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校則の必要性

 校則について考えています。  服装や髪形の規制やプライベートの制限(カラオケ禁止等)の校則についてご意見をお願いします。  個人的には、こういう校則には十分必要性があると思いますし、生徒はこれを守るべきだと思っています。少々飛躍していると思いますが以下が理由です。  自分の身分をはっきり主張するには、自分がある集団に所属していることを主張しなければなりません。今は江戸時代のように身分制社会ではないので、この主張は不断に行う必要がありますし、複数の集団に所属している場合はその方法の使い分けが必要になります。  児童・生徒・学生という身分を主張する(させる)には、やはり見た目(服装・髪型)を規定し、それに従う(従わせる)のが最も合理的で有効な方法だと思います。  個性の尊重やアイデンティティなどを耳にしますが、こういった自己表現は結局集団の中ですることになるわけですから、その集団で決められたルールの中でされるべきです。  例えばその規制自体に問題(男子は全員丸刈り等の明らかに時代錯誤のものなど)があり、おかしいと思うならば、学校に訴える(署名活動等)努力をすべきだと思います。それなしに、規則に従わないというのは卑怯だと思います。  またプライベートの制限については、児童・生徒を無用な騒動から守る、未然に防ぐということから必要です。事件がおきて困るのは本人ですし、悲しむのはまわりの大人たちです。  「責任逃れのため」というのはその制限を守れない人達の言い分です。実際に責任を負うのは学校側(大人たち)なのにも関わらず、どうしてそんなことが言えるのでしょう。  幼稚な文章を長々と申し訳ありません。ご意見よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.6

校則は学校内で決めたもので、そこに入学したのだから守るのが当然。 守らない人は、または守るのが嫌な人は、学校で勉強するのを止めて自学自習すればいいと思うが、 しかし、国法を犯すわけにいかないので、やはり行かねばならない。 昔の松下村塾や適塾がありましたけれど、その熟の校則うん?熟則はあったのかな?皆貧乏で、 みすぼらしいカッコだったらしい。 生徒は、自然と正座して授業を受けている姿勢が見えますね。 適塾などは、、当時は教科書がすくなかったので、昼間先輩たちが回し読み、あるいは書写して、 後から入塾してきた人は、夜皆が寝たあとで、勉強していたと聞きます。えらい時代ですね。 ようするに、勉強したい!という人ばかり集まっていたからでしょう。・・・一万円札の人もいましたね。 私の時代の小学校の校則は、登校時間、下校時間、休憩時間、右側通行、あとなんだったけかな。忘れました。 服装は小学校5年生までは私服でした。あとハンカチと鼻紙(今はティッシュといいますが)は、先生が持ってきたかを朝検査していました。貧乏で鼻紙が無くて、先生が「鼻紙はどうした?」ていうから「お母ちゃんが、ハナが出て来たらハンカチで拭きなさいと言うてました」と答えた覚えがあります。先生は黙っていましたけどね。 さて現代ですが、大人たちや国法の義務によって、勉強したくないのに行かされている。 また、しょうがないから学校に行っている。・・・(私の場合がそうでした) あるいは、私は医者になりたいから、弁護士になりたいからとか、勉強するために学校へ行くのだ。まあ色々ありますね。 そんなの人たちが集まっているのが、今の学校。 知識教育以外の、道徳教育する以前の問題。勉強をこれから受けるんだ。というカッコからの規則づくりで、どこの学校も 追われているみたいです。 軍国主義の名の残りみたいな”丸坊主”は今や流行らない。下らんこと決める奴は、教育の仕方を知らない奴だ。 坊主したい子は自分でしますよ。 靴後ろを踏むな、スカート短すぎる、制服のネクタイが緩んでいる、まつ毛つけるな、化粧するな、髪が長すぎる、 そりこみ入れるな・・・・きりがないね。 将来は医者になりたいので、剃りこみいれたい子がいますか? 将来義務教育学校は規律だらけの刑務所見たいにしたいのかな。規律の厳しい刑務所から出た人は立派に皆なりましたかな。規律は絶対でもない。 PBのカラオケ禁止?・・・学校行くのがもっといやになりますよ。・・・勉強する意欲もなくなる。・・・外から責めても内面は苦痛になるだけ。 ”学校”の見栄えや型の精神、教育理念の崇高さ、そんなこともどうでもいいことである。いいかっこしいは不可。 学校での勉強が本当に楽しい、面白いよ、「ねえ!今度の期末テスト勉強一緒にやろうよ。終わったらカラオケに行こうよ。先生も呼ぼうか」。となるような・・・そういう教育を考えるべきだね、いじめ人間も自然といなくなるような、やりがいのある教育になってくれればいい。 いつかは運動靴の後ろは踏まなくなる。スカートも丁度良い長さになる。 要するに今やっていることは、本末転倒、いわゆる さかさま。 時間がかかるが、そういうこと。生徒を変えるには、まずリーダーである教師から革命をおこすこと。 絶対に今の刑務所型にしないこと。生徒は犯罪者ではない、日本の将来の宝なのだから。もっと自由にさせるべき。 先生が力を入れるのは勉強の教え方である、最初は聞かない子供もいて当然、先生の一生懸命教えてる姿に、将来その子供は感動するのです。・・・そしてその子が大人になれば真似をします。かならず。結果は必ずでますよ。あせってはいかんですよ。・・・学校時代は勉強しない子も大人になれば苦労して勉強する子もいます。無理に押し付けない。 学校は楽しいところ。先生も一緒に遊んでやること。将来先生には感謝します。その子は。 「あら 今日はまつ毛つけてきたの かわいいね お人形さんみたいね~」でいいんだよ。

