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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大宝律令の制定時、新羅を参考にした可能性。)

大宝律令の制定時、新羅を参考にした可能性

このQ&Aのポイント
  • 大宝律令の制定時には、唐の律令が参考にされた可能性があります。遣唐使が帰国した670年には、律令を持ち帰ったかどうかは不明です。
  • 大宝律令を制定するまでの30年間、遣唐使の空白期間があります。一方、遣新羅使は9回派遣されており、新羅の制度に関する情報が持ち帰られた可能性も考えられます。
  • なお、当時の新羅には律令が存在していたとされています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.1

この時代の中国は、則天武后による垂簾政治・帝位簒奪で政争・反乱が続いており、朝鮮半島では百済・高句麗の滅亡の直後にあたるので、日本の外交?は必然的に新羅ということにならざるを得ませんね。 また、中国や朝鮮半島では、中世までは王朝交代や宗教弾圧の際の有力な亡命先の一つが日本でした。当時の日本には百済からの亡命者が多数おり、高句麗・唐からの亡命者も少なからずいたはずです。彼らは主に実務官僚となりました。 ご質問の、遣新羅使が唐の律令を取り入れた新羅の制度を持ち帰って、大宝律令に反映させた可能性、ですが、部分的になら当然あるでしょうね。しかし、それよりも実務官僚となった亡命者たち、すなわち唐・百済・高句麗の影響の方が大きかったのではないかと思います。 ところで、この時代の地方制度である「評」ですが、これは中国ではなくて朝鮮半島に由来するという説もあるようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 遣新羅使の関わりよりも、唐・百済・高句麗から亡命してきた人々が、実務官僚となって律令の編纂に携わった、ということですね。 そういうことに注目して、もう少し調べてみようと思います。 『日本書紀』も、漢文の文体から分析して渡来人が書いたと思われる「巻」もあるそうですから、律令も同じことが言えるかも知れません。 「評」のURLは参考になりました。 これをヒントに木簡に関して調べてみますと、韓国で出土した木簡の内容から、当然のことですが、文字や記録に関して日本より進んでいたことが分かりました。

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