因果応報説は 共同主観にはならない。

 1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善...

manuke22 さんからの 回答

  • 2013/01/28 13:54
  • 回答No.22
manuke22

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「すなわち身と心の一体なる《わたし》としての存在動態においては、だれしも《いのちのとうとさ》を知っており潜在意識としてのように自覚している」
物心つくまえにということは人格が備わったりするまえにということでしょうが、当たり前ながら胎児や新生児に自覚のための自己意識はない。また、ア・プリオリな知識として「命の尊さ」を持ち出すのは誤り。カントはそんなものをア・プリオリな知識を認めないという意味でも誤り。
あと宣言的知識とたんに宣言されたことはちがいますからね。

「そのあとものごころがつくなら、わたしはわたしである。1=1」
物心がつく以前と以後の人は同一ではない。「「私は私である」と述べる私」は、私を叙述の対象とする私なのだから同一ではない。超越論的統覚としての私と、その私の思惟作用によって構成され、語ることができる対象になった私は異なる。第一、「私は私である」は分析命題に当たるだろうが、その文は内容をもたない。

「このようなワタシの道程の中身をアマテラス普遍概念を用いて説明したのがカントである」
カントが聞いたらどうなるか楽しみ。カントが倫理の基礎に置いたのは人格の尊厳であって生命の尊さではない。

「《後天的に形成されるもの》は潜在していたという可能性がまったくないでしょうか?」
ない。すくなくとも人格や「私」は。そもそも私という一人称代名詞は神や尊さなどと同じく覚えた言葉にすぎず、代名詞であるがゆえに「私」という語は無内容です。

「前問は神秘ですね。後問はどういう答えを用意されていますか?」
いいから答えなさいな。潜在的な私どうこう言うなら、アクィナスに対してあなたが言ったように、いつどこで潜在しているのかを明らかにすべきでしょう。神秘の一言で片付けて言及しないなら、まさに神と同じく「私」も「命は尊い」というア・プリオリな知識も神秘であり、ただの空想にすぎない。

「《わたし》も同じでしょう」
「私」が胎芽に備わっているとは考えないし、「私」は経験から想定されたものにすぎない。
「私は生まれた」と言うがそれは出産されたという意味であり、出産されたのは「私」ではない。そもそも「私」という代名詞がなにを意味するかが不明。カントの超越論的統覚もデカルトの我も考えるという意識作用を前提としているが、胎芽に脳はない。脳がなくては考えることもできない。知識もない。ゆえに、胎芽に「私」はない。

「《わたしはちょっとあそこではパーフォーマンスが必要と思ったのでわざとこけてやったのだ》と言った場合にはどうなりますか?」
わざとこけたのではないからそれは事実に反します。

「おそらく意志なく意図しない場合でも何か自分に出来事があったのならそれは広く《行為》でしょう。非自発的行為です」
ではその転落で死んだ場合、それは自殺ですか? 事故死ではなく?
あとその基準では、「私は風邪を引いた」も非自発的行為になります。風邪を引くのは行為ではないでしょう。非自発的行為でもありません。たんなる身体の状態変化であり、自発的行為でさえありません。
しかしこれはよい意見だと思います。
私が非自発的行為に疑問を覚えるのは次のようなケースです。夜道で花子がある男に「金を出せ」と脅された。貧乏な花子は金を出したくなかったが、金を出すか出さないかの選択に迫られたことになる。逃げるとか戦うもありますがその選択肢二つが頭に浮かんだとしましょう。結果として花子は嫌々ながら金を出したとします。このとき、花子が金を出したのは自発的でしょうか。ある意味ではそうです。花子が自分の財布を手に取り、そこから金を出したのですから。しかし、この事件を「花子は金を脅し取られた」と見なすのもよいと思われます。たしかに花子が財布を取り出したのは行為です。先に挙げた転落死や足をすべらせたのとは違い、彼女が自分で自分の手を動かしたのですから。ただし、嫌々ながら、望まずながらです。意に反した行為を選ばされたのですから、手を動かす動作などが意図的だとしても、それは非自発的行為なわけです。あなたが転落事故を非自発的行為に分類するとき、花子が嫌々ながら金を出した行為は自発的行為だとなりそうです。なぜなら転落や足をすべらせたさい、彼には意図がなかったが、花子が財布から金を手に取ったのは花子の意図的行為だから。しかし、花子がコンビニのレジ横の募金箱に金を入れる自発的行為と、脅迫されて財布を出す行為には明らかに違いがある。それゆえに「意志なく意図しない場合でも」という条件には反対なわけです。財布を手に取るという意図的行為があったとしてもそれは自発的ではない。「金を出せ」という脅迫に端を発して花子は財布を手に取ったのだから、自発的ではない。行為者に意図がありながら、その行為が非自発的行為である場合がある。

