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自分と自我の違い

自分と自我の違いは何と考えられますか?また、これは、英語だと、selfとegoの違いに相当するでしょうか?

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回答No.4

精神活動の全てを『自分』と表現すると思います。それに対して『自我』は脳の機能の中でも、顕在意識のみの事と思います。此処で脳の機能の科学的な証拠文献です。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この記事を補完するためにもう一つ見て頂きたいものがあります。脳卒中のために脳の機能を『内部から観察出来て、生還出来た』脳科学者の動画です。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 この動画の中で博士が語っている内容は、正に宗教体験そのものと思います。右脳の機能は『生命発生装置兼生命維持機能』すなわち、命そのものの働きが、右脳の機能という意味です。 人間でも動物でも植物でも、昆虫や細菌でさえ『生命活動』を展開しています。その生命の維持機能が『仏性』の働きによっています。 桜なら、花が咲く時期でも色でも香りでもその種独特の持ち味がありますが、その特徴は生まれた時既に『持たされて生まれています。』この『持たされている働き』を命そのもの働き=『仏性』と呼んでいます。 人間も例外では在りません、生まれた時既に持たされている働きがあります。何も学ぶ事無しに生まれた赤子を例にするなら分かり易いと思います。 学ぶ以前から知っている働きは、三つに大別出来ます、只便宜上に大別すると書いていますが、人間存在の大きさから言うなら、三つに分ける事は適切ではない事を始めに断っておきます、何故なら『人間の個性が展開する世界では』必ずしもこの三つという限定された展開だけではすまない場合も出てくるからです。 この三つが複雑に絡み合い、もつれ合いながら一人の人間の構成要素となっているからです。 便宜上の大別とは『身体の生命維持機能』が一つです。心臓の動かし方も、呼吸の仕方も消化器系統の消化の仕方もホルモンの分泌も神経系統の統率も、他人に聞く事無く全て『知っている事として』生命維持活動は自動運転の如く、全て行われています。 その内の一つは、『感情や考え』を湧き上がらせる者として働いている生命維持機能です。その理由は不安や恐怖や安心などを初めとして、喜怒哀楽の全てを知り尽くして『赤ん坊』は生まれています。誰に習わずとも全てを、既に熟知している事が証明しています。 その内の一つは『行動の自在性を確保する事によっての生命維持機能』として働く働きとしてです。その証拠は『手や足の動かし方』を質問してくる事が無い事から、証明済みです。 自我意識は生まれた時は『白紙状態』です、何もかも知らない存在として生まれています。 この状態を聖書では、『天国に一番近い存在は幼子』と教えています。その理由は『心が未だ一つしかなくて、その心は見ている自分だけを演じているほか無いからです。』 思春期頃、左右の脳の機能分化が完成するようです、その頃から悩みが始まる事を意味します。その理由は『機能が二つになった事で、お互いの機能に溝が出来る場合があるからです。 この機能が二つになる事は、具体的な例を挙げるなら、『見ている自分』に対して、『見られている自分』が付け加えられる事を意味します。『見ている自分』VS『見られている自分』が争いだす事を意味するからです。具体的には『自分の裸を人に見せられなくなる事を意味します。』恥ずかしいという感情になって現れるからです。 争いだす事を、『疑いだす』と置き換えるなら尚更分かり易いと思います。自分自身は何者か?と疑いだすという意味になるからです。幼子の心は『自分を疑う事が無かった』事を意味します。 こう云った答えの出ない疑問の闇に『放り込まれる事を総称して』失楽園と、聖書は形容しています。 『自我』は後天的に成長しながら、言葉での思考が主体的な傾向を示します。そうして顕在意識としての自我を形成します。そうして言葉によっての思考方法が確立します。この思考方法が人間を悩ませる事になります。 この意味は『思考方法の原点には言葉の原理が関係します。』言葉にする時、物事が分けられてしまうからです、言い換えるなら、本来の意味よりもより限定が加えられる事を意味するからです。左脳の機能が関係しますが、物事を割り切って言葉にする習慣によって、物事を有限の世界に閉じ込める事になるからです。 従って、自我意識は物事を割り切って考える思考方法が身に付くために、有限の世界しか把握出来なくなってしまうからです。 それに反して右脳の人格は、意識が二つの機能になった時点から『無意識の底に封印された形で』自我の前から姿を隠してしまいます。このために『心を病む、神経症、自律神経失調症』などの原因が分かり難くなっています。 右脳の機能は生命維持機能として働いています。自我が、自分の命の源に『疑いを差し挟む形で苦しむ事になります。』ので、生き難い思いで苦しむ事になります。つまり心の矛盾の産物が『漠然とした不安』という事になります。 動画のように『脳梁の中=意識の根底』で出会う体験を、キリスト教では『神と和解する』と形容しています。 普通の生活では『意識』VS『無意識』は交替制がキープされる事によって、正常な毎日が展開しています。その出番の交替制が崩れた場合に、その崩れた機能によって呼び方が違っています。 その出番争いに『自我意識が』出張ってしまって、交替しない用意する場合その機能別に呼び方を変えています。 『湧き上る感情や考え』を湧き上がらせる機能と交替しない時『心を病む』と呼んでいます。 行動の自在性の確保によっての生命維持機能と交替しようとしない時は『神経症』です。 身体の全ての生命維持機能を司る者に支配権を渡せない様になる時、その渡せない箇所の名前になります。神経系統か、消化器系統か、あらゆる機関の可能性があります。 意識の根底での出会いがある場合では、二度と出番争いが起こらなくなります。聖書では『神の僕となる』と書いていますが、出番争いをしなくなるという意味です。

