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自己言及のパラドックス

よく「この文は間違っている」という表現は、自己言及のパラドックスを生み出す、と言われますが、私はこれに異議を唱えたいです。 もし、この文章は深刻なパラドックスを生みだすため、適切な表現ではないというなら、我々はこの文章を使うことはできませんが、実際にはそんなことはありませんよね。 なぜなら、「この文は間違っている」の「この文」とは、まさにその文のことではなく、その次の文やそれ以前の文を指しているに決まっているからです。でなければ、まったく意味のない文章となってしまいます。 「この文は間違っている」の「この文」をまさにその文のことだと理解することは、まったく理に適っておらず、クレイジーだと思います。 そんな不合理な解釈をすればパラドックスでも何でも生じても何の不思議もなく、実際のところ、そこに深刻な問題(パラドックス)などまったくないと思います。 また、有名な「クレタ人はウソつきだ、とクレタ人は言った」も、世の中には、「常に嘘をつく人」と「常に正直な人」の二種類しかいないという、不合理・クレイジーな前提に立つから、パラドックスが生じるのであって、実際にいるのは、「たまに嘘をつく人」や「頻繁に嘘をつく人」などであり、「常に嘘をつく人」も「常に正直な人」もまず考えられません。 このように、不合理な前提に立つからこそ、パラドックスが生じるのであり、合理的に解釈すれば、そこにパラドックスなど生じようもないと思うのですが、いかがでしょうか。 合理的な解釈をしてもなおパラドックスが生じる例としては、「ソクラテスはいる、かつ、いない」などでしょう。

みんなの回答

noname#213462
noname#213462
回答No.9

>数学者は、0で割ることを「禁止事項」とし、 >「この文は間違っている」の「この文」をまさにその文だと解釈することはできない、~省略~私にとって、それは「禁止事項」です。 数学のカテゴリーで質問した方がいいのではないでしょうか?

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 同じ形式論理の話ですから、問題ないでしょう。 また、この問題自体は哲学の問題でしょうから、ここで質問させて頂いています。 また、私の認識では、数学は哲学の一部です。

mijukamin
質問者

補足

これ以上続けても意味がなさそうなので、締めきらせていただきます。 ありがとうございました。

noname#194996
noname#194996
回答No.8

質問者様の仰ることは常識として尊重できます。でも 言葉を純粋に言葉の意味そのものとして厳格に、緻密に積み重ねていくところに哲学の学問としての価値と面白さがあって、その先に哲学によって得られる様々な成果が期待できます。自己言及のパラドックスはそのような中で現われた「面白い、興味ある」成果のひとつです。これはこれで価値があるということでしょう。 そういったことと貴方の考えは相容れないところがあるように思えます。 私の偏見かもしれませんが、そんな感想をもちました。 ご参考まで。

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 >質問者様の仰ることは常識として尊重できます。 いや、今では、パラドックスが発生するという考えの方が常識になってしまっているので、私の考えはもはや常識ではないと思います。 今、私は常識に逆らっています。 >言葉を純粋に言葉の意味そのものとして厳格に、緻密に積み重ねていくところに哲学の学問としての価値と面白さがあって もちろんその通りです。 各人の都合で言葉の本来の意味を歪めてしまっては、それこそ何でもありの世界になってしまいます。 そして、私に言わせれば、その言葉の意味を歪めているのが、この問題の支持者に他ならない、と認識しています。

noname#194289
noname#194289
回答No.7

自己言及というのは自己以外の主体を想定しないときにのみ成立するのではないかと思います。私はウソつきである、とある人が言った時、その人以外のことは考えれていないと思います。この文は誤りである、の場合には問題になっている文以外の文も存在していることは当然ではないかと思いました。クレタ人の場合も同じではないかと思いました。