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.5

質問者様はルール(法律でも校則でも)というものを誤解しています。 校則は必要ですが、質問者様の主張には間違い(または誤解)が散見されます。 >児童・生徒・学生という身分を主張する(させる)には、やはり見た目(服装・髪型)を規定し、それに従う(従わせる)のが最も合理的で有効な方法だと思います。 そもそも「身分を主張する」合理性が理解できません。人間はすべて「基本権を有した平等な個人」であるのが現代日本の原則です。所属してる集団の身分を主張する、ということは「どこにも所属してない人の身分を軽んじる」「集団の優劣(一流大学と三流大学とか一流企業と零細企業とか)で身分に軽重がつく」ということになりかねません。 こういうレッテルを貼らないで、すべての人間が平等に権利(義務も)享受できる、のが民主主義ですから、この論法には問題が多いと思います。 ただし、別の理由で服装規定などは必要だと思います。 >例えばその規制自体に問題(男子は全員丸刈り等の明らかに時代錯誤のものなど)があり、おかしいと思うならば、学校に訴える(署名活動等)努力をすべきだと思います。それなしに、規則に従わないというのは卑怯だと思います。 ルールというのは相対的なものです。また合理的で誰もが納得できる理由が必要です。「誰もが納得する」からこそ拘束力を生じさせても良い、ということですし、逆に多数の人がその理由に疑問を持つならルールのほうを改正することが必要になります。 民主主義の現場としての法律は選挙による国会議員の選出、都道府県や市町村の議員の選出、という形で間接民主主義が担保され(最近、衆議院の違憲判決がありましたけどね)、また議員や行政に法律改正を促す方法もいくつもあります。 しかし、校則を見てみると問題点があります。「校則改正のルールが明確化されていない」「生徒会において、校則改正にどこまで関われるか明確ではない」「校則そのものに合理的な説明ができないものが多数ある」などです。 特に合理的な説明については非常に問題があり、たとえば「男子は丸刈り」とか「スカートはひざ下5センチ」などの服装・身体規定について「なぜこの規定になったのか」ということを合理的に説明できる教師を一人として知りません。 たとえば隣の市では「男子は耳にかかるぐらい」なのに自分の市では「男子は丸刈り(5分がり以上)」など規定がある場合「隣の市となぜ違って、こういう規定なのか」を説明できる人はいないと断言できるぐらい、不合理といえます。 これらの規定が明確でない以上、民主的な国家の教育としては非常に問題が多いといえますし、ルール改正が明確でない状態で「ルールがある以上ルールを守らないのは卑怯」というのは成り立ちません。 > またプライベートの制限については、児童・生徒を無用な騒動から守る、未然に防ぐということから必要です。事件がおきて困るのは本人ですし、悲しむのはまわりの大人たちです。 ここではっきりしなければならないのは「学校の権限」ということです。当然ながら、学生(未成年者)を保護し、守るのは一義的に保護者の役目です。  学校がプライベートを規制するのは保護者の権利を侵害することにつながっていきます。 たとえば、学校でバイク免許の取得を禁止していた場合、それはバイク販売店を営む保護者やバイクレーサーを職業にする保護者の教育方針を否定することになりかねません。 もちろん、バイクの免許を取れる学校と取れない学校が選択肢としてあるなら別ですが、大多数の学校でそれを不可としている以上、保護者の教育方針や保護者の権能との整合性に問題があります。 また学校の教師も保護者のように生徒を保護できるわけではありません。学校教育の時間(登校・下校を含めた拘束時間内)以外の教育方針について、学校が保護者の権能を否定できる、という定義はどこにもありません。 このあたりは保護者も「学校に任せる」と放棄している人もいますので、難しい問題です。 私個人としては「日本の学校教育は過干渉」だと思います。ルールは必要ですが、明確である必要があります。また保護者の権利をないがしろにして校則が優越するのは問題です。