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宗教体験も一種の病気であったり、生理現象であったりするというのは、わからない部分に光が当たる様で気持ちのいい科学的解釈であると思いました。人間は不思議ですね。

その他の回答 (8)

noname#194996
noname#194996
回答No.9

自分(、私)、自我  皆同じ意味を持った言葉だと思いますが、それぞれニュアンスが異なっていますから、使い分けることが出来ます。たとえば 「自分はAという名前を持った何歳の会社員だが、自我があまり発達していないと自分では思っている」 などと使います。 この場合、自我 という言葉はその人の自分自身に対する意識の深化のことを言っているようです。その程度の違いですね。英語は良く分かりません。 ご参考まで。

noname#181644
質問者

お礼

日頃の言葉の使い回しからご回答いただきました。ありがとうございます。 私も、使い分けはできると思います。ですが、その用法が意外と散乱してると思い、質問に至りました。日常の、普通に使う言葉で十分なのになあと思うこともあります^^;私は哲学を知らないので。

回答No.8

 少々込み入った内容の議論になりますが。  ヰキぺの議論を吟味検証します。  ▼(ヰキぺ:自我) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91  § 2 精神分析学における自我  ジークムント・フロイトにおける das Ich(以下自我とする)は精神分析学上の概念である。  ここでは自我に加えて超自我(ちょうじが)とエスについても説明する。  なおアメリカの精神分析学においては、1953年にジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集の英訳の際、   独: das Ich(自我)は   羅: ego(エゴ)、   独: Über-Ich(超自我)は super-ego(英: super、羅: ego)(スーパー・エゴ)   独: Es(エス)は     羅: id(イド)  と訳され用語として流布した。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《エス( Es )=イド( id )》は 英語の《 it 》です。  このばあい 《それ》よりも《あれ》にあたるようです。    ソレもアレも 相手とのあいだにその示すものごとが概念として共有されているばあい ただしソレは そのモノゴトが良し悪しや可否を必ずしも定めることなくふつうであると捉えられている。対して アレになると 何かよそよそしいものや必ずしもふつうに あぁ それだとは言うことの少ないものについて言っていると考えられます。    あれえーっ  と悲鳴を上げるときとか。はて 何だろう? と思って    あれれ?  と発するときなどの例です。  ▼ (同上) ~~~~  § 2.2 エス  エス (Es) は無意識に相当する。正確に言えば、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分である。  エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部分である。  ~~~~~~~~~~  ☆ このように言うとき 日本語のアレ――これも イド=エス=イットである――はむしろ外から来て内面に感受されるものと捉えられている。つまり 精神分析における《無意識》としてのアレは すでに内面において何らかの心的(および身体的)現象となるそのウゴキであると考えられたようです。    おそらく日本語では たとえ内的な欲求としてであっても ちょっと自分の心つもりとは別なよそ者としてのごとくに受け取られている。少なくともそう表現されている。    ということはさらに考えをすすめるなら:  日本人はその言葉による表わし方から見るなら リビドー(性的欲動)にしろタナトス(死の欲動)にしてもこれらのウゴキは おそらく自己の外と内とのあいだに――もしくは外と内とをひっくるめた情況の全体に――アレなるものごととして起きていると受け留めている。  リビドーにしても相手がいるというわけです。あるいはつまり タナトスなるウゴキにしてさえも 相手や周りの人びととのカカワリにおいてその外からの刺激に対する反応として 《アレ》が生じる。と思っている。はずなのです。  すなわち そのようにエスと呼ばれる《意識下にあるアレなるウゴキ》を 日本人なるワタシは ワタシをも含めたその場その情況においておもにはそこにおける人間関係から 生じるものと見ている。  このワタシを自己・自分・ワレと呼ぶことはあっても 《自我》とは呼ばない。なじまない。はずです。(そして その自我という訳語を充てた元の言葉であるエゴ=イッヒは ワタシを意味する語でしかない。