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 >私はウソつきである、とある人が言った時、その人以外のことは考えれていないと思います。 まず、ここで、「ウソつき」とは「常に嘘をつく」と解釈してもよろしいんですよね。 この場合、その人が「常に嘘をつく」または「常に正直」のどちらかでしかあり得ないのならば、たしかに、そのどちらを仮定しても矛盾が導かれます。 しかし、実際には、そのどちらかでしかあり得ないということは、あり得ません。 では、ここで、健全に、その人が「たまに嘘をつく人」だと仮定し、その発言が、まさにその「たまにつく嘘」だとすれば、「たまに嘘をつく人」が「私は常に嘘をつく」というたまの嘘をついた、ということになります。 この結果、導かれる結論は、「たまに嘘をつく人は、常に嘘をつくわけではない」となり、一切のパラドックスは生じません。

mijukamin
質問者

補足

この場を借りて、皆さんに一つ訂正させてください。 ラッセルの件ですが、今考え直してみると、私の考えそのものではありませんでした。 彼の考えでは、解決できない問題もありますしね。 夜遅く、眠かったので、よく考えずに書き込んでしまいました。 失礼いたしました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.6

No.3です。 お礼をありがとうございます。 mijukaminさんが言いたいことは分かります。 私はあなたがあなた独自に考えることに異論はありません。 問題は自己言及のパラドクスを提示した側の意図や考えや思いを汲み取ることだと思います。 提示した側とmijukaminさんの言ってあることが共通していない。 一つの理論で全体をカバーできるものは無く、一部の理論を別の一部を説明するのに 当てはめても必ずしも正解が出るとは限らないということです。 mijukaminさんをどうこう言うつもりはありません。 提示した側の解釈をできるだけそのまま受け取り、どう活用していくかが渡された側の問題だと私は考えています。 この提言は、難解とされている問題を解く一つの鍵として機能しています。 私が言いたいのは、提示者側に立ち意図や考えを汲み取ると何が見えてくるか。 自己の持つ視点は誰しもいろいろあって、視点を変えると違う見え方がある。 そんなところです。

mijukamin
質問者

お礼

再びありがとうございます。 私は、この問題を提示した人間(もちろん一人ではない)は、根本的なところを十分に考えられていないと思います。 数学者や形式論理学者には、哲学的思考ができない人間が多いですから、決して不思議なことではありません。 「この文は間違っている」の「この文」をまさにその文だと解釈することはできない、してはいけない、というのが私の意見です。 つまり、私にとって、それは「禁止事項」です。 もしも、それは一つの考えで、この問題を提示した人間の考えも尊重すべきだと仰るなら、数学者は、0で割ることを「禁止事項」とすべきではありません。 たとえば、オイラーは、1770年に出版した『代数学完全入門 』のなかで、1/0は無限大となり、2/0は1/0の2倍の大きさをもつことは明らかである、と平然と述べています。 もちろん、現代数学者はこの考えを認めません。 自分たちが所有するのとは違う別の理論として認めることもしません。 現実の数学者は、0で割ることを「禁止事項」とし、論理展開の中で、そのような禁止事項が公然と行われていたら、その時点で、完全拒否することでしょう。 私も、「あなたがそう考えることを否定はしないが、こちらはこちらで正しいことを言っているので、理解していただきたい」などという、穏当な相対主義を取るつもりはありません。

mijukamin
質問者

補足

http://swansong3478.web.fc2.com/0119000taikakusen.html ここで紹介されているラッセルの考えは、従来、私が抱いてきた考えそのものです。 このサイトで完結に紹介されていたので、ぜひ皆さんも目を通してください。

