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批判は悪なのか

日本では批判をすることが非常にネガティブに受け止められる気がします。他の国を知っているわけではありませんが。少し個人的な話をします。大学のサークルで、新歓を何をするかという話し合いをする日がありました。Aさんが○○しようという意見を出しました。私が「身内ノリ過ぎるから止めた方がいい」と言うと、Aさんはこう反論します。「じゃあ、他に何か良い案あるの?」と。 正直よくあることなんでしょう。しかし、対案がなければ意見してはいけないんですか。そういうこと言われると、発言しにくくなるじゃないですか。こういう批判を封じ込めるようなことがまかり通ってる気がします。 1.嫌なら××するな 岡村隆史さんで有名になった言葉です。アニメでも小説でもつまらないと批評すると、嫌なら××するなと。しかし、きちんと批判したいと考える立場からすれば、つまらなくても時間の無駄でも、最後まで内容を吟味する必要があるんですから、しょうがないじゃないですか。愛好家の中だけで盛り上がっても、良い結果になるわけがありません。内輪だけにこもっても堕落するだけだと考えます。 2.お前が△△しろ こういうこと言われると、専門的な領域への批判は一切できなくなるじゃないですか。以前に「若者よ、政治を批判するならば、立候補しなさい」みたいなことを言っている人を見たことがあります。現状に不満を持っているならば、自分で変革すればいい。簡単にできるのなら、とっくにやっています。では、そういうバイタリティを持った人でなければ、批判をしてはいけないんですか。それとも安易に批判するなという戒めなんでしょうか。 3.対案はあるのか? これも安易に批判するなという戒めなんでしょうか。確かに自分が考えて捻り出した案が否定されるのは嫌でしょう。しかし、こっちだって、より良い結果が欲しいからそういう批判するわけで。案がなければ黙ってるしかないのですか。これでは素人は専門的な領域への批判をできなくなるじゃないですか。しかし、批判者がプロならば、プロとして対案を出して欲しいと個人的に思いますが。 4.批判する資格 批判する権利とか資格ってなんなんでしょうか。過去に間違いを起こした人に資格はないんでしょうか。確かに失敗して反省もしてない人に批判されたら、腹は立つでしょう。しかし、どういう人であっても批判する権利がないなんてことはあるんでしょうか。Xは犯罪者であるから、犯罪を犯したYを批判する資格はない。お前が言うなということでしょうが、人格否定、人格攻撃になるんじゃないですか。批判をする人の立場ではなく、批判の内容で語るべきかと思います。 5.批判は無責任 確かに批判することは簡単です、言うだけ言って責任は取らないんですから。では責任ある批判、つまり行動か対案がある人しか批判してはいけない。そんなことはないでしょう。間違った批判をすればするだけ、その個人の権威や価値、品性は下がっていくと思います。インターネットのように匿名性でなければ、批判者は間違えた分だけ信用を失っていくものでしょう。批判、文句ばかり言う人はいますけど、そういう人は自然と嫌われたり、信用なくしたりしてます。 6.批判するだけして思考停止している 批判する人は批判するだけで、満足して思考停止している。そう言われると確かに痛いです。問題点のみ指摘して、改善案を出さないわけですから。思考停止するような人たちがいることは確かに問題かも知れませんけど、だからといって批判が良くないというのは早計だと感じます。 批判に対してこうした反論をよく見かけたり、聞いたりします。批判は聞きません的な態度や批判への悪いイメージが多いです。批判することは簡単なのだから、批判される側の心情を考えることも大切かもしれません。しかしだからといって、批判してはいけないなんてことはないはずです。日本では批判することが悪である風潮がある気がします。 また、批判をする人を肯定的に捉えることはできないのでしょうか。間違っていると思うなら、そう主張していいのが正常な社会であるはずです。例えば、最近では反原発の人がデモをやっていますよね。本人たちは真面目に取り組んでいるでしょう。しかし、原発を批判する人は第三者から冷ややかに見られている気がします。間違っている、問題に思うことを声高らかに主張することの何がいけないんでしょうか。山本太郎さんは少し行き過ぎた行動をする人でもありますが、彼のような人を馬鹿だと言ったり、あざ笑う社会はおかしいんじゃないかと思います。(念のために言いますと、私は反原発でも推進者でもありません。科学的知見もないので判断しようがありません。) 批判は場を乱し、デモのように継続して批判し続ける人は「何熱くなってるの?」と冷ややかに見られる。批判がリスクでしかない、そんな社会は変ではないのですか。それとも私が変で、みんな仲良くおてて繋ぐ方が正しいんですか。批判しない方が平穏です、しかしそれっておかしいよってはっきりと意見を言える社会でありたいと思います。間違っていることがあるなら、間違ってると批判できる、それが普通の社会ではないのでしょうか。優先席で携帯を弄っている人がいたら、電源を切れと言うことができる、そういう社会でありたいと、私は思います。 それなのに批判はリスキーなもので、批判することが敬遠されている。結局、批判することは悪いことなんでしょうか。また批判できる要素があるはずなのに批判できないとしたら、その妥協点はどこにあるのでしょうか。

