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日本と西洋や中国との、城や城郭への収容について

城や城壁について教えて下さい・ 大雑把にいうと、日本の城や城郭には、戦闘員(武士)とその家族位が収容されますよね。 一方、西洋や中国に場合には、城や城壁の内部に、商人や職人などの、いわゆる国民をも含んでしる場合があるように思います。 この違いは、同一民族間同志の戦いか、あるいは異民族との戦いか、という差から発生するのですか?

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shirouuda
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回答No.5

すでに、書かれているように、 徳川氏による大阪城攻め(冬の陣・夏の陣) 豊臣氏による小田原城攻め、 他に羽柴秀吉時代の三木も領民抱えの城攻めでした。 どこの国でも、純軍事的な目的で立てられた「城」で戦う場合は、 そこに領民はおりませんし、 経済・政治の中心地の「城」なら、城下町が形成されて、乱世なら、都市民は自治的に城壁を築くでしょう。 日本の場合、 1,そもそも、都市国家から、後漢時代に貴族が従属民を率いて郊外に「村」を作った中国と、村と村を支配する領域国家もどきの中心地の城下町が戦国末期から発達していった日本では、歴史が逆なのです。 2,商業が小規模。日本は江戸時代まで国産の通貨はありませんでした。朝廷の貨幣は流通しませんでしたし、武士政権も江戸幕府で初めてまともに流通する貨幣が造られました。城下町が大きくなりにくいのです。 3,戦国時代末期までは、大名権力は小さく、ほとんどの城は、家臣や村が作りました。ものすごくたくさん(2万ぐらい?)あったのですが、当然、その一つ一つは小規模。城下町も無かったり、小さいものです。戦国も末期になって、やっと、大規模で集権的な大名が現れ、また、それに応じて城も城下町も大きなものになっていきました。 4,「守る」とは「巻き込む」と同じです。日本の戦国時代は、年々、より低い階層からの戦争参加が進みました。戦争が、「お侍さんが達が勝手にすること」から、「敵兵の略奪から村を守るために殿様の戦争に参加せざるを得ない」という形になっていったのです。つまり、戦国末期の武士達は、「巻き込む」ために「守った」のです。 ☆異民族皆殺し?モンゴル人は中国人を皆殺しになどしてません。異民族の戦いは降伏や吸収合併が難しく、残酷になりやすいのですが、皆殺しはレアケースやハッタリでしょう。遊牧民族が水田を奪っても利益はありませんからね。生かして徴税するのが普通です。 ☆後北条氏の善政伝説ですが、まるっきりのウソではなく、もっとも、文書行政の発達した戦国大名だったのは確かなようです。しかし、4公6民はウソ。なぜなら、○公△民は、江戸時代の税制の比喩表現ですから。江戸時代以降の人による創作だということです。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 <異民族皆殺し?> <生かして徴税するのが普通です。> ですか。 中国では <貴族が従属民を率いて郊外に「村」を作った> のですね。そのため城郭がつくられたのですね。 多方面からの視点による説明ですね。

その他の回答 (18)

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.19

 >ついでに、 「吉野ヶ里は軍事施設でない」のに「土塁や濠を巡らせる環濠集落環濠集落は城」というあなたの主張こそ牽強付会でしょう。  この様な言辞を僕は一言として申し上げておりません。揚げ足取りはお止めになって下さい、ご自身を辱めるだけです。

park123
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございました。 当然のことでしょうが、一つの言葉、一つの単語が、それぞれかけがえのない重要な意味を持っているのですね。 ...

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.18

一部訂正。 吉野ヶ里の全盛期、弥生時代後半と 天皇家の草創期は古墳時代と、 少しずれてしまう。 もっとも、天皇家草創期という表現自体が幅が広いが。 いずれにしろ、堀やら、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)に囲まれた所に住む、それをコミュニティと呼ぼうが、天守閣の無い城と呼ぼうが、都市国家の原型と呼ぼうが、事実に変わりは無い。 また、戦国時代の末期にはさらに巨大化した「城塞都市」が各地に現れた。 日本人がそういう物の中に住む時代は確かにあったのだ。 ちなみに、現代の日本人が近所を掘っても、それらしい遺跡は滅多に見つからない。 実は、日本人が、低湿地の水を抜いて、盆地の中央や平野の下流域に多数が住むようになったのは、江戸時代になってからなのだ。日本人は、雨が多くて、取水よりも水抜きに苦労してきた民族なのだ。昔は、盆地や平野の周辺部の緩斜面に住んでいた。関西の遺跡も丘陵地に多い。

park123
質問者

お礼

再三の回答ありがとうございました。 質問とは直接の関係はないですが、 <昔は、盆地や平野の周辺部の緩斜面に住んでいた。> ということですね。 大和時代がなぜ奈良盆地に芽生えたか、がわかりました。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.17

