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古色とさび
辞書によれば 古色とは ふるびたいろ・ようす。 時代のついたいろ合い・ようす。 とある いわゆる「さび」に通じるもののようです ここで問題になるのは 「ようす」という言葉 「いろ合い」という単に視覚に留まらないものも含めている 「ようす」というのは 「たたずまい」という感触だとすれば 古色における「ようす」とは 年月を感じさせる ものの姿 存在感みたいなものでしょう 色彩や色調も含めた歳月を感じさせる要素が 物にある時 古色があるといい 寂(さぴ)た風情があるともいうのでしょう 「さび」とは 辞書によれば 寂 古びておもむきのある事 もの静かなおもむき とある ここには「古びて」という古色の前提が すでに含まれている 古色を対象の捉え方の基とした精神的感覚を言っている その感覚は もの静かなおもむき とあるようです ・ ・ ・ ・ ・ 以上から かいつまんで・・ 古びたものを 目で見た感じで 古色があるといい さらに 心で感じた静けさを さび という 古色には美しいものもあれば そうでないものもある さびは それらに関わらずあるとすれば きれいなさび きれいでないさび 明るいさび 暗いさび といったものがあると思う それは無常感と重なってくる ものの姿のようにも感じられる 古色とさびは無常感の入口 無常の美の入口である・・ 皆様のご見解をお聞かせください。
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NO.5 です。 ご丁寧なお礼をいただきました。 いや、面白い挿話もたのしませていただきました。 ありがとうございました。 >昔、私の父が、祖父の作った襖が痛んできたので直そうとして表具師に見てもらったのですが 表具師いわく これだけ古色があるのだから、このままの方がいい と言った 作品自体なかなかいいものだったのでしょうね。鑑定団の安河内さんなんかが見たら何と言ったでしょうか、興味があります。 >私の飼っていた猫のおしっこの痕もあったくらいで、とてもきれいには見えなかった それでも、表具師はこのままの方がいい、と言った その襖は、祖父が書の先生と一緒に作った襖で中々のものだったらしいのですが 結局、周りの木枠の部分だけを直す事になってしまった はっは、表具師さんの感覚から言えば、その襖絵はそれ自身ありきたりのものではなく、古びていても、猫のおしっこの染みをマイナスしてもなお枠を新しくして残しておくだけの値打ちがあったということなのでしょう。 >古色をいいと感じるか、汚いと感じるか は個人差が大きいと思います でも、私の父も表具師に言われて、それなりの良さがあると思ったという事から 人に言われると、そう見えてしまう のが古色なんでしょう 表具師さんは、常に古色の美しさに触れていると思います きれいか、汚いかの判断もできる 古色とは何なんでしょう。単純な美という見方から言えば古いものは新しいものにはかないません。大いなる時間を経てきたという観念的な価値が古色という時間のサインで保証される、そういう見方もあるでしょう。それは単なるよごれに過ぎないけれども、新品からの美をそれほど損なっていないからさしひき価値として加えられるということでしょうが、ここまでは寂びとは無関係の様に思われます。以下に仰る通りです。 >古色とはいえ、ただの汚れに過ぎないものもあると思います それ以上に、古びることで積極的に加えられる美、明るくもなく暗くもなく、どちらかといえば人工的なものからは遠い、自然の時間に任せることで現われてくるもの >猫のおしっこが寂びでなかった事だけは確かだった、 そうですね、微妙なところですが、私もそう思います。人工的なものとはいえないでしょうが、ちょっと荒々しすぎる破壊に近い変形、所有者の粗相と考えられますからね。
- kurinal
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こんばんは。 「後世の取捨選択」て、回答したくなりましたが。 >「きれいなさび きれいでないさび 明るいさび 暗いさび といったものがあると思う」 といったものがある、のですね。
お礼
