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フェノロサと南画
よろしくおねがいします。 フェノロサって何で南画を否定したんですか? 分かる方お願いします。
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「美術真説」はオンデマンド出版されていますね。 http://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=250 原文は英語だったようですが、現存しないようです。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004645465 http://yamamomo02.web.fc2.com/artschool.htm
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- Postizos
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おそらくですが 中国の南画を真似て山の形なども中国の南画にあったものをそのまま模して使ったような作品があったからだと思います。(特に明治時代の「南画」がそういう「型」を意味していたのだと思われます) 1 ・中国の絵の摸作であって日本の画家の独自性がわかりにくい。 ・日本の風土を写生したものではなかった事 がフェノロサや天心の考えた日本らしさ・日本画振興の構想にそぐわなかった。 2 ・南画風という型にはまったものを嫌った。 そういうことではないでしょうか。 谷文晁などを見ると日本の実際の風景を写生したり、他の人が写生した日本の風景を下敷きにしたりしていますので、南画の全てが外国のものの摸作であったとは言えないでしょう。 フェノロサ天心の考える日本画とは伝統的な型ではなくて世界を観た上での独自性だったんではないでしょうか。ところが明治時代の南画家は南画の考え方の輸入には興味を示さず、もっぱら絵柄としてのコピーを繰り返していた。前の人のリンクにあった芳崖などは西洋画から精神や画材を取り入れて独自の絵柄を作った。 おそらく日本人が文明開化で「西洋の物を真似すれば新しい・国際化だ」と勘違いをして当時の南画家と同じような間違いをするのを怖れたのでしょう。 南画という流派を嫌って他の流派を支援したわけではなくて、流派にとらわれる事を避けたのでしょう。 http://www011.upp.so-net.ne.jp/bokuyu-kai/contents3.html
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回答ありがとうございます。 >>中国の南画を真似て山の形なども中国の南画にあったものをそのまま模して使ったような作品があったからだと思います。(特に明治時代の「南画」がそういう「型」を意味していたのだと思われます) 略 私もネットで調べるとそんなことが書いてありましたのでそうかなぁとも思うのですが、そうであれば当時の狩野派だって同じなんですよね。例えば、芸大設立にかかわっていた橋本雅邦や狩野芳崖の師である狩野雅信に対して「わが師は絵を知り給わず」と公言して、いわゆる模写、粉本主義に陥っていたといわれていますし。そういう意味では狩野派も批判されるべきであったけれども、フェノロサはその狩野派などは守る側に回っていて、現在でも狩野派は全体的に評価が高いのはここにある意味近代的美術評価の起源があるように思います。しかし、南画は新南画なんて運動はありましたが大雅や文晁・崋山・鉄斎というような例がはさておいて、南画の全体的な評価は低めのように思います。 >>フェノロサ天心の考える日本画とは伝統的な型ではなくて世界を観た上での独自性だったんではないでしょうか。ところが明治時代の南画家は南画の考え方の輸入には興味を示さず、もっぱら絵柄としてのコピーを繰り返していた。前の人のリンクにあった芳崖などは西洋画から精神や画材を取り入れて独自の絵柄を作った。 天心は当時の人気の南画家奥原晴湖の弟子ですから、南画出身のはずですがどうして南画に新しい息吹を入れようともしなかったのかということも疑問です。芳崖や雅邦はそれをしたのに、天心はなぜそのような試みをしていないのか。 >>南画という流派を嫌って他の流派を支援したわけではなくて、流派にとらわれる事を避けたのでしょう。 そうなんですが、フェノロサは講演の中で南画を批判し、同調した新聞社「つくね芋山水」とコケ下した様なんですよね。まぁ、昭和の初期までは南画の評価はそれでも低くはなかったようなんですが、このフェノロサの講演内容が知りたいんですよね。
- marbleshit
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1878年(25歳)、父が世間に馴染めずに自殺。両親を失って放心状態の彼の耳に入ったのが、 ハーバード大に出された東大の求人情報だった (前年に渡日して教鞭をとっていた動物学者エドワード・モースが募集)。 キリスト教社会では自殺が神の冒涜にあたり、父のことで社会の冷たい風に晒された彼は、 この求人情報に運命的なものを感じ、同年夏に新天地・JAPANに渡った。 9月から東大で哲学や経済学を教える。 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、 「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、 枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。 彼は古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。 やがて彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。 明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、 日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、 日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。 写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、 狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic36.html
お礼
回答ありがとうございます。 しかし、なぜ南画が否定されたのかがよくわかりません。
お礼
やっぱりそうなんですね。「つくね芋山水」ってことばも新聞記事でしか調べられないんですね。 ありがとうございました。