TANUHACHI氏> またしても、私の文を読み間違えてくれているようですねえ。ちゃんと落ち着いてよんでくださいね。 「都市国家」とは断定せずに、「都市国家の原型」と表現にしてありますよ。ついでに、やたら句読点をたくさん打つ私にしては、めずらしく、句読点を打たずに、「軍事施設」がどこの部分を修飾するかがあいまいになっています。この点にも気づいてほしいな。あなたは、読み間違ってますよ。またしてもね。ついでに、天皇家の草創期という表現で、弥生時代中期以降も示唆しています。 私の文の正しい読み方 × 吉野ヶ里=軍事施設=都市国家 ○ 吉野ヶ里=都市国家の原型  軍事施設の中に人が住む=都市国家 ちなみに、前回も「権力の許可を得て、」という、あなたの文と似た内容になる一文をあらかじめ用意していたのですが、投稿直前に、蛇足かな、と思って削除してましたよ。 ついでに、 「吉野ヶ里は軍事施設でない」のに 「土塁や濠を巡らせる環濠集落環濠集落は城」という あなたの主張こそ牽強付会でしょう。

park123
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございました。 当然のことでしょうが、一つの言葉、一つの単語が、それぞれかけがえのない重要な意味を持っているのですね。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.16

 前回の回答から少し時間を置いてみましたが、締め切られずまた珍説も飛び交っている様子ですので、少しばかりお邪魔します。  >吉野ヶ里遺跡など軍事施設の中に住民が住む都市国家の原型そのものであり、天皇家の草創期にはむしろこのような「城」が普通だったろう。むしろ、天武帝のような、天下分け目の戦いの勝利者である「独裁者」は、藤原京の城壁の建設を避けている  失礼ですが、吉野ヶ里が何時の時期の集落遺跡であるかを念頭に置いたならば、この様な理解が成り立つでしょうか。「吉野ヶ里」が成立していたのは少なくとも弥生中期以後の話であり、それを軍事施設だの都市国家だのに結び付けるのはいささか牽強付会といえないでしょうか。僕は実際にこの遺跡の「楼閣」に登ったこともあります。そして集落の外と内を隔てる目的の施設(板塀や外壁の原型)も観ております。  こうした集落は文字どおり「一つの独立したコミュニティ(共同体的組織)」であり、なぜそうした組織を編成する必要があったのか、が問われるべき性質の問題です。最初から「軍事施設」と位置付けるのはいささか無理がある。  次に「吉野ヶ里」の「里」の問題があります。弥生時代に「里という呼び方」を示す具体的な史料があるでしょうか。この場合の史料とは文献資料に他なりません。行政組織としての単位である「里」が登場するのは、具体的に8世紀を待たねばなりません。例の「律令的社会編成システム」です。そのシステムがあったから「~里」と呼ばれるとの説明ならば筋が通ります。それなくしては牽強付会で我田引水的でしかないと考えられます。  次いで天皇とその空間の問題。「戸締まり論」や>天皇は籠城しなかったから命拾いではないですよ。天皇の首を取る戦はないんだから  この様な言説がなされていますが、そもそも日本の前近代において「天皇」という存在には何の権力もなかった。司祭者としての「権威」を示すことはできても、政治的「権力」など何一つない、というのが現在の日本史学の共通する知見です。  天皇の寓居である内裏は禁裏とも呼ばれますが、そこは「必ずしも他と隔てられた聖域」ではない、との事実です。  戦国期の天皇の居所はかつての平安宮の場所にはなく、南北朝期以降、土御門東洞院の地にあり、規模も一町四方に縮小されたものであり、ジョアン・ロドリーゲスの『日本教会史 上(大日本航海叢書)』(岩波書店・1967年)の第十三章、一五七七年の記述には「王宮の外郭の壁は板と細竹で造られ、その上を粘土で塗ったものであって、ひどく古びて崩れていた。まったく無防備で、衛士もいなくてほとんど人気がなく、われわれもその状態を見ようと思って二、三度中に入ったように、入りたい者は、咎められることもなく内庭の中へ、王宮のあるところまでも入れたのである。」との記述が見えます。ここからは禁裏ですらも特別な空間ではないとの事実を読み取ることができます。最初から、この様な存在は歯牙にも掛けないほどのものだったのでしょう。  少し横道にそれましたが、土豪や武士の居住空間である館と政庁としての空間を識別して考える必要があります。平泉の遺構を観ますと、政庁と居住空間が識別されていたこともわかります。また「中世都市」としての鎌倉も明確に区分がなされ、それは室町時代でも変わりません。権力者は一人ですから、その人物以外の誰か別の人物が同一領域内に砦を築く必要などないのです。  大和国ならば、最大の領主は興福寺です。筒井氏などの大名もいますが、権力の規模からみれば微々たる存在にしかすぎません。逆にその興福寺と対峙したのが先にお話しした今井町です。信長のお墨付きを貰ったからといって彼らがそれで安泰だったわけではなく、自らの権益と組織を守る目的で周囲に濠や土塁を巡らせた。  あくまでも事実とそれを記す材料から考えるべきでしょうね。また古代や中世の事象を扱う時に現代の事例を比較引用することは学問的に筋違いともいえます、そもそも「前提」が異なりますからね。無用なイデオロギーを持ち込むことに意味はありません、議論を混乱させるだけです。    