ありがとうございます。 >といったものがある、のですね。 ありますね もうそれらは たぶん 目にされているはずです ただ 気が付かない場合も多い のではないでしょうか 寂び を 静けさ に置き換えれば きれいな静けさ きれいでない静けさ 明るい静けさ 暗い静けさ となるように思います 歳月が加わってできた古色の微妙な変化を受け止めれば そうした感触があるものと思います。
No.6です。 他に考えられるものとして陰翳もありますね。
お礼
ありがとうございます。 >陰翳・・ これって 正直言って 重いんですよ 洒落じゃないんです 私の感覚において あまり触れたくない感じさえあります その訳なんですが・・ 昨日も美術の本を広げて、茶室の写真を見ていました 厚い本の両開きで 左側のページにはモノクロの写真で茶室の内部が載っていました 右側のページにはカラー写真で茶室の外観と茶庭が載っていました 左側の写真を見ていると、どうもいけない いけないというのは、明暗のコントラストがいけないのです 実際に茶室には幾度か覗いたり入ったことがあります その狭くて少し薄暗い感じはけっして悪いものではない感じだったのですが それを こうしてモノクロにしてしまうと・・・ 対象を 眼で触る 触ってゆく という感覚がよみがえってきてしまうのです そして その時間は遅く、重い 丸味を帯びた柱なんかは、生き物のようにすら感じられる お分かりになるでしょうか 茶室や茶器などの侘びた風情のあるものは こういった 眼で触る という感覚のもとに作られている といった気がします モノクロの写真で茶室内部を紹介していたのは、そうした感覚を伝える意味があるように思います また カラー写真で茶室の外側や茶庭を紹介していたのは カラーでなければ伝えられないものがあるからだと思います 古色や寂びは 色彩感なしには伝えられない といったようにも思います こうした日本美に対する感覚は、すでに確定している感じさえあるように思います 寸法よりも感性を重視する多くの人達によって築かれてきた世界です 明暗を見る世界は、幽玄の世界へとつづくように思います それは 単にきれいという世界ではないと思います モノクロとカラーの両方の写真で紹介してあった、という事自体が 日本美術の専門家においては、日本的な感性の解釈が定まっている というように受け取らせていただきました 私ごときがお喋りしても、たいして意味はないのかもしれませんね 眼で触る という事において よしとされたものが侘びの美しさなのかもしれません 感性の深さに釣り合ったものしか人は造りえない そんな気が段々してきました ちょっと鋭いヒントでしたが、ありがたくお受けしておきます。 ありがとうございました。
こんにちは。 みやび(雅・都び)の反対のひなび(鄙び)に近いのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 >みやび(雅・都び)の反対のひなび(鄙び)に近いのではないでしょうか。 微妙で味わい深いですね 仰っている事の奥には さまざまなものがあるような気がします 侘びの美の頂点に立つと思われる、利休の茶の湯の世界は禅から来ている事は確かですが、それだけではない事もご存じでしょう 簡素な美しさを求める心は、余白を重んじた水墨画が、直感による認識から生まれたものと言われているように 禅のもつ厳しさから生まれた副産物と言えなくもない 悪く言えば禅的な遊びの世界である・・ >近い という言い回しがそう感じさせます まあ こうした ひねくれた言い方は叱られそうですが 偉大なる遊び・・ という事にしておきましょうか 優れた茶器の写真を見ていると 仰っている感じをそのまま受け取ることができます 簡素にして味わい深い 一つ一つが生き物のようにさえ感じ、見える それだけ そこには凝縮した精神がある という事になるのでしょう >鄙び(た) 人間常に反対のものをも求めたがる 雅と鄙び 豪華と質素 賑やかさと静寂 不思議ですね 利休という一点に凝縮してくる流れのようなものがあった、という事が たまたまだったとも思えない 日本人らしさ・・ の表れだったのでしょうか あれこれ考えるのも楽しいかもしれません ヒントをありがとうございました。