みんなの回答

noname#179506
noname#179506
回答No.17

たくさんのご主張、拝見致しました。 つまりは、 批判するからには、自分の意見もしっかり持っていること、 批判するからには、人の意見を否定して、意見を言うということになるわけだから、当然、自己責任、リスクは発生するわけで、覚悟が必要 ということですかね。 批判することが、悪なのだとしたら、今のあなたの大学サークル内なら自由で通ることですが、確かに 企業などであれば、よりよい商品を創り出すのに、1つの意見叩き台にされて、たくさんの意見を上から被せ、まとめることも、しなければ、仕事にすら、ならなくなるでしょうね。 叩き台にされた社員は、いい大人でありとも、かなり凹みますよ。 ということで、自分も意見を一生懸命考えて出しているのに、否定されたり、代替えするアイデアすらもないのに、人の意見を否定ばかりする人がいたら、喧嘩になるわけですよ。 批判する人の中には、批判の対象に対して、良くしてあげようという誠意があっての厳しい批判なら、誰も納得するけれど、経験もなく知識もない人とか、しったかぶりで偉そうに非難や否定ばかりして、単に感想意見求められたというならともかく、頼んでもないのに、もっとこうしたらいい、等、良くなるその代替え意見すらなく、なんら解決に向かわない無駄な時間だけを、悪口三昧で 生み出す人という暇人も いるわけなんです。 誰かが、反対、否定したから、右へ習えで、その対象に意見や批判じゃなく、その人 が気に喰わないから、否定やつぶしたい人もいるわけで、お悩みの状況が起こるんじゃないでしょうかね。

  • bbzzg
  • ベストアンサー率8% (5/56)
回答No.16

事例としてあげている「何をするか決める議論」の場合には、決めることに貢献しない批判は悪でしょう。 いくつか案が出ているのであれば、絞り込むためにプロコンを検討するので批判的意見は消去法の助けになります。しかし案が一つしかなくその案を否定する場合、もっとよい代案を出す義務が生じます。そうしないと何も決まらなくなり、あなたは悪となります。 ですので、質問者様は今後色々な議論を通して「いま自分にできることは何か」考え、組織の意志決定や社会に何らかの貢献をすることを学んでいかれることをお勧めします。

  • kotaro-h
  • ベストアンサー率40% (149/367)
回答No.15

2度書くのは稀なのですが、私が20歳くらいの頃に これだけの議論の文は、とても書けなかったと思います。 その後の人生経験、さらにネットとパソコンと言う現代の ツールがあり、文章を書くことが、好きであったのが、他人に 意思を通じられるレベルにやっとなりました。 例えが反感買うかもしれませんが、漫才やお笑い芸人の先輩風の 司会をしている側が「お前がそこまで言うか」とよく 「駄目出し」という言葉も嫌いなのですが、やりこめている 場面があります。 他の回答者さんの意見も、無視できないのですが、私は投稿者さんの 最初に書かれた勇気だけは、買いたいと思います。 若い人が、若い人なりに疑問に思ったことは、どんどんアップして いったら良いと思いますし、私自身、子供が数人いるので、大学生と 議論するのも好きな方です。 思い切った意見には、間違いではないが、この表現はこうした方が、 くらいのコメントは、当然着きます。 その中で、思索や思考を深めて行くことが、大切なのであり、 今後も、他人とは違ったものの見方というものだけは、失わないように してください。 とりとめのない感想ですが、若い人に送る言葉です。 失礼いたします。