park123
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございました。 私にとっての新しい知識を、教えて頂きました。 1、吉野ヶ里は、軍事施設というよりも、 <コミュニティ(共同体的組織)」> 2、戦国時代の天皇家は、 <歯牙にも掛けないほどのものだった> 以上は、私が理解できた点だけですが。 博識な方の質疑応答を興味深く読んでいますので、締め切ることはもったいない、と考えています。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.15

お礼ありがとうございます。 専門バカみたいになったらただのバカです。日本は単一民族じゃないとかの話にならん類。全ての概念を使い物にならなくしてんだろ。 日本に高い城壁で囲まれて門以外から侵入不可能の大都市があるかっての。日本が城郭都市の歴史だったなんてボケですよ。現実認識が違うハカセは実践的な参加しない方がいい。 話は変わりますが、戸締まりなんか、日本民族が平和ボケである身近な証拠ですね。私は戸締まりだけは外国式にして欲しいと思いますがそれは精神的に耐えられない民族なんでしょうね。自宅の窓に鉄格子はめるとか。城下の町人の感覚もその延長にありますよ。つまり住人が城壁のない街に定住するからです。 まとな常識人にとって日本の一般的な街が相対的に城郭都市に値しない理由を問うご質問ですからその現象を説明できない思考者は前提否定で誤魔化さない事ですね。引っ掻き回して雑学をまきちからしても賢くなりません。 因果関係は、天皇は籠城しなかったから命拾いではないですよ。天皇の首を取る戦はないんだから。しかし外国が攻めてきたらそうはいきません。そこで国王が籠城しながら首都を守れば第三国の救援なり相手国内に政変が起きたりするから頑丈な城郭に戦略的価値があるのです。城を明け渡して支配者が日本語じゃない人になるというのは激変です。日本史は違うのです。中学生でも外国と同じだとは言いません。 非武装中立が平和ボケ、それ以外は平和ボケではないというのが平和ボケの証拠です。大東亜戦争の中身は玉砕以外はぜんぶ役人仕事的な平和ボケじゃんか。朝鮮を植民地化しなかったのも無通告真珠湾奇襲も日ソ中立条約もぜんぶ平和ボケです。日本も城郭都市の国柄だと言い張る以外に何もない平和ボケに城郭都市の議論は無理です。一瞬で蹂躙されて凌辱の地獄絵です。 南京大虐殺だなんだという日本人の社会党員が創案したテーマがありますよね。降伏しない南京城を包囲した後の話ですよね。あれは武器だけ最新式のシナ人が近代人じゃなかったせいで中世的な展開になったのです。 日本は戦争のマナーという点では常に世界の先を行っています。その文化的な戦士(武士)同士の内輪ゲンカしかなかったのだから高い城壁の城郭都市が栄えるはずがありません。古代の日本はローマのように文明的な国家じゃないでしょう。その時代を例にあげるのは問題外の詭弁です。 もし日本も市民が戦う文化なら民主主義的民族になってます。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 1、日本民族は、戸閉まりなどには、 <精神的に耐えられない民族なんでしょうね。> 今でも、都会の中心地域以外は、戸閉まりなどに重き注意が払われておりませんね。 2、<日本は戦争のマナーという点では常に世界の先を行っています。その文化的な戦士(武士)同士の内輪ゲンカしかなかった> 日本人は、名乗りを挙げてから戦ったという武士を、先祖に持っていますね。 以上のような理由から、 <高い城壁の城郭都市が栄えるはずがありません。> になるのですね。 いろいろな見方を吸収できました。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.14

