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キリストの受難の意味
キリストの「受難」とは逮捕されて磔にされ死ぬまでに受けた苦難ですが、ここには一般市民の日常の苦しみ、あるいは犯した罪に対する罰をキリストが引き受けたという意味合いはあるのでしょうか。
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★(No.1補足欄) ~~~~~ 私はどちらかというと、その姿を見ていた使徒たち、民衆がどのようにキリストの受難を受け止め、その後どのように語り継いで来たかということを伺いたかったのですが、舌足らずで申し訳ありませんでした。その場合でも、受難によって民衆の罪をあがなうという意図を読むのは見当違いのようですね。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。そういう見解もあるようですので 触れたいと思います。 物語においてですが: 神は 人が・つまりアダムとエワとが 自然本性としてそなわった自由意志を使って やがてみづからの心にさからう思惟および行動をおこなうようになると分かっていたわけです。いわゆる原罪をおかすと知っていました。 知っていて その自由にまかせたことの責任の一端を――と言っても 自由意志による思考と・意志以前にもはたらく感性と・そして やがて信仰と呼ばれる非思考のナゾのおとづれたときそれを受け容れること これら思考と感性と非思考の三つをつうじて生きて行くように初めから計らってあったわけですが それでも人が 自己に対するものとしてもその背信と呼べるへそ曲がりをおこなうのを 放っておいたという責任の一端を――果たす意味で 神は みづからの独り子を 肉として送った。 そして 神の子でありみづからも神であるそのキリストと言えども 十字架における磔のすがたから たとえば奇蹟のごとき神のわざをおこなって 降りて来たり助かろうとしたりはしなかった。ローマの兵士やユダヤ人たちから 神の子ならそこから降りて来てみろと挑発されても 何もしなかった。 そのことで おそらく 自由意志にもとづく社会が 荒れ野のごとく混沌とした無法状態になるのではない・そのことに自信を持ってよいと示したであろうし 思考の緑野や感性の原野のほかに目に見えない《非思考の庭》がひとにはそなわっているということをもしめした。と思われます。 この一連の神からの・神としての――物語における――行動について 一面では確かに じんるいの始祖のへそ曲がりとしての原罪をあがなったのだと見る見方が持たれる。とは思います。もともとそうであったと言えると思うのですが そのことによって――つまり 心のへそ曲がりから神の子が肉となったそのキリストのことを知らなかった人間たちに対して キリストは 不平不満を持たず恨みもしなかったそのことによって―― 原罪はちゃらに成った。もともとそうであったが そのことがはっきりした。 じんるい史上に おおきなエポケーが おこなわれた。 それを機にあたらしいエポックがはじまった。 ★ その姿を見ていた使徒たち、民衆がどのようにキリストの受難を受け止め、その後どのように語り継いで来たか ☆ 弟子たちも 磔に成ってイエスが息を引き取ったあとまで・あるいは墓の中から消えたときまで イエスがキリストであることは知らなかった。聞いていたけれど分からなかった。ペテロに代表されて弟子たち皆が最後には イエスを知らないと言って 裏切った。ましてや 民衆は 何も分からなかった。 ですから そのあとは いま述べているような物語として そのイエスという男の存在が受け留められるようになったのだと思います。 その神の霊が 泉となってひとの身と心にやどったと〔というおとぎ話を〕 人びとにも言おうとしたのだと思います。 人間の犯した原罪を身をもって命をかけて あがなってくれたのだという虚構は おそらく組織宗教のための・あるいは要するに 《神》という普遍としての存在を キリスト派として 独占しようとする宗教(オシエ)を存続させるために用いる手段だと思います。 たとえ原罪とそのあがないが 人間にとって真実であったとしても それは 人間の視点から言うべきことではないと思われます。ほかの人におしえるオシエとして ぺちゃくちゃしゃべるべき話ではないと思います。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 サンへドリン(高等法院)が その言動について神への冒涜だと言って イエスを亡き者にしようと計画したことに対してイエスは抵抗し ローマ総督ポンテオ・ピラトの調べにも抗弁していますから 決して人間イエスとしては 苦難を受けたとしても自死ではなく またすすんでその苦難を受けたわけでもありません。 (神キリストとしては 自分からそうした。かも知れません)。 そのようであってイエスは 人びとのいわゆる心の内なる罪責感とそのしかるべき行為やあるとすれば罰 これらの事態をつぐなうための罪滅ぼしとしてあなたたちに代わって犠牲になりましょうと言ったわけではありません。そんな恩着せがましいことを言ったりおこなったりしたとは考えられません。 もし――それは主観的なものですが――罪を犯したと自覚した場合 その罪のつぐないは たぶん人間のチカラと努力とで出来る場合もあるかも知れません。 ただ もしそのような償いを果たしてもまたもやアヤマチを繰り返すという事態が考えられたとき その人の目に世界は 暗闇に映ったものと思われます。 この闇の中にあっても 人間はその能力と努力とで なおみづからが灯し火となって照らしたり 科学のチカラで明るくしたりすることが出来ます。 しかも言ってみれば アヤマチの悔いとその償い そしてまたアヤマチとその悔い・・・という繰り返しが そのように心の灯し火と科学の光とでいくぶん明るくなった世界にもなお つづくとしたら どうなりましょう。 おそらくハリツケの受難は どんな暗闇が来ても 火と光の 身と心とをささえる泉の水が湧き出るようにするチカラを指し示した。ものと思います。 それは 《無根拠》というものです。無根拠が 汲めども涸れない泉です。 つまり 神のことですが それは どんな名前でもかまわないし 《無い神》であってもよい。と語ったはずです。じんるい史上これをしのぐ哲学はないと思います。
補足
早速の回答ありがとうございます。キリスト自身にしてみればそれは文字通りの受難であって、民衆の罪をあがなう意識など無かった、というご説、全くそのとおりだと思います。 私はどちらかというと、その姿を見ていた使徒たち、民衆がどのようにキリストの受難を受け止め、その後どのように語り継いで来たかということを伺いたかったのですが、舌足らずで申し訳ありませんでした。その場合でも、受難によって民衆の罪をあがなうという意図を読むのは見当違いのようですね。
お礼
なるほど、残されたものの受け止めというところには、神の意志・意図が関与してくるということですね。それはまた、時に教会権力の都合によって脚色された可能性も否定できないということですね。 大変微妙な問題に深入りしそうですが、問題が少しはっきりしました。どうもありがとうございます。