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運動部の体罰、絶対だめですか。役立った人いますか?
20年ぐらい前の話。高校時代、テニス部でしたが、練習中にビンタされたり、ラケットでたたかれたりしていました。鼻血を出しながら練習したこともあります。つらかったけど、勝負への執念のようなものが身についたと思います。あの練習に耐えた、という自信は、その後の人生にも役立っています・・・という人いますか。
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- black_trader
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母校の教師で、体罰により生徒に怪我を負わせたというニュースがありました。 新聞に報道されたほどです。教師は謝罪して反省している、というところまでは見ました。 もちろん、怒られる方にも原因がありますよ。 ただ、まず口頭での注意をし、理解させるのが必要です。 怪我をさせるまでやったらダメですね。加減が難しいところです。
- mojitto
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なんか単なる暴力も体罰として論じられることが多いですが、これはハッキリ分けるべきだと思います。 僕も体罰を受けた経験はありますが、それは罪を犯した(もちろん学校内に限らず社会でも犯罪行為)ことに対して、“懲戒”という意味での体罰であり、罰として正当性もあり(懲役や罰金なんて子どもにはできないことだから)、その後の人生にも大いに役立ちました。 が、ご質問にあるケースはさすがにありません。 体罰という名を借りた暴力で、試合の成績が良くなるとは… 授業中、先生が暴力を振るえば成績が上がる…と同じくらい信じられないことです。 20年ぐらい前の話ですが、担任による体罰の名を借りた暴力で、クラス全員が抗議して、校長が駆け付けるまでの事態にしたことはあります。 今にして思えば、警察沙汰にしてもよかったと思えるほどです。 自分がされたら(学生は判断力も社会常識も持っていませんから)我慢という選択肢も致し方ないかもしれませんが、クラスメートや部活の仲間がやられて黙っているのはあり得ません。 むしろ毅然と抗議した時のことが、その後の人生に役立っています。
- GIANTOFGANYMEDE
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少年スポーツのコーチをしています。 広範な意味で体罰の是非を問われるなら、例えば家庭や教育現場において、倫理、社会的規範に外れた行為に関して躾けるという場面では体罰も必要と思います。 ですが、質問の主題であるスポーツにおける向上に関して全く必要ありません。 倫理や社会規範は「やらねばならない」、「やってはいけない」ことです。強制力をもって仕込まなければ秩序は崩壊します。社会に迷惑をかけることは排除しなくてはなりません。 スポーツは個々が「やればいい」、「やりたい」ことです。強制されることではありません。向上するのもしないのも個人の自由です。下手のままでいいならそれもまた自由。どうぞご勝手に、です。 スポーツの指導者の使命と言うものがあるとすれば、「やりたい」、「上手くなりたい」という気持ちを引き出し、向上のサポートをすることです。決して恐怖によって支配することではありません。 だいたいスポーツにおける体罰の原動力は名誉欲やストレス発散です。 必要のない体罰は単なる暴力、暴行です。それを許せばやはり社会の秩序は崩壊します。つまりスポーツにおける暴力は反社会的行為です。 そういう精神異常者がスポーツ指導の現場に出入りしていること自体が異常事態。 反社会的人間は速やかに隔離すべきです。 メッシやフェデラーやタイガー・ウッズやウサイン・ボルトやフェルナンド・アロンソは体罰によって頂点を極めたのでしょうか?もしそうなら考えを改めなければいけないかもしれませんが。
こんにちは。 私は、小学校から大学まで、全て運動部に所属していました。 体罰と一口に言っても、解答者様たちのアンサーの中には、それは体罰ではなく暴力や犯罪に当たるものがあるように思われます。 私の高校時代は、強豪校は丸刈り、しごき、体罰(暴力)、暴力的な説教が当たり前に行われていました。 合宿中には、炎天下でバタバタと倒れる1、2年生が続出しました。 私の新入部時は、30人以上いた同期生は、卒業時には5人しか残っていませんでした。 確かに残った5人で、市内、地区、県大会で優勝したり優秀な成績を残せましたが、役に立ったのはしごきだけだったように思います。 おかげで、大学時代のしごきは、しごきのうちに入らないと感じられました。 