城を巡る戦闘の多かった戦国時代は、だんだんと城下町(城内町)をも囲んだ戦闘が多くなっていった。有名な小田原や大阪だけでなく、三木城もそうだった。敵の城を封鎖するための「付け城」を使用する戦術は、桶狭間の前哨戦ですでに行われているし、「付け城」の拡大によって、敵の城付近の住民ごと封鎖するのは常套手段化していったようだ。つまり、「武士だけの戦い」から「住民まるがかえの戦い」へと変化していった。「諸篭もり」という言葉まであったのだ。 しかし、古代に目を移すと、吉野ヶ里遺跡など軍事施設の中に住民が住む都市国家の原型そのものであり、天皇家の草創期にはむしろこのような「城」が普通だったろう。むしろ、天武帝のような、天下分け目の戦いの勝利者である「独裁者」は、藤原京の城壁の建設を避けている。 また、小田原も大阪も三木も裏切りで落ちた訳では無い。 かつて、「非武装中立論」という愚論に対する批判として「平和ぼけ」という言葉に価値はあったと思うが、「非武装中立論」無き現代に「平和ぼけ」という批判は無意味だ。むしろ、外交官や主権者との相談も許可も無く、軍が勝手に戦いを広めていった愚かな歴史を反省すべきだ。いかなる軍備を備えようが、外交と軍事を主権者が統括できない国家は生存できない。藤原京に城壁を築かなかった天武帝、江戸城の天守閣を再建しなかった松平伊豆守の英知に学ぶべきである。

park123
質問者

お礼

再三再四のご説明ありがとうございました。 各種の知識を教わりました。 まず、守備側(城側)が住民も含んだ城郭を造るのではなく、攻撃側が住民を含んで城側を包囲するということもあったのですね。 古代は、都市国家を含んだ城が普通だったようですね。 天皇家が意図的に城壁を築かなかったこともあったのですね。(これが、天皇家が現在まで存続できた理由の一つかもしれませんね) 歴史上の新しい知識を頂きました。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.13

(素直な疑問を持つ)質問者さんとは不思議に思う関心事が共通することが多いです。今回のテーマもそうでしたので(素直に日本特殊論的に)少し考え込んでみました。 天皇(=国王)のご指摘は総括的に価値があると思います。素直に言って、天皇は(今上陛下よろしく)平和ボケでも(GHQにかかっても)殺されない元首なのです。そんなお目出度い王の平安京に城壁など要りません。 忘れてはいけません、我が国の伝統的な平和ボケを。天皇の居城に象徴されるように日本は平和な歴史だったのです。中国や欧州やアラブは戦争や略奪の連続です。元寇の後からでしょうか九州の朝鮮半島に近い辺りには外人からの攻撃を防ぐ準備がなされましたね。異民族は領地に侵入させたらいけないというのは日本人も同じなのです。盗賊的な略奪や戦争による国王のが処刑をどれだけ経験したかの差でしょう。城壁都市の城壁の高さは進化論的に説明されるべきでしょう。低くても生存できたら高くなりません。 日本の王は天皇さんです。日本の王は自分の国の富を掌握していません。そういう独裁者が一人もいなかった特殊な国です。戦国時代に戦争が盛んになって城が巨大化する前に火力兵器が発達してしまい歴史的に建造物を作るタイミングがなかったのです。海外の城壁都市は大砲時代以前からの遺産です。 北条氏の小田原は城塞都市として整備されたようですがこれは今川と武田がいて京都を目指す地理になく、防御一点張りです。小田原城が強固であることは北条氏に味方する勢力を増やす作用があるので戦略的に価値があります。ところが持ちこたえているのに伊達氏も豊臣側についてしまいます。非常に野心的な要注意大名であった伊達氏でさえも早々に豊臣方(関白や太閤)に恭順していた日本国の自然な成り行きです。内輪げんかの日本では籠城の意義がない。北条氏がシナに援軍を求めないのです(それは天皇を殺す事につながります)。太閤でさえこの島国の全大名をなびかせます。源氏長者の征夷大将軍がある程度軍事力を持てば(信長のような非日本人的なのが出て来る異常事態を除き)地位が保全されるので臣下も連鎖的に地位が保障され江戸時代。外国は江戸時代でも信長が頻発するのです。比叡山も皆殺しです。異民族も共産主義者(異なる宗教)も話にならないから野蛮です。 シナや朝鮮がバンバン攻め込んできて平安京を包囲する歴史だったら日本も城郭都市整備が進んでいたことでしょう。平和な歴史ですね。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 多方面でお活躍のthegenus様には、あちこちでお世話になっております。 日本は、 <平和な歴史ですね。> 国王(天皇)の処刑がなかったほど、日本は平和だった、ということですね。 この理由は、対外的には、異民族の侵入がなかったし、国内的には、内輪げんかくらいですんでいた、ということですね。 そこで、日本では、籠城の意義がなく、城塞都市を造るほどでなかった、ということですね。 時空を駆けめぐるダイナミックなご説明を、正確に理解したかどうか、自信がありません。