回答No.14

概ね質問者さんの意見に同意します。 僕は批判されるの好きですけどね。 違う角度からの物の見方に触れられて勉強になります。 批判の返し方がわからない人が質問文のような返し方をする人が多いと思います。

回答No.13

回答を見る限り、質問者さんは日本語が足りてないだけなんだと思います。 芸能人でたとえるなら、狩野英孝のように。 そのため、質問者の発言”内容”に仮に正しい面があったとしても発言した言葉が間違っているので相手には伝わらないのです。 しかもそれを本人が理解しておらず”理解できないのは周りがおかしいから”と感じているんのでしょう。 まだ若い(子供)ならば、自分の発言を文章にでも書いて親に確認してもらえばわかると思いますが… 反論で意味不明な解釈で納得してしまっている辺り、矯正は難しいでしょうね。 大丈夫、言葉に出さない限り相手にはバレません。 質問者さんが心がけることは3つ。 ・意見を言ってもいいが反論されたらすぐ謝る。 ・他人の意見は間違ってると思ってもとりあえず実践して、結果で話をする。 ・持論は他人に話さない。 これでふつうの生活を送れると思いますよ。

回答No.12

唯単に 他人の間違いや思考的偏りを指摘したいだけですね どうぞ為さってください 常に貴方が正しいと言う前提に置いては 間違いを指摘することは正論です それだけの見識と良識を御持ちでしょうから それはそれで素晴らしい事なのですが だから指摘しなければならない という論理は貴方だけのものなのです 誰でもがそうはしません ※貴方は自分の気がすむようにものを言いたいと思っています  後先考えずにどうぞものを申し述べてください 意味は無いけどもね ※今風に言えば 貴方はクレーマーという事です

  • kotaro-h
  • ベストアンサー率40% (149/367)
回答No.11

文化の観点でとる人と、世間の習俗でとる人がそれぞれおり、 議論が噛み合っていないように思います。 質問者さんが言いたいことは、推論ですが、結局自分に対しての 答えとして、「あれでよかったのか、」という時の、批判性の少なさや、 多数決に簡単に与していいのか。もっとたくさん意見がでれば、 より良い答えが、出たのではないかと言う逡巡でしょうか。 多数のアンサーが「そんなものは簡単だ、決まっている」というふうに 導くと、余計に苛立ちを隠せないように、見受けられます。 1.~6.までの場面は、実際に見聞きしたことへの反証ですよね。 ナイナイの岡村君がそんなことを言っていたのは気が付きませんでしたが、 お笑いの世界でも、(では、)そういうことが多いのかな。 彼も結構悩むタイプで、休んでいた時期もありました。 僕らのような50代でも、60代や70代の人間から封殺的なことを言われて 反論したくても、出来ずにストレスを抱えることが、よくあります。 ここには書かれていないのですが、男性社会の基本構造の中に タテ社会があり、それから体育会系や軍隊社会のような、もっと極端な 服従を命ずる分野もあるでしょう。 規律として存在してしまうと、批判どころではありません。 それは世の中全体に流れる空気の中にも、散在しています。 また「力の強いもの」は場の空気を制圧し、異論や批判は出し難くさせる、 これを政治学的に捉える傾向すらあると思います。 例えば今の大阪市のことなどが、判り易い例かと思います。 さてあなたの使った「悪いことなのでしょうか」という表現ですが、 回答をする前に、そこで皆さんは、ひっかかっていませんか。 普通、誰も悪いとはいいません。しかしそう言われると、良いとも言いにくい。。 まず、全体的な文のトーンから、不必要な感情の部分を省く。 議論と感情は、別次元のものだからです。 そこから議論していけば、私は面白い論理構成が展開できるのではと、思っています。 あなたの提示したものは、良いテーマだと思ったのでコメントしました。 参考になれば幸いです。失礼します。