  • kamikami30
  • ベストアンサー率24% (812/3335)
回答No.4

校則の話は難しいですね。 現在の日本は、民主主義ですが、 学校には、軍事主義やその名残がいくつも残っています。 民主主義の基本的な考え方としては、 みんなで決めてみんなで守る。 と言うものだと思いますが、校則には、校則の変更に関する条項がないことがほとんどです。 生徒会等で意見を出して校則を見直すことは民主主義の基本で素晴らしいと思いますが、変更しないことが前提としてあるのが現状です。 憲法では、法の下の平等をうたっているわけですから、 区別はあっても差別はあってはならないと思います。 身分という単語自体も身分制度という差別を連想させるので、 職業証明書とすれば矛盾がないのになと、個人的には思ったりします。 いずれの職業であろうと、その職につく前に個人であることが尊重されるべき。 その職業に関して必要に応じて個人の利害関係等で判断して行動を決めることが自由な権利に思います。 校則に限りませんが、法や規則があるということは、 それらを守ることで、責任回避が可能となるのは事実です。 規則やマニュアルに沿って対応していれば、 対応は正しかったと言うでしょ? 実際にそれでも問題が起きたわけだから、 規則やマニュアルに不備や不足している点があった。 だから、どの点をどう改善すべきか? 何て言う議論とは程遠い。 改善がない規則は無駄と言える。 時代錯誤の規則がまだある時点で、見直すサイクルに問題がある事がわかる。 基本的に、物理的可能性を元にルールを決めなければ、 はっきりとした答えなどあるはずもないが。 プライベートな範囲に及ぶ規則 危険の予防にはなるが、デメリットとしては自由を奪う。 どんなことでも共通している。 日本国内での自動車を全面違法とすれば、 自動車での交通事故は、激減するでしょうね。 経済的損失は計り知れないでしょうけどね。 そもそも生存を禁止すれば、殺人事件は起きない。 人間社会は破滅しますけどね。 とは言え、ある程度の規制は必要だと思います。 内容的には法律の範囲で十分に思えますけどね。 今回の質問で最初に掲げている例の話をすると、 カラオケに行くこと自体を制限する必要は感じられません。 逆に、学校の責任範囲に問題を感じます。 基本的な授業、集団生活について教鞭を取ることは必要ですが、 それ以上の範囲の責任を、完全に親のものとすれば、 学校側がプライベートの範囲まで制限をかける必要もないでしょうし、 責任を取らされる親も少しはまともになるでしょう。 線引きと、責任を明確にすることが、教育に繋がると思います。 いじめだって、刑事事件の範囲となるものが多くあると思います。 何事にも、曖昧なのが日本ですから、実現するのは難しいでしょうけどね。 法律を元に考えると、校則を守る義務はないのが根底にあると思いますよ。

