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「そんなの」の哀れ

おい、「そんなの」!、 50年以上経って、「そんなの(哀れ)」だよ。 もっとも、その自覚は、あるようだけれども。 こんなことは、本人が最もイタイんだね。 「二度と!」てなことで・・・まあ、一応、「魔が差した」ってことにしてやるよ。

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回答No.4

 やっぱり、理性と本能との葛藤だね。  人間ならでは!  過ぎ去った過去の事でも思い返すと後悔したり、恨みが募ったり。  でも歳と共に、心がけ次第では理性に力が付いてくる。  “「魔が差した」ってことにしてやる”のも、だからじゃぁないかな。      

kurinal
質問者

お礼

>「“「魔が差した」ってことにしてやる”のも、だからじゃぁないかな」 「「もう二度と、絶対に、そんなことはしないし、させません」という人の居る環境」がある!から。 「なかったことにしてやる」とは、言っていません。「私たち(後世)は、そうした環境から学ぶことも出来た」ということでしょうか 「本人の責任を問うのは無理だ、あるいは酷だ」という、責任阻却という理屈もあります。 「本人が反省しているから」という、日本的?な捉え方もあります。 しかし、「仏の顔も三度まで」というのは俗説で、「そんなもん、ありゃしねー」です。本人は結局、どこまでも苦しいのでしょう。 そうした反面教師から学ぶかどうかは、私たち後世の自由です。

その他の回答 (3)

回答No.3

 オスの本能?  メスの本能は・・・?  「理性」にお任せ・・・だから!

kurinal
質問者

お礼

オスの本能からすれば、メスの本能は、やさしいね。 ただし、それもメスの本能に受け入れられている限りであって、 仮にメスの本能にはじかれてしまった場合は、 それはオスの本能よりも厳しいことがある(・・・そうです?) 現実に「我が子に愛着を持てない母親」という問題は、 理屈じゃない事のようなので。 >「「理性」にお任せ」 「信仰に篤いご婦人」というのは、 しばしば、独自的な信教の境地に至る場合が、あるとか。 ああ、ちょっと待って、もう少し考えると、 男性だって「「理性」にお任せ」、が、仮に出来るのであれば、 ・・・こっちはこっちで「原理主義」になりかねないか。

回答No.2

  自由だ、自由だ、自由だ。 おめーさんに自由なんかねーよ。  

kurinal
質問者

お礼

「Aか、Bかは、(選択)可能だ。しかし、Cは不可能だ。」 この場合、AかBかの自由はある。仮にC(~Z)までの自由は無くても

回答No.1

 理性が欲望と葛藤している!  哀れ、だね。  欲望に打ち勝てない理性が!  「魔が差した」って事にしてくれるとは・・・、  やさしいね!

kurinal
質問者

お礼

「「メスと子ども」については、オスの本能の問題が、あるでしょう

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