回答No.5

 また来ました。Mr. Dechat Barris です。  ▼ 私の言う事は全て嘘だ  ☆ この命題だけでは 過去や未来のことが決まらないと思われます。  そういう現実の論理を狭めて そのいま・そこにおける一時的な場合にかんしての論理に縮小し固定することは 人間の部分化になろうかと考えます。  言いかえると その時その場で こういう発言をしたということであれば 《全て》というのは 強調して言っているのだと捉えられます。百パーセントという意味ではないという意味です。  もし狭い縮小論理では どうしてもパラドックスが生じると言うのであれば そのときには いまこの発言をした人に 尋ねてみればよいわけです。《全て》とは どういうことか? と。  あるいはもっと言うならば。  《嘘》の問題があります。その定義をめぐってです。  ただし 必ずしも言語としての定義ではありません。  たとえば おのが心にさからって――その意味でウソを――自己表現として言っていたとしても そのウソによって むしろ相手には自分のほんとうの心がつたわるであろうと踏んだ。そういう場合があります。この  ▼ 私の言う事は全て嘘だ   ☆ についても そう言える場合があるはずです。  狭い論理的な論理における矛盾と 現実の人間の存在にとっての自己表現におけるその世界いっぱいに広がった論理とは別だと考えられます。

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 まさに仰る通りで、現実にはありえない範囲で無理に考えるから、矛盾が生じるのだと、私も思います。 現実的(合理的)に解釈してやれば、何の矛盾も導かれないのです。

回答No.4

#1の者です。 >「たまに嘘をつく人の言う事は、全てウソというわけではない」 >この文章にパラドックスが含まれているでしょうか。 上記の場合、「私の言う事は全て嘘だ」という言明を、 勝手に『たまに嘘をつく』という、異なる内容に変えて しまっています。 そのような事が可能ならば、議論が成り立ちません。 「全て~である」という言明を否定する事になります。 クレタ人が常に嘘をつくかどうか、ではなく彼が言った 言葉を改ざんしているのです。 「たまに嘘をつく人」であっても、「私の言う事は全て嘘だ」 と言った場合、それが『たま』の嘘であった場合、 「」内の言明は嘘=たまに本当の事を言う事になり、 逆に『たま』の本当であった場合、「」内の言明は真= 嘘ではなくなる、という具合に、「たまに嘘をつく人」が どっちを言っても矛盾するのです。 つまり、あなたの指摘は「全てについて~」という言明を 否定する事にのみかかっており、クレタ人が常に嘘を つくとか常に正直であるといった問題ではなくなっている のです。 (否定しているのはその人の性質の如何ではなく言葉)

mijukamin
質問者

お礼

再びありがとうございます。 私は、クレタ人の発言「私の言う事は全て嘘だ」の内容を改竄したわけではありません。 クレタ人がそう言ったという事実はそのまま保存します(当然ですが)。 そうではなく、その発言をしたクレタ人が「たまに嘘をつく人」だと仮定すれば、何の矛盾も導かれない、と言っているのです。 その発言をしたクレタ人が、「常に嘘をつく人」か「常に正直な人」のどちらかである場合に限り、そのどちらを仮定しても矛盾が導かれます。 しかし、実際には、そのどちらかである、ということはありません。

mijukamin
質問者

補足

あ、すいません、クレタ人ではなかったですね。 でも、要はそういうことです。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.3

一つの条件としての枠の中で、限定した現象してのパラドクスがおきます。 それをそこで定義された条件の枠を広げ、拡大解釈に臨むのであれば 限定外の条件により、その理論は破綻します。 部分的に矛盾をはらむことが、いかなることかを私たちは経験で分かっていることと思います。 おおむね生きるには困っていなくても、やったほうがいいと分かっていることを自らやらないという パラドクスを自己の中に抱えている人が多いからです。 勉強だとか仕事だとか、掃除だとか人を手伝ったり優しくしたり、適度な運動だとか食事管理などなど。 部分矛盾を理解しないと解決できないものがあるために 自己言及のパラドクスは、それを追求するためのものとして見つけられたものだと思います。 事を細分化して解決に導くには、必要な知識だと思っています。 見つけられた理論は、何かを解決に向かわせる一つのピースです。 一つの提言は、それぞれがピースであり全体を現している訳ではない。 一側面を全体と比較しないことが大切だと思います。 一事象に限る考え方が必要ですよね。