何人かの方が指摘しておられますが、やはり日本人の感性のなかに、自然、あるいは自然の中での厳しい時間の経過との共生、諦めに似た調和という思いが美にもかかわっていると深いところで理解されているようなことがあって、それが「古色」の捉え方、特に「さび」という言葉にあらわれているのではないでしょうか。さび、さびしいというのはどちらかといえば自然にやりこめられているともいえるマイナスの状況ですから、それをよしとするのはやはり世界的には特殊な感覚なのでしょう。 たとえば仏像などでも古代から日本人は作られた時のままに、手入れを最小限にして放置するということでもなくその古びようをいつくしんできたところがありますよね。 そういったところが無情感とも結びつく日本人の美意識のありかたなのかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 >たとえば仏像などでも古代から日本人は作られた時のままに、手入れを最小限にして放置するということでもなくその古びようをいつくしんできたところがありますよね そうですね ある坊さん曰く きれいすぎる仏様は拝む気になれない・・ まあ このへんは 美しい寂び、という美的感覚よりも宗教的な感覚が強いとは思いますが 基本的には、簡単に言えば、馴染みが感じられるかどうかという共通性がそこにはあると思います 古色へのこだわり というんでしょうか それは確かにありますね それも個人差が大きい 笑い話さえできてしまうほどです 昔、私の父が、祖父の作った襖が痛んできたので直そうとして表具師に見てもらったのですが 表具師いわく これだけ古色があるのだから、このままの方がいい と言ったそうです 父は痛んで汚くなった襖を貼り直そうとしたのですが それまでは古色の良さが分からなかった まあ 私の飼っていた猫のおしっこの痕もあったくらいで、とてもきれいには見えなかった それでも、表具師はこのままの方がいい、と言った その襖は、祖父が書の先生と一緒に作った襖で中々のものだったらしいのですが 結局、周りの木枠の部分だけを直す事になってしまった とまあ こんな感じで 古色をいいと感じるか、汚いと感じるか は個人差が大きいと思います でも、私の父も表具師に言われて、それなりの良さがあると思ったという事から 人に言われると、そう見えてしまう のが古色なんでしょう 表具師さんは、常に古色の美しさに触れていると思います きれいか、汚いかの判断もできる 古色とはいえ、ただの汚れに過ぎないものもあると思います そのへんの見極めの感覚は、寂びという感覚から来ているのかもしれませんね 古色か 汚れか 汚れか 寂びか・・ 猫のおしっこが寂びでなかった事だけは確かだった、 と今も思っています。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
常に人為は、自然に及ばない。 人工物の極致であるプラスチック製品は、出来た時が 最も美しく、時が経つほどに薄汚れてゆく。 人工物でも自然素材の木目を生かした製品は、正しく 手入れをすれば古びるほどに味わいが出てくる。 人は自然の中で生かされているにも関わらず、自分 だけの力で生きていると勘違いして、散々自然破壊し、 公害を起こしてきた。 自然のものは138億年の物質進化、40億年の生物進化 によって磨かれたものであり、浅はかな人類の知恵で 改変しようとすれば、バランスを損ね自らにシッペ返し が来るのだ。 厳しい自然の中、稲作という自然に依存した生業を 続けて来た日本人は、自然のとの共生を旨として来た。 侘び寂びとは、己の分をわきまえ自然に生きる証しだ。
お礼
ありがとうございます。 >侘び寂びとは、己の分をわきまえ自然に生きる証しだ。 >己の分をわきまえ 生きるのではなく、自然に生かされている という感謝の心 人は自然の中で慎ましく生きるべきだ というようにも取れます さて 徒然草や鴨長明の文に連なる心は、そこから生まれてきたのか どうなんでしょうね 美術解説の侘び寂びを読むと確かに 気候風土が育んだ日本人の特質によると書いてある 本居信長もそれらしき事を言っている 分からないのですよ 分かっているのは、日本の自然は素晴らしいという事と 多くの日本人の共感を得てきた、簡素にして味わい深い美しさがあるという事です つまり 残されてきた結果しか分かっていない それは受け継がれてゆくものかもしれないが その源は私にとって不明のままです 実際に、侘びといえるもの、また、寂びといえるものを見た、或いは感得したしたという体験は少ないのではないかと思います 心を打つものとして見た、という体験は貴重なものという気がします 通常は薄っぺらな通り一遍の情緒だけで終わってしまうように思います それでいいのかどうか そのへんも分からない 何となく 侘び寂び・・ 何となく 日本的・・ いいんでしょうかね・・。