と来ています)。      *  というようなすでに全体情況を把握したとも言える問題を さらに精神分析論は わざわざほかにも用語をつくって説明しようとします。特には超自我(スーパーエゴ)です。    まづあらためて  ▼ (同上) ~~~~  § 2.1 自我  自我(エゴ)は    エス(イド)からの要求と超自我(スーパーエゴ)からの要求を受け取り、    外界からの刺激を調整する機能を持つ。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ こうだとすれば この《エゴ》を 《わたし・われ》と呼べば何でもないふつうの心的現象のことです。《自我》と言うから 議論があさっての方面へ行ってしまうのではないでしょうか。  ▼ (承前) ~~~~~  〔自我(エゴ)は〕   無意識的防衛を行い、エス(イド)からの欲動を防衛・昇華したり、超自我(スーパーエゴ)の禁止や理想と葛藤したり〔禁止や理想に〕従ったりする、調整的な存在である。  全般的に言えば、自我(ego)はエス(id)・超自我(super-ego)・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち・つまり ワタシのことにほかなりません。    ところで 超自我とは何ぞや?  ▼ ~~~~~~  § 2.3 超自我  超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我とエスに伝える機能を持つ。  ~~~~~~~~  ☆ ったく! これだって ワタシでありワタシの知性や意志のハタラキのこと以外にはあり得ません。  せいぜいが 《反省するわたし》といったところでしょうか。けれども それもワタシのことでないなどとは 天地がひっくり返っても言えません。  せいぜいが 広義のワタシの内に エスと自我と超自我が 部分的な要素要因として それぞれのウゴキやハタラキを持っているというくらいのことです。  《良心や理想》を持つのは このいま・ここにいるワタシではないのでしょうか?   つまり ワタシのほかに《自我》が別にあるとか ワタシのほかに《ワタシを監視する超自我》が――ワタシとは別に――あるなどということになっているらしいのです 精神分析においては。  《ワタシとは別に》というところが 問題です。そうではなく すべてはワタシのハタラキでありウゴキなのですから。      *  ちなみに ヰキぺの § 1 哲学における自我 のくだりで  ▼  他我 (独: das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格の可能性  ☆ に触れられています。  これなども 《相手のワタシ もしくは ほかの人のワタシ》のことであって 自我がワタシと別にあるのではなかったのと同じように 他我が 相手の人の存在とは別に(もしくは その存在における特殊で特別な要素として)あるなどということはあり得ないということが考えられます。  《個別的人格の可能性》という規定にしたがうなら それは――つまり仮りに言って《他我(他人(ひと)のワタシ)》は―― ワタシ自身の人格の内にそなわるハタラキであるとも見られて来ます。他人のワレが ワタシのワレの内に何らかの要素として そなわるというところまで進めているかに見えます。  《そなわる》というのが言い過ぎなら 《潜在可能性として他者との共通の感覚をはたらかせ得る要素》のごとくに捉えられます。(同じになりますが)。  ここから 言いたい人たちは わざわざ自我と他我との共感や 存在としての関係性とその通底性――または 愛――を言おうとしているようですが 回りくどいことだと考えられます。    ワタシは 社会的な独立した――自由意志の主体としての――存在であると同時に 社会的な関係性を有する存在である。(社会的な動物である)。と言っておけば 共通感覚(コモンセンス)やあるいは愛のことまで 説明しうると考えられるはずだからです。  ワタシはワタシが 人びとと〔原理的な〕カカワリ(関係)を持ち 具体的にマジワリ(交通)を持つ。のであって わざわざ 自我や他我が エスや超自我のあたかもそれらそれぞれの独立したウゴキとあいまって おこなうのではない。  つまり 部分要素や要因がそれぞれ《独立したウゴキ》において 行動するわけではなく また その行動やウゴキにおいて人格が成るものではない。微妙ですが そのチガイは大きいはずです。  ワタシが 部分要素に還元されきってしまってはならないのですし それらのウゴキを独立したものと見ることによってワタシが振りまわされることは 必要以上には無用です。   人格ないし存在は すでにワタシがワタシであるその《われへの立ち帰り そしてその自覚》という・しかも動態にこそある。  と言わねばならない。このように考えます。  つまり《自我》なる用語は 要らない。です。