  • rabbit_cat
  • ベストアンサー率40% (829/2062)
回答No.12

論点として、 ・日本には石積の壁(いわゆる城壁)を作る習慣が生まれなかったのか? というのと ・日本には、軍事的な城堡ばかりで、城塞都市がなかったのか という2つかあるんだと思います。 今、問題になっているのは後者でしょうが、 この意味での城塞都市は、皆様が指摘するように、日本にも、それなりの数で存在しました。(したがって後者の疑問はそもそも正しくない) 日本の城塞都市の、もっとも重要な例(国内最大規模の勢力が作ったもの)は、鎌倉幕府の鎌倉城、豊臣の大阪城、徳川の江戸城ということになると思います。 このうち、鎌倉城、大阪城は、実際に戦を経験していますが、前述のようにほとんどその威力を発揮することなく落ちてしまっています。この理由として私は同一民族どおしの戦いであることによる裏切りの起きやすさ(一応、追記すれば、同一民族どおしの戦いで裏切りが起きやすいのは日本に限った話では全くありません)を指摘しましたが、必ずしもそれだけではないのかもしれません。 また、確かに、奈良や京、あるいはそれ以外の~京といった朝廷の都には、防御施設ははほぼありません。 これは、確かに不思議な話といえば不思議です。 ただ、そのおかげで、ときの天皇が城にこもって徹底交戦する(その結果、もし降伏となれば、天皇家滅亡ということになるでしょう)といったことがなかったために、天皇家がこれほど長く続いた、というのもあるような気がします。

park123
質問者

お礼

再三の回答ありがとうございました。 実は、日本には城郭が少ない、という前提で質問しましたが、質問の前には、本当に城郭が少ないのか、という疑問に付きまとわれていました。質問の出発点が誤っている。と言われれば納得してしまいそうです。 そして、天皇家がなぜこのように長期間続いたのか、という疑問もありましたが、城に関連する、という示唆を頂きましたので、これから考えようと思います。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (810/3028)
回答No.11