  • kanden
  • ベストアンサー率21% (176/802)
回答No.10

質問者様のケースは「新人歓迎会」の企画提案に対してAさんの提案に賛成できないと表明した所それでは対案を出せと言われたと言う事ですよね。 賛成出来ないとか反対であると言った以上「私ならこんな企画のアイデアを持っているけどどうですか?」と言う自分の案を出すべきであると思いますが。 企画の場合はアイデアの出し合いであり、それが面白い所です。 Aさんがあなたの反対意見を批判として受け取られた事はあなたの反対の仕方が悪かったのか受け取り方が悪かったのか分かりませんが質問の冒頭を読む限り社会的な批判と応酬の構図まで広げて考える事は意味がないと思いますが。

barasui
質問者

お礼

いろいろと申し訳ありません。それは自分に文章力が無かったせいでしょう。 冒頭からの批判の話は、話に入る前に自分の身近な例から出しました。そして全体的な社会的な話に発展したかっただけです。個人的領域から大きな領域においても批判はネガティブだといいたいだけです。別にAさんの話は正直どうでもいいです。 議論という小さな場所でも、社会全体でも批判することには常にネガティブに感じるんです。Aさんという議論における場での批判から話に入ったのは間違いだったのかもしれません。

回答No.9

批判をする事と 論評を加えることは根本が違います 以下は貴方の投稿文です ※3.対案はあるのか? これも安易に批判するなという戒めなんでしょうか。確かに自分が考えて捻り出した案が否定されるのは嫌でしょう。しかし、こっちだって、より良い結果が欲しいからそういう批判するわけで。案がなければ黙ってるしかないのですか。これでは素人は専門的な領域への批判をできなくなるじゃないですか。しかし、批判者がプロならば、プロとして対案を出して欲しいと個人的に思いますが。 対案が無ければ 参加しているグループの意思にあわせなければグループの存在理由が崩壊します 国旗・国歌法案がこれに当たります 君が代がダメ日の丸がダメ と対案も提示せずに文句だけを言う方々が今でもいます これでは問題の根本的解決には何ら貢献できません 決まった事には皆で従うと言う基本的同意形成行為が無ければ団体は存在不可能なのです タダ批判するだけ タダ論評を加えるだけでは何事も成し得ません 批評家とは ただ単に批判する事を生業としている人間の事なのです 見解を分析して 何を意味しておるのかを凡夫に教える事が仕事です 対案も無ければ 建設的意見も持ち合わせていません 凡夫の思考を促すことだけが仕事の変な人達です 言うだけの仕事 聴くだけの仕事も又存在しておるのです 

barasui
質問者

お礼

論評、批評、指摘、その辺の意味の違いには疎いです。浅学で申し訳ないです。 君が代を否定する人たちには、彼らなりの信念があるはずです。批判を言うことは建設的でもなく、集団にとっても害悪である。最もな話です。 しかし彼らだって、彼らの正義に基づいて「それは間違っている」と言いたいわけです。君が代を歌うことは決まっていることでしょう、けどその間違っていると思う気持ち、是正したいという気持ちはどうするのでしょう。 対案がないから口にだしちゃいけない、集団が成立しなくなるから言わない、しかし間違っていると感じることがあるのなら、それを口に出して批判したいと思うんです。 別に批評を生業とする人になりたいわけではありません。生きていると、その時々に間違っていると批判したくなることが、往々にしてあるだけの話です。そうした事態に直面した時、自分は一体どうすればいいのですか。