noname#181644
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 ちょっと私には難しすぎたので、時間をかけて読んで見ます。

回答No.7

自我は己を己であるとすれば自我。なにがなくてもそれだけで自我。 自分は、自我だけでは足りない。私はだれで、ここはどこかみたいな基盤が必要。 自分を見失っても自我は残る。

noname#181644
質問者

お礼

なるほど、自我の方が独立性があるというお考えですね。これまで七名のかたからご回答いただきましたが、それぞれのお考えがあって二つと被っていない点が、すごいなと思っています。 ご回答ありがとうございました。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.6

自我とは自分の中の我というこじつけっぽい説明がぴったりなような気がします。 要するに自分の頭の中の自分のイメージですね。 そして、このイメージが強いと弊害が起こります。 例えば、異性にもてないとき、自我が弱いと「もてないんだ!」で終わりますが 自我が強いと「なんでもてないんだ!?原因は・・・」となるわけです。 そうなると、自我を納得させるために人生を費やすことになります。

noname#181644
質問者

お礼

もてない理由は清潔感とか、くよくよしてるとか、結構簡単に想起出来ますが、もてるためにそれらを充足させようとする行為が自我によるものならば、自我の社会的影響力と、二次的であるが故の不完全性などが際立ってみえます。 私も、自我と自分ならば、自分を尊重したいという考えです。ご回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

自分と自我の違いは何と考えられますか? ○自分と自我に差異はありませんね。これは、自動車とその運転者のように区別できるものではないからですね。 自動車も運転者と一体となると、運転者と自動車を区別できないからですね。あなたは自動車ですね。と言われればその通りとか言いようがないですね。これは、肉体のあなたを自動車に比喩しただけの話ですね。 あなたは自動車の運転者ですといっても自動車から離れることができなければ、運転者としてのあなたの存在を見出すことはできませんからね。 肉体も同じですね。肉体というロボットから生きている間は降りることはできませんので、運転者としての自分を区別することはできませんね。 ただ、なんとなく違いはあると考えるから、自分と自我という言葉で違いを表そうとしているのでしょうね。 仏教的に正確に区分する場合は、真我と偽我を使います。 真我とは肉体から完全に分離した操縦者としての自分のことです。偽我とは肉体を操縦する自分のことですが逆に肉体に操縦されることもあります。逆は自動車はハンドルを離しても走り続けるということを参考にすれば理解できますね。 ということで、一般論でいえば、心と肉体の関係は不二一体なので、「自分と自我に差異はないのです。」 だから、どちらも「one's self]ですね。

noname#181644
質問者

お礼

自動車ですか。今回も個性的な喩えだとおもいます。ご回答ありがとうございます。うーん、なるほど。

回答No.3

「自分」は肉体的で、「自我」は精神的。

noname#181644
質問者

お礼

ふむ。そういう見方もありますか。ここまで三名の方から回答を戴きましたが、みなさんそれぞれの見解をお持ちでおもしろいです。同時に、もしかしたら、この様な基本的な概念でさえ、意味を共有するのは難しい事なのかもしれないと思いました。ご回答ありがとうございました。