<異民族皆殺し?> <生かして徴税するのが普通です。> 皆殺しをわざわざするというのは目的とは違いますしあまりありませんが、徴税というのは定住的イメージで若干ニュアンスに誤解を生みそうですね。遊牧民は基本有利な条件での交易や脅迫によって自分らの欲しいものを相手から奪うんですよ。 それに逆らうようなら襲いかかって何もかも破壊し奪っていくわけです。 それに対して前漢の初代皇帝劉邦のように、娘を贈り貢物を出すことによって、和を図るわけです。 遊牧民の欲しいものは金属(貨幣)、織物、宝飾品、などですね。穀物もありますが、それは優先順位が低いわけです。 そしてそういったものを守るために城郭が必要になった。 日本の場合も異民族とおなじで、隣の領主が略奪目的で攻め込んでくることはよくあります。 ただ違うのはすでにでているように日本で守るべき経済活動が無かったというのと答えが近いですが、奪うものは田んぼに実った米(穀物)そのものなんですよね。そもそも奪うべきお宝が無いというか、田んぼを丸ごと全て城壁で囲むのも不可能な話なので、城壁は戦闘員が立て篭もる以上のものになりにくかったんです。 日本で都城制であったり環濠集落になった場所は、どこも経済の中心地です。金沢なども江戸時代は日本で3番目~5番目くらいの大都市だったんです。異民族だから自分らに作れない奪うものがたくさんあったのかもしれませんし、単に日本の経済活動が都城制に見合うものがなかったのかもしれませんが、結局守るに相応しいものがなかったから都城制が浸透しなかったのでしょう。 逆に小田原北条氏はなぜにあそこまでむきになって巨大な城を作ったのか気になりますね。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 城郭は、(1)守るべきものがある、そして(2)それは守ることができる、という2条件を満たして初めて、必要になる、ということですね。(細かい点は理解が違っているかもしれませんが) こういう点からみて行くと、日本には城郭を造らない、という傾向になったのですね。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.10

質問者さん >中国では ><貴族が従属民を率いて郊外に「村」を作った> >のですね。そのため城郭がつくられたのですね。 2つの有力説の片方では、 漢までの中国は都市国家の連合体であり、秦も呉も楚も漢も都市国家連合体だったのです。ここでの貴族とは、上層市民と異ならず、それ故、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」などという反乱軍による一種の平等宣言もあり、庶民劉邦が貴族項羽に勝つこともあり得るわけです。 しかし、漢の平和な時代に、貴族が従属民を引き連れたり、流れ者を雇ったりして、郊外に「荘園」を作っていきます。これが中国的な「村」でもあります。 この村人達が戦時に「城」に籠もったかというと疑問です。 後のモンゴルの侵攻の際に、村の住民を都市に追い込んで早期の食糧不足を狙っています。これって、追い込まねば籠もるつもりは無かった、ということです。

park123
質問者

お礼

再三再四の回答ありがとうございます。 村一つ、城一つをとっても、状況により、複雑な内容を含んでいますね。 簡単には、断定できませんね。

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    欧米では、ロックバンドや俳優がヨーロッパで城を買って別荘にするのがいわゆるセレブのたしなみらしいですが、日本ではそういうことは可能なんでしょうか? 戦国時代の城については重要文化財や国宝指定されていて、私有は不可能と思いますが、例えば日本でも富豪の方なら、数億円かけて広大な土地を買い、ヨーロッパのものと瓜二つの、石造りの城を建築することが可能なのでは?と思いました。 (そういえば昔、羽柴秀吉さんという建築業の方が、東北に巨大な日本風の城を建てていましたが・・・) これについては、建築法や地方自治体の条例で禁止されているんでしょうか? 私は貧乏なので一生関係のない話ですが、好奇心で知りたくなりました。

  • 日本は本当に中国に勝てるのですか?