回答No.8

他人様の批判ばかりを口にして一生を送る選択肢もありますし、他人様の批判を一切口にしないで人生を送る選択肢もあります。 これは選択の問題です。 一方が良くて、他方が悪いとういう問題ではりません。 他人様の批判を口にするのが好きなひとは、そうして一生を送ればよいでのです。ご心配なく。

barasui
質問者

お礼

そんな人生は生きづらいじゃないですか。私は、私の中で間違いだと思うこと、それを批判なり、指摘していきたいと思っています。 しかし、世の中に間違っていると思うことがあっても、それを言わない方が賢明な場合ってあります。 私は大学生です。私は講義でうるさくする人たち、大嫌いです。また、試験の日だけ満席になるような大学の実態っておかしいと思っています。 そういう批判、普通はしないでしょう。教師なら別ですけど。私は「きみたちはおかしい」と、その人たちに批判するべきなんですか。 現実ではそんなことできません。私の間違っていると思う心は、一体どこに向かえばいいんですか。そうやって、心の中だけでしか批判できない自分に対して、嫌悪を感じます。私はどのように折り合いをつけて、生きていけばいいんですか。

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  • ニートや引きこもりに対する批判とその合理性について

    最近はよくニート、引きこもりが叩かれますが、 その叩いてる内容が理解し難いのです。 例えば、勤労や納税の義務。 勤労の義務は、職に就きたい人に対し、国が適切な支援を行う義務、という意味です。 納税の義務、これはまず、消費税は払っていますし、所得が無ければ所得税を払う義務は無い。 働いていたら払わなければならないという意味です。 そもそも、憲法とは国民が国に守らせるものであって、 国民が守るべきものじゃない。 義務を果たさない人間には権利も与えるなと言いますが、 現に生活保護は、働く意欲が無いと見られる人にはくれませんし、 国民年金を支払ってない人にもくれないと聞いた事があります。 これ自体が一応生存権に反しているのですが、 ニートを批判している人は大抵生活保護も批判している場合が多く、 都合よく憲法を盾にしている印象があります。 結局の所、「みんなやってることをやらないのはずるい、許せない」という思考なのでしょうか? これって、合理的とは言えないですよね。単なる「現状に不満だから、更に下を作って悦に入る」ことではないでしょうか。 憲法の解釈方法からして間違っているのに、それを隠れ蓑にするのはやめてもらいたい。 それと、よく見るのが「自己責任」「甘え」「怠け」論です。 人それぞれ理由は異なるので、一概には言えませんが、 そんな自己責任論を主張しても、ニートや引きこもりの人は「じゃあ働くか」とはならないのです。 彼らは批判されたら、それを受けないように努力する事ができず、 そのまま受け止めてしまったり、開き直ってしまうのです。 例えば、「そうだ、自分は甘えている、怠けている社会の屑だ」と強く思い込み、 更に自信を無くしてしまい、社会に出る事に対する恐怖感が強まったりする事が十分あり得ます。 これでは完全に逆効果ではないでしょうか。 まず、ニートの80%は、現状を後ろめたく思い、出来るなら働きたいが、何らかの要因によって働けない人たちだと言われています。 引きこもりの中でも、そんな人はいます。 働く気力自体が無い人は10年前から数が平行線であるのに対し、 働きたいが働けない、という人は年々増えており、昔の1.5倍に達したと言われています。 そんな人たちが増える背景には、失敗・迷惑を認めない社会、 劣悪な労働環境、それを当たり前だと捉える風潮が大きいのでは?と思います。 ニートを働かせたいなら、先に社会の「異常」を批判すべきだと思います。 この社会の異常が薄れない限り、それに適応出来なかった人たちは働けないままでしょう。 残りの20%は、もはや法則のようなもの。 働かない働き蟻が20%存在するように、人間の中でも一定数、 働く意味、価値自体が理解できない人たちも生まれてきます。 その人たちに対してはいくら公的な支援しても無駄でしょうし、 「働け!」と批判した所で、働くメリットが全く見つからず、動かないでしょう。 その人たちも何とかしたいなら、カウンセリングサービスの充実など、 個人個人の状態に合わせた処置を取らねばならないでしょう。 「そんな事してられるか!」と言われればそれまでですが、 社会復帰させる合理的かつ人道的な方法を考えようともせず、自分の不平不満をぶちまける為に、 ニートや引きこもりといった社会的な弱者を批判、いや、非難するのはやめてもらいたい。 どう思われますか?