回答No.2

 こんばんは。  本来はほとんど違いがないのに むしろわざと出そうとして 言い分けて遣うようになったのではないかと思います。  どちらも《わたし》のことです。   《自分》は 自己や自身やみづからと同じように いわゆる再帰用法(セルフ)の言葉でしょうが 基礎として《われ》のことでしょう。  その昔 漱石氏は 世の中に吹き荒れる〔までは行かなくとも かなり片寄った姿勢になりがちなその〕洋風の流れとのあいだに違和感をおぼえ 《自己本位》の四文字を掲げるようになったと言います。  《則天去私》とも言いましたが 自分が自分であろうとするという意味での自己本位を実現するためにも そう言ったのでしょうか。  日本の社会の中で《わたしがわたしである》ことは・そしてその姿勢(ないし自己表現のあゆみとしては 文体)を保ち続けるのは 並大抵の努力ではむつかしい。のかも知れません。昔からそうだったのかも知れません。  それは 身分制によって影響されたことでしょうし 特には世襲制としての身分制は 人びとのあたまの上に蚕にとっての繭のごとき見えない天井をじっさいには見させていたことでしょう。  しかも人びとは 根っからの《和を以って貴しと為す》おとなしい民衆でした。ひとから頼まれたなら いやとは言えないというような性格でした。  つまりは このようなクウキのただよう世の中にあって ひとりの人間が自分の個性を見い出しそれを自分の努力で発揮して生きて行くことは むつかしかったことと推し測られます。  したがって もし《われがわれに還り わたしがわたしである》といった社会的自立を表現するのには ただ《わたしの確立》とだけ言っても はっきりしなかったのではないでしょうか。  ゆえに 《わたし》と同じ意味なのですが 別の言葉を模索し つくった。  つまり エゴー(ギリシャ・ラテン)も イッヒも アイも 《わたし‐が》という意味の言葉であるに過ぎませんが その内ドイツ語の《 das Ich 》のことをだと思いますが 《自我》という言葉をつくって充てた。  ちなみに上の《わたし‐が》なる言葉は みな互いに同じ語です。    ギリシャ    egoo    ラテン     ego    サンスクリット aham    ドイツ     Ich    オランダ    ik    イギリス    I       http://www.etymonline.com/index.php?term=I&allowed_in_frame=0  母音は互いに交替しえますし縮約されえますし 子音では / g / ∽ / k / ∽ / h / という交替が起きているだけですから。方言の違いにしか過ぎません。エゴーを エホーと訛れば サンスクリットのアハンと比べても ほとんど違いはありませ。どちらかがちょっと訛っているというだけのことになります。    つまりこれを借用するとき日本では かなしいかな 《わたし》とは違う語で表わさねばならなかった。  とは言え 精神分析では わざわざこのとき得られた《自我》なる言葉を自分の仮説における用語として用いることになってしまいました。そこから おかしくなったのではないでしょうか。そもそも《わたし》のことなのですから。(それを 自我・超自我・エスが一個の人格を成すといったようにして自我は 縮小してしまっています)。  わたしという言葉であるエゴーから派生した語としては――これは 欧米のコトバでもそうなってしまったようですが―― エゴイストは 利己主義者とまで成ってしまったというのは どうも解せないのですが。  ワタシを離れて 隣人愛は成し得ないはずなのですから。    

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 セルフと聞くと、どこか自主的なイメージがありますが、エゴと聞くと、エゴイストのイメージからか余りいい印象は受けません。また、自分のことをさして、一人称で自我という言葉を使う事もないですから、自我、エゴというのは、心理機能の一種で、自分とは使い分けられてる事が多いのではないかと思いました。心理学の発展や普及とも深く関係していそうですね。

noname#221368
noname#221368
回答No.1

 感覚的な答えです。  「自分」と言った時は、ふだん感じる、漠然で曖昧な自分の対する感覚を指す気がします(←全然説明になってないなぁ~(^^;))。「自分はこう思う」と言った時、本当は、こう思う自分を自分が、ある意味で外から観察した結果なのだけれど、普通はそこまで意識しない。こういう普段の状態が自分。その証拠に、「自分はこう思う」は余り考えずに素直に出て来る。  一方「私はこう思う」と言った時は、かなり自我の状態に近い気がする。かなり自分を客体視している。「私はこう思う」は「私の自我はこう考えている」の省略形である事も多い。その証拠に、「私はこう思う」はなかなか出てこない。かなり考えて(かなり自分を見つめて)から、出て来る(・・・ような気がする)。  自分で自分を観察する(客体視している)事を「意識できる」動物は、たぶん人間だけではないかと思っています。そのカラクリが、自我ではないのかな?・・・と(^^;)。

noname#181644
質問者

お礼

ふむふむ、ご回答ありがとうございます。確かに感覚的ですが、わかる気がします。自分の方が素な感じはありますよね。私が、という時は、理性的な感じがします。

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