    尖閣諸島の領有権をめぐり、日中間が緊張状態にあります。 現段階では日本の外務省の次官がたびたび訪中し、水面下で打開策を模索しているようなので、軍事衝突に発展する可能性は小さいと思います。 しかし、石原慎太郎氏が東京都知事を辞任し、たちあがれ日本のメンバーと合流して極右政党を立ち上げる予定だそうです。 もし日本が右傾化し、尖閣諸島に施設を作るなどの挑発行為に出れば、最悪軍事衝突に発展することも十分ありえます。 もし日本と中国が戦争を始めた場合、本当に日本が勝てるのでしょうか? ネットの掲示板を見ると、日本が圧勝する、アメリカが必ず味方に付く、という主張が多く見受けられます。 しかし、この楽観的な予測には疑問を感じます。 まず、中国の2012年度の軍事予算は約8兆7千万円で、日本の防衛費4兆6千億の約2倍です。 日本と中国の装備を個別に見た場合、たしかに自衛隊の装備は中国軍を上回るでしょう。 しかし、戦争はスポーツではありませんから、自衛隊機1機に対して中国軍機が1機だけで対応することはありません。 中国軍はスホーイ27を中心に1800機の戦闘機を保有していますが、日本の自衛隊が保有する戦闘機はF-15を中心とした360機だけです。 1機のF-15に対して5倍の数のスホーイ27が襲いかかれば、F-15に勝ち目はありませんよね? 私は軍事マニアではないので戦術的なことは分からないのですが、戦闘機の数だけで比較した場合、本当に日本が勝てるのか?という疑問を持ちます。 また、海上自衛隊はイージス艦を保有しており、海上戦闘では自衛隊が圧勝との意見も多く見受けられますが、中国は誘導型短距離ミサイルを保有しており、中国本土から尖閣沖に展開するイージス艦を攻撃することが可能です。 一応イージス艦にも迎撃ミサイルが装備されていますが、中国本土からミサイルが雨あられのように降って来たら、全てを迎撃することは不可能だと思います。 9月10日に日本政府が尖閣国有化を発表してから、中国の漁船が1000隻尖閣沖に向けて出港しましたが、航空戦にせよ、、海上船にせよ、中国が数に物を言わせて攻撃して来ることは目に見えています。 日本が中国に勝てると主張している人の話を聞くと、たいていはスポーツのように、「用意スタート」の合図で同数の戦闘機や軍艦が打ち合いを始めるというシミュレーションをしている人が多いようですが、実際にはそんな甘い話ではないでしょう。 中国国内での反日デモや日本製品不買の動き、また世論調査を見ても、大多数の中国人が日本を憎んでいることが分かります。 このような状況では、中国が2~3機の戦闘機しか出さずに、しかも自衛隊機に打ち落とされただけで白旗を上げるなんてことがあるはずがありません。 中国政府が日本に対して白旗を上げたら、中国国民は弱腰の共産党政府を批判し、誰も共産党を支持しなくなるでしょう。 そもそも「中華思想」を持ち、プライドの高い民族である中国人が、白旗を上げるという選択をすること自体考えられません。 中国がいつまでたっても白旗を上げず、日本の自衛隊員に甚大な被害が出続ければ、戦争に対するアレルギーがある日本人は動揺するはずです。 そうなれば、「尖閣諸島を中国に上げてしまえば、これ以上の死者を出さなくて済む」という発想に変わるのではないでしょうか? それと、大半の日本人は日米安保があるからアメリカが必ず味方に付くと信じているようですが、本当にそうでしょうか? アメリカは、物事を損得勘定で考える国です。日本が好きだから、中国が嫌いだから、とうような感情で判断することはありません。 アメリカとしては、中国海軍の海洋進出を阻止したいでしょうが、(中国から見て)尖閣諸島の外側にはさらに先島諸島があります。 尖閣諸島を中国に取られたからと言って、アメリカにとって大きな損失になるとは思えません。 アメリカの国民も、アメリカ本土からはるか先の無人島を守るために、核保有国である中国と戦争をすることを望む国民が何人いるでしょうか? とりあえず、アメリカが日米安保を履行しないと、日本側から日米安保自体を破棄されかねませんから、アメリカは一応履行した「ふり」をするでしょう。 フォークランド紛争でも、イギリスの同盟国であるアメリカはほとど何もしてくれませんでした。 第二次世界大戦の連合国の仲間に対してもこの有様ですから、真珠湾を攻撃されたに日本に対して、アメリカがほとんど何もしないのは目に見えています。 説明が長くなってしまいましたが、皆さんにお聞きしたいことをまとめると次の3つになります。 1.軍事予算、保有する戦闘機の数を比べても中国が有利なのに、本当に日本が勝てるのか? 2.戦争アレルギーのある日本人が、多数の自衛隊員が死亡している状況を見ても、戦争続行を望めるのか? 3.アメリカはどこまで日本に協力するのか? 以上3点について、皆さんのご意見を聞かせ下さい。 なお、日本は神風が吹くから勝つというような根拠のない妄想に近い回答、中国に対する感情的な回答はお断りします。 よろしくおねがいいたします。

  • 中国の城郭都市と日本の城郭都市の違いについて

    中国の城郭都市と日本の城郭都市の違いについて 中国の城郭都市がありますね、市街地に高い城壁がある都市です(西安、南京、etc)、それと日本の大都市の城郭の城壁(堀が一般的ですが 江戸城、名古屋城、大阪城など)に囲まれた区域の違いが判らないので教えてください。 私の理解は 日本の城郭の内側には もちろん城主とそれに仕える人間しか入る事ができず、城主以下は城外に居を構えていると思います。 対して 中国の城郭は城壁内に多くの人が住み 商人なども住んでいる様な形態だと認識していますが違うのでしょうか?