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 仰っている意味は分かります。 しかし、私の考えを述べさせてください。 たとえば、数学では、0で割ることは禁止事項となっています。 なぜ禁止事項となっているか、と言うと、数学者の多くが0で割ることはできないと考えているからです。 では、なぜ彼らは0で割ることができないと考えるのか、と言うと、0で割っても良い、という前提に立つと、矛盾が導かれるからです。 たとえば、100÷0を考えます。 これに、ただ一つの答えがあるとして、100÷0=xとします。 xには何らかの数が入ります。 で、数学の規則に従って、左辺の0を右辺に移項すると、xがどんな数であろうと、0を掛ければ0になるので、100=0となります。 これは矛盾です。 ここで、数学者たちは、結論として、「0で割ることのパラドックス」とするでしょうか。 しません。 彼らは、0で割ると矛盾が生じるから、そもそも0で割ることはできない、と結論するのです。 できないことをすれば、矛盾が生じるのは当然だというわけです。 尤もな考えです。 では、これを「自己言及のパラドックス」問題に当てはめてみます。 「この文は間違っている」の「この文」はまさにその文を指すという前提に立ちます。 すると、ご承知の通りの矛盾が導かれます。 ここで、先の数学の考え方をそのまま適用すれば、矛盾が導かれたということは、「この文」はまさにその文を指すという前提が間違っている、すなわち、「この文」をまさにその文だと解釈することはできない、という結論が導かれるはずです。 しかし、実際には、「自己言及のパラドックス」という結論で終わってしまっています。 つまり、私に言わせれば、0で割る場合と同じで、そもそもできないこと(ここでは、「この文」をまさにその文だと解釈すること)をしているのだから、その結果、矛盾が生じるのは当然だというわけです。

回答No.2

 こんにちは。  同感です。  がんばってください。  《この文は間違っている》という判断が マチガイである場合もあります。  あるいは 見方によって マチガイでもあるし マチガイではなく妥当と見られるというふうに全体が見られる場合もある。  いくらでも 《場合》がひろがります。  論理は 一時的・部分的な範囲のみを扱う場合があるということだと思われます。  おっしゃるように 排中律は よほどのことがない限り 従わなければ話の筋はかたちづくられることがあり得なくなります。

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 自己言及のパラドックスの問題は、自分で障害物を置いておきながら、「目の前に障害物があって前に進めない、大変だ」と叫んでいるような滑稽さを思わせます。 パラドックスが発生するように解釈してるんだから、そりゃ当然の結果でしょう、と思うわけです。

回答No.1

それでは、「私の言う事は、全てウソだ」というのはどうでしょう? 「この文」あるいは「クレタ人」と限定するから、解釈の幅が生じますが、 「私」、「全て」と定めれば、解釈の幅はなくなります。 実は、この“自己言及による矛盾”こそ、ゲーデルの不完全性定理の ベースにあり、「公理系は不完全(系内で証明できない公理の介在) ゆえに無矛盾であり得る(Aと非Aを同時に導かない)」という結論に 至るものなのです。 (多くの解説書が出ていますので、あの「自己言及」のリシャール数を 使った普遍化の美しさに、ぜひ触れてみて下さい)

mijukamin
質問者

お礼

ありがとうございます。 >それでは、「私の言う事は、全てウソだ」というのはどうでしょう? 何の問題もないでしょう。 たとえば、「たまに嘘をつく人」が「私の言う事は、全てウソだ」というウソをついたところで、何のパラドックスも生じません。 つまり、その人が「たまに嘘をつく人」だと仮定し、その発言が、まさに「たまにつく嘘」だとすれば、「私の言う事は、全てウソというわけではない」というごく真っ当な結論が導かれ、何のパラドックスも生じていません。 「たまに嘘をつく人の言う事は、全てウソというわけではない」 この文章にパラドックスが含まれているでしょうか。

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