meiza424
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 つまり校則が、法律のように義務・権利を定めるのではなく曖昧な努力目標しての規則・規律を掲げていることと、学校がその校則を改定するだけの組織・機能を有していないことに問題がある。また校則で制限する内容の範囲が広いため、プライベートな範囲については保護者に一任すべきである、ということでしょうか。 私には少し分かりづらかったので、このように勝手に解釈いたしました。 大変参考になります。ありがとうございます。

  • SweetAce
  • ベストアンサー率33% (26/77)
回答No.3

私も学生の頃は時代錯誤な校則だと思っていましたよ。 校則の内容はさておき理由など後付けのような気がします。 社会に出れば理不尽なことはたくさんあります。 学校は学ぶ所…そういった理不尽なことでも忍耐力を養うための勉強ではないかと思います。 アイデンティティどうのこうのは自立し自己責任が果たせるようになってから初めて主張する権利があるってことでしょうか。

meiza424
質問者

お礼

ありがとうございます。 私もその通りだと思います。 <アイデンティティどうのこうのは自立し自己責任が果たせるようになってから初めて主張する権利があるってことでしょうか。> はい、私はそう考えます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

「自分の身分をはっきり主張する」この必要性はどこから出てくるのでそうか? この必要性が証明されなければ、その後の論理展開は全て意味をなしません。

meiza424
質問者

お礼

その集団の一員として活動する際は、「私はこ集団の一員です」という身分の証明(主張)が必要になると思うのですが、いかがでしょうか。 私の理由へのご指摘ありがとうございます。

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.1

半分くらいは同意なんですけどね。 残念ながら一致団結したり集団を形成して闘うことを学生時代では教えてもらえません。 人間は成熟するのに20年近くを要し、それまでは基本的に教えられたこと、訓練したこと、遺伝子的に受け継いだことの3つ以外はできないものです。 生徒会もあるにはありますが大半がただのお飾りのようなものであり、委員長や生徒会長も基本的に教職員の下働きのような状態です。 これは日本社会と政治が意図的にやっています。 まず第一にガキ大将の存在が悪影響を及ぼすとし意図的に排除しました。 その結果年齢を超えたつながりがなくなり集団で遊んだり代表して責任を取るといった存在が消えました。 第二に学生運動の消滅をはかりました。 安田講堂事件や安保闘争など強力なリーダーシップに率いられた運動に手を焼き、リーダーシップを育てないようなカリキュラムにしています。 こちらの結果は自己中心的でわがままな若者が大量に増えたと言われています。 次に18歳未満は「こども憲章」をはじめ国際条約や条例などで守られています。 その中には主張をすることや心身の安全を守られることも記載されています。 これは生まれ持った基本的な人権、権利の一部です。 私はこの投稿にあるようなことは「自分も含めた社会の責任」だと考えています。 度を越えたわがままを言うように育つ社会、理解できるように育てられない社会、それらは他人事ではなく我々一人一人が関わり原因であると考えなければ千年たっても改善されないでしょう。 それには保育と教育心理学の基礎を親になる前に頭に入れる必要があると思います。 少し学べばわかることですが、世間の一般常識と保育に基本はかけ離れたことも多いです。 またいくつか知っておくだけで迷い悩み一人で抱え込み、ノイローゼになることを防げるようなポイントや心構えもあります。 そしてねじまがった人生を遅らせてしまうことを大幅に減らせるでしょう。 ルールの必要性、重要性、それに対し自分ができること、これらを学ぶことも同様です。

meiza424
質問者

お礼

ありがとうございます。 <世間の一般常識と保育の基本はかけ離れたことも多い>という部分は特に参考になります。 貴重なご意見本当にありがとうございます。

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