  • 西洋のお城の内部

    ・西洋のお城の内部を教えてください。部屋が何室あるとか、こんな特別な部屋があるとか、そういった事が知りたいんです。・またそういった事が載ってるサイト、画像が見れるサイトがあれば教えてください。

  • 足軽について

    応仁の乱のことを調べていて、「足軽」のことが気になりました。それで、とりあえずWIKで検索してみたのですが、いくつか疑問点があります。ご回答は全部でなくても構いません。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD (平安・鎌倉・室町時代) 1 「伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め」とあるのですが、この変化の要因は何でしょうか??? 2 「また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。」とあるのですが、普段、雇われていないときは、どんな身分で何をしていたのでしょうか??? (戦国時代) 3 「戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、」とあるのですが、この要因として「鉄砲の伝来」が影響していると考えてよいでしょうか???影響しているとしても、どのように影響したのか分かりません。他の要因は何でしょうか???農業生産高なんかも関係するのでしょうか??? 4 「兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かったが、」とあるのですが、戦国時代には、殿様の録をはみ、殿様専属の戦闘員として戦に参加した「武士としての足軽」と、普段は農業を営み、副業として戦に参加した「農民としての足軽」の2種類の足軽がいたと理解してよいのでしょうか??? 5 「戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比較できる装備を整えていた」とあるのですが、戦では、足軽といっても、お金がかかる時代になったということでしょうか???足軽が戦に出るにあたって、どれくらいの自己資金が必要だったのでしょうか??? 6 「足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。」とあるのですが、戦のない時の雑兵というのは、どんな身分で、どんな生活をしていたのでしょうか??? 7 「戦国期における足軽による分捕り行為については、海外の資料にも残り、ルイス・フロイスの『日本覚書』1585年6月に「我らにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪う為に戦いが行われる。日本での戦はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪う為のものである」と記述され、西洋との行動の違いについて比較している。」とあるのですが、「西洋との行動の違い」ってなんでしょうか???

  • 戦国時代 : 戦いの最中の兵士の毎日

    例えば戦国時代などで多くの戦いが日本全国で行なわれたと思いますが、その多くは決着がつくまで数週間とか数ヶ月とか時間がかかっていますよね? 特に相手が籠城した時などは長期間にわたる戦いになったように思います。 今と違って結構ノンビリした戦いだったと思います。 その時の兵士の毎日について質問です。 1. まず寝る時はどうやっていたのでしょうか? 今のようにテントも寝袋も無い時代です。 やはり鎧・甲冑をつけたままで地面に横たわっていたのでしょうか? その場合、夏はいいとしても冬は? 2. その寝る時なんですが、総大将や上層部の武士はどうなんでしょうか? やはり下級武士と同じように寝ていたのでしょうか? あるいは何らかの形で布団に入れるようにしていた? 3. 例えば今川義元は何万の大軍を率いて都に上る途中で織田信長軍により倒れましたね。 その今川軍なのですが、何万の兵士に毎日食べさせられるだけの米を一緒に持っていったのでしょうか? となると、膨大な量になると思うのですが ・・・ 何万人 x 3食(2食?) x 総日数という事になりますよね。 もし基本的に毎日毎日、現地で買付けする事が念頭にあるのなら、もし敵方ばかりで誰も協力しなかったら、どうなるのでしょうか? その場合は力づくで? 4. 風呂は? 着替えは? 風呂については、おそらく濡れた手拭いで体を拭く程度だったかなと思うのですが、長期間になると髪に虫がわいたり衛生上の問題が出るように思います。 また着替えについても戦闘が無い時に自分で川で洗濯したのかなと思いますが、実際はどうだったのでしょうか? 5. もし病気になったら? 風邪をひいたり、お腹の調子が悪くなって、薬を飲ませたり医師に診せる必要が出た場合はどうしていたのでしょうか? 今のように前線から本国に連れ帰る事は出来なかったはず。 もしかして医師を戦場連れて行ったり、大量の薬品を持参していたのでしょうか? それに病気になった時、上層部と下級武士で扱いは違っていたのでしょうか? 6. 戦いの終了後、傷ついた兵士にはどう対処したのでしょうか? 例えば自分で歩けない人は誰か数人で故郷まで担いでいったとか? と、素朴に疑問に感じています。 時代考証をしっかり研究した時代劇を見てもそのような描写はほとんどありません。 宜しくお願いします。