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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〈単独行より〉 αλφα あの永遠に 身を委ね・・・ 静やかな祭りのあした 朝焼けの空に誘われ 赤や黄の樹樹枯れ果てて 愁い顔落ち葉敷きつめる 晩秋の山についばむ ふもと道 径端の畑 扇成しかぼちゃ成る畦 土匂う畔の生け垣 赫赫と竹堤燈は 彼岸花鬼火と燃えて 竹薮の笹音聞こえて ボレロ舞う緑の大群 林間の歩を寒々と 森閑の山にかそけく どんぐりの堅果転がる 落木の下に癒せば 腐食する檪の葉片 葉脈を遺す枯葉は 化石成す古代模様に 寂光の香りを映す 山林の息澄み渡る 葉に歩して山渓上り キャラバンに清流弾み 羽鳥峰の峠を登り 伊勢の海街道沿いに 故里の囃しを眺め 旅の空蒼天高く 旅の雲行雲白く 山行の想い新たに 憂愁の単独行に 郷愁を退けかねて 愁い色うつらうつらと 旅の山夢に現われ 沢下り渓流上り 今日は!里の声聞き 今日は!里の声発し 山蛭の迎えるがまま ちぎれ雲白に誘われ 山頂の途極め ああ ひとり立つ三角点は 透きとおる薄陽を浴びて ・・・・山眠るとき 永遠の 空間は 広大な 刹那よぎり 陽光の 氷雨降る 絶頂の 奈落の底 残月の かなたに 蒼く 秋の 陽は 薄く 儚く 至点 俟つ βητα 有為の山雲すでに行き 水寒く時は移ろい 荷を投げて檪の蔭の 落合いに拠を占むれば 落ち葉の堆積を縫い 黄昏の翅を光らせ かねたたき独り這い出で 触角の長きを揺らし 変身の姿を躍らせ 黄昏のあわいを縫って 永遠の虫の世界に 落日は落木を染め 薄明かり光翻し 明暗のドラマ暗転 変身のかねたたき伏す 天幕の燭光取り巻き 混沌の闇立ち籠める 混沌の女神立つああ 神殿の黒き前庭 真っ黒の川の畔りの すべりひゆの花黒の下 背を丸め肩をすぼめて 触角は闇にからまり ただひとり這いつくばって ただひとり劫罰(ネメシス)を待ち モイライ(女神)の機嫌伺う この身 あのうすばかげろうの 翼さえあああったなら エロス産み山並みを越え 天翔けて過ごした・・・ この足にすべりひゆの根の 力さえおお・・・ エレボス(幽冥)の底に潜って 扉閉ざし暮らした・・・ 今はただフォマルハウト(北落の明星)の 落ち沈むこの闇のなか アケロン(暗河)のこの谷合いに 渡し待つ行列のなか じっと立ちその日数える その身おお〔アハスウェルスよ〕 γαμμα 宵越しの祭りは明けて 東雲の赤く射す日は 枯れ草に朝露燃やし 飯盒に枯木焚きつけ またひとつ飢えを凌いで 雨乞いの山に登れば 天照す神々隠れ 黒風の雲の幕りは 音もなく漂い流れ 天風に翅はそぼ濡れ 竜骨は砕け散り去り 行きなずむ山の雲雲 行きなずむ川の水水 足なずむ空を見上げ 足なずむ里を見下ろし 行きなずむ旅の想念 行きなずむ旅のキャラバン 足泥み日日を数えて その身 おおあの永遠に 身を委ね δελτα まどろみながら 川岸に砂を盛り積み 渡し守(カロン)の眺望を睨み 霧払う彼方を眺め まつろわぬ旅の輩の 沈黙の最後の《 oui 》を 叫ぶ人の 声零れ落ち 軽やかに漂い流れ 水溢れ足場を削り 帰り道沢を下るおお キャラバンよ
お礼
ありがとうございます。 夢は枯野を・・・ ですか 私も単独行のつもりで・・ 杣道の 木漏れ日しずか 夏落葉 木下闇 出でてせせらぎ ありにけり 峰すこし 見えて夏霧 去りにけり 六月の 雪は焼かねど 旅終へし (古徳の遺偈 行脚事終わり今日時節柱杖子を折って六月の雪を焼く)
- nananissethe3rd
- ベストアンサー率33% (7/21)
マーケティング経済理論体系の一分野に「商品サイクル」というカテゴリーがございます。 その分野の中のテーマ「質感とユーティリゼーション」という連関の文脈で その特殊な問題提起/新製品開発の方向性と深く関係してきます。 ウエザリング処理/ストーンウォシュ加工/ノイジーフィーリング(LowFi)は、 人間工学的に、「ヒューマニティー」にフィットした質感をイメージさせます。 商品ライフサイクルに引き付けて述べると製品寿命の主観的延長・商品との一体感を高めるうえで非常に効果的な手法です。 「よう」は、象徴的事物「もの」と「自己」の反復使用(リチュアル)的「自然」を介しての一体感を高める一つの「要」素であるということです。愛着と必然のあかしです。