体力と集中力は、スポーツを苦しみながら継続出来た事で、培われたと思っています。 感情的な体罰や、伝統に名を借りた暴力的な説教は、心の中で軽蔑していましたし、一つくらい年上というだけで人間的に尊敬出来る高校生などは、ほとんどいるはずもなく、逆に選手として実力のある先輩ほど、しごきは強烈でしたが説教には積極的ではありませんでした。 大学時代は、酒席でのOBや先輩への礼儀や、余興が出来ないつまらない等で、暴力的な説教をされ、スポーツを通して礼儀や競技力を高めるべきなのに、こいつら馬鹿じゃあなかろうか?と軽蔑していました。 私が幹部(3年生)になった時、かなり軌道修正しましたが、主務を務めていましたので、OBにかなり怒られましたが、頑として抵抗しました。 競技力を高める為のしごきは、高めたいという意思のある人間にとって必要ですが、体罰説教は全然別もので必要ありません。 実力のある人間ほど、人格も伴う傾向がありますが、運動だけの世界の人間関係や世間の狭い人間ほど、勘違いしやすい人とも言えます。 社会人になっても、会社組織の限られた狭い人間関係しか知らない人も、同様だと感じております。
私は体罰は必要だと思います。今東北で復興の仕事をしていますが学生時代の経験が困難を乗り越す原動力になっています。その頃自分が未熟だったから失敗し体罰で心から反省できて今日があるのだと思っています。体罰なしでやれば若いうちは勝手気儘に過ぎてしまいます。、親身の体罰教育が無ければ人間は育ちません。人生は綺麗事ではないのです。現在体罰がダメと世間では騒いでいますが、平和ボケの日本人にはイスラムやアフリカ,中近東で戦争している事も他人事では体罰の必要性は解らないから体罰反対と言っているのです。
- habataki6
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暴力をされる理由がないんですよ 運動音痴の人にいくらたたいてもうまくはなりませんよ 素質や能力は練習すれば誰でも世界で戦えるというのではないんですよね 生まれながらの身体能力に左右されるんですよ 暴力教師は学校には不要ですので 追い出しましょう。
体罰が屈辱なので頑張って一時的によい成績になりますが、その課程からは何も得ることができず、逆に自分の意思で頑張って居なかったことと、いったい何のための体罰だったのでしょうか?むしろ、自分が率先して実践したことのほうが自分の生き方にプラスになるものです。 どちらも、血のにじむような努力という点では同じです。 スポーツでは、自分自身だけでは出来ない効率的な練習として、しごきは必要です。 罰を与える必要はありません。
- satoshino
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10代の引き蘢りや、大人になってからの引き蘢りも パワハラで理不尽な対応で始まるようです。 部活などでメンバーで出場し結果が出せれば 「結果良し」で忘れる事が出来るでしょうが、良い結果が出せなかったら いつまでも負の記憶として残ると思います。 先生も先輩も、その場の感情で体罰をしている訳で 相手の事を本当に考えて体罰しているとは考えられない。 悲しい、悔しい、憎い、寂しい、怒りの感情は、何年経っても 時々思い出し、その時の感情まで思い出し辛くなる事もあります。
- 居眠り一等空佐(@km0710)
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俺は 大学の時、発熱してて朝練行けなかったら強引に呼び出されていきなりぶん殴られた事があった、その先輩からしたら 弛んどるって思ったんだろう。 だが俺は 頭にきて『やっとれるか~~!!』って その場で退部宣言して帰ったよ。 また高校生の時、答えられない生徒をテキストの後ろの部分を縦にして思いっきり頭をぶん殴る英語の先公居たな…、今でも思い出す度に『なんであの頃は何も文句が言えなかったんだろう…』って腹が立つ。今ならその場で殴り倒してる(笑) 殴ったり、叩いたりしなけりゃ教えられんなんて指導者は レベルが低いよ。 体罰ってのは暴力であり、立場の優位性を利用したパワハラ♪ 結局、頭が悪いから そんなやり方しか思い付かないし、それが正しいって思うんだろう。 体罰が役立ったって思う奴は、どMの変態か家畜レベルの脳ミソしか持ってない奴等だと確信してます♪
軍隊式ですね。昔は、水を一滴も飲まずに暗くなるまで練習させられ、下校前に、水道から狂ったようにガブ飲みしたものですが、アレも一種の体罰だったのかどうか?しかし、当時も今もその意味が全く分かりません。 体罰の効果とは、もしかすると、被害者が加害者に信頼や愛情を感じてしまうというストックホルム症候群の一種かもしれません。
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