われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。
近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。
《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。
もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。
科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。
言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。
かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。
もう少し別様の説明としてのべます。:
ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。
そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。
すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。
これを名づけるとすれば:
あやまちうるスサノヲ( S )人間語
あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語)
となると思います。
ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は:
《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合
が ふさわしい。こうなると考えられます。
このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。
西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。
普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。
あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。
忌憚なきご見解をどうぞ。
お礼
√xは未知の謎の根って格好良いですね。 存や在の左の3画目分と√xと合わせたつもりでしたけど、 「ナ」と解釈してからの「「哲学」を一文字で表した字」の方が素晴らしいですね。 みなさん、ありがとうございました。