お礼
ありがとうございます。 時代遅れの私には、分かりずらい感じもしましたが 質感と使い心地の関係のようにも思いました 一概に、きれいなものがいいという訳ではない という感覚もあります きれいな水に魚は住まない、といったものでしょう 衣服なんかも、年を取ると古ぼけた色合いの方が、何となく着やすいという感じもあります 用と美という関係において求められる感覚は 人それぞれであるけれども、一種の共通性も見られるのでしょう 実際における商品開発の現場では、商品に対する感性的なデータを機械的にすら取り扱っているようです 愛着という感性的な馴染みは、知らず知らずのうちに造られているんでしょうかね ともあれ 寂というと日本的なものの美に限っているような感じもしますが 実際には、そうではない 寂という美的感覚をあらゆるものに取り入れようとしている そういう時代にすでに入ってしまっているのでしょう そのへんに日本人の器用さみたいなものがあるというか 感じますね まあ 無常感は遠のいているかもしれませんが 即席の寂らしきものと、本物の寂と あるかもしれません。
こしきゆかしいなどと聞きますが、あれも一種のサビでしょうか?人格や品位、人の出立ちにも、サビや古色と言ったものが成立するのだとしたら、そんな佇まいをもった人を目指したりするのも中々乙かもしれないと思いました。 どうしても時代や世間の潮流が速くてついていけず、同じはやいでも早いなら合わせられるのにな、なんて思う日々が何年も続いて居ます。 スピードよりもタイミング、と思いながらも中々そう言う世相に出会うことが少なく、孤独に過ごすことが多い私の日常です。そんな中でこう言った質問は少しの間休めるオアシスのようなものです。 どんな生き方をするのか、古色や寂に包まれながら、ゆったりと考えたいと思いました。
お礼
ありがとうございます。 >どうしても時代や世間の潮流が速くてついていけず、同じはやいでも早いなら合わせられるのにな、なんて思う日々が何年も続いて居ます。 そうですね そんな感じもします 今日つくった句です 夏蝶の 草のすくなに 舞ひにけり 小さな白い蝶に、自分と同じような命を感じてしまいました 今現在の時間の 今現在の場所の 生きているものの姿 まあこちらは わび というものなんでしょうけど 寂から わびへというのも悪くないと思います きれい寂 や きれいわび を沢山ご覧になってください 世間の潮流を速く感じるという、一種の無常感の中で 心を豊かにしてくれるものがきっと見つけられるような気がします 寂は 無常に耐えた美しさ、味わいともいえるように思います 変わりゆくものの美しさ 或いは 変わりゆくものの中にある、変わらぬもの 両方を見せてくれるのかもしれません どうぞゆっくりとご覧になってください。
お礼
ありがとうございます。 古色とさび というものを、いろいろな面から見てゆくと面白いと思います 言葉の例をあげれば 古色がでている 古色をほどこす さびがのっている さびた感じがする 結局、単純に考えれば、ものの表面の感触や印象なのでしょう ただ汚いと感じるか、味があっていいと感じるか その違いだと思います 聞いた話で たまたま外人さんに庭の掃除を頼んだら 庭石に付いた苔をきれいに落して、ツルピカにしてしまったという話もあります 頼んだ家の人は唖然としたらしいですが こうした感覚の違いは、もうどうしようもない 苔が汚いと思って落してしまった という 罪はないわけです すこし広げてみると きれいさに対する感覚や、汚なさに対する感覚は 異人種だからということがあるかもしれない だが そこは日本人 言われれば分かる という人が多い 外人さんでも分かる人もいるかもしれないが いくら言っても分からない人もいる そんな気がします 教養に関係なく、日本人なら持っている感覚がある 骨董趣味がなくても理解できる という面があると思います いいものは、誰が見てもいいといったような まあ 何となく分かる、といったところで あまり振り回さない方がいいのかもしれません まちがっても 年寄に 古色がある なんて言わないほうがいい です 怒りますから・・。