の経緯及び概要について」 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/shiryo1-3.pdf 「第1回第1次・昭和37年4月25日(都公報登載)&第2次・昭和38年6月18日(同前)」 「第2回 昭和59年5月1日(都公報登載)」についての 「東京都通称道路名一覧表」<4~7/12>がありますが、 <4/12>[お/70/尾久橋通り] は昭和59年5月1日設定分に含まれます。 上記から、昭和2年7・8月時点の都市計画段階で放射道路・路線番号が付されたこと、 前記のとおり昭和9年(1934年)に放射11号線が地区内(※東尾久地域)に完成したこと、 上記から、昭和37・38年時点では通称道路名設定に至らなかったこと、 (「環七通り」などは昭和37年時点で通称道路名設定) 昭和59年5月1日以降「尾久橋通り」の通称道路名が設定されたこと、 それ以降、現在でも「都道58号台東川口線」よりも、 都市計画路線名「放射11号線」に基づく「放射11号」「11号(線)」等の呼称が 地元周辺では根強く生きている様子も伺えることから、 戦前、昭和2年7・8月の都市計画段階で「放射11号線」が認知され、 昭和9年に尾久町地区内区間が完成したことで身近となったものの、 …路線番号二桁の宿命なのか「環七」のように略されることもないまま、 否「放七」「放八」などと例え一桁であったとしてもしっくりきませんが… 都市計画路線名「放射11号線」が浸透・定着する中で 「放射11号線」そのまんまか、或いは僅かばかりの省略形で 「放射11号」「11号線」「11号」等と呼称されていたのではないでしょうか? 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸い^^
お礼
詳細な情報をいただき、ありがとうございます。 まだ、見ていませんが、一つひとつ当たってみるつもりです。 半ば諦めていただけに、大変有難く存じます。 厚く御礼申し上げます。