次の例。ボブがその銃に玉が入っていないと思っており、しかし実際には玉が入っていたとき、それを知らずに引き金を引いたなら、引き金を引いたのはボブの意図的行為ですが、銃弾の発射は出来事です。引き金を引くという行為が引き起こしたアクシデントなわけです。あなたによれば、銃弾の発射は非自発的行為となりそうです。この事例に関してそれは相応しいように思われます。ボブに銃弾を発射する意図はなかったが、引き金を引くことで銃弾が発射されてしまった。

出来事という概念がさらに必要なのは銃弾が発射されなかったときです。ボブが銃弾を撃とうとしており、かつ、銃に弾が実際に入っていることを確認したうえで引き金を引いたとします。しかし銃弾は銃の不具合かなにかで発射されなかった。不発だったわけです。
では「ボブは銃を撃たなかった」のか。彼は銃を撃つつもりだったし、撃たなかったというのは変です。どちらかと言えば「銃の不具合ゆえに撃てなかった」でしょう。「撃てなかった」は行為ではありません。しかし彼の身に起きた出来事であることを理由にこの不発を彼の非自発的行為だとするなら、「彼は自発的に引き金を引いたが、非自発的に銃弾を発射しなかった」となります。これでは「撃とうとしながら撃たなかった」となります。やはり「撃てなかった」が適当です。したがって「撃てなかった」は行為なのかが問題になります。もし、撃とうとしたけど標的たる人間の命乞いを見て銃を下ろしたなら、「撃とうとしたけど撃てなかった」は自発的行為です。しかし、銃の不具合ゆえに弾丸が発射されなかったなら、「撃とうとしたけど撃てなかった」は意図的でも自発的でもなく、たんなる結果です。望まぬ結果、意に反する結果と言えばより適当でしょう。「ボブは意図して銃の引き金を引いたが、その行為は銃の不具合によって、彼の意に反する不発という結果をもたらした」。
このように、行為者に自発性や意図がありながらも、その結果が行為ではなく単なる結果となる場合がある。自発性や意図をもってある行為を実行しようとしたが、その行為が実現しないというケースがある。

「ですからそれは《無い神》としているということです。神も要らないと表現することにおいて要るかたちです」
無い神は存在する、なんてなっちゃいますよ。神という語がある、神という語を私は知っていてそれに色んな意味を与えることができる、それですみます。

「非経験の場がどうして経験事象と同じ扱いになるのでしょう? 精神は神ではありません。哲学・神学のいろはのいです」
理性は経験事象ではありません。私は理性を経験したことがありませんし、理性という概念は事象ですらない。「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」という推論を実行するなら、その「推論している」ということ、つまり考えているという意識作用は経験的ですが、推論能力の総称である理性は経験できない。あたり前です。一個のリンゴan appleは五感を通して経験できますが、リンゴというものappleを経験はできない。
「非経験の場」は信仰について述べているのでしょうが、非経験的な理念である神への「信仰・信じるという意識作用」は経験的な事象です。
「その《信じる》は、ただただ《思い込む》とか《想念においてじっといだく》とか単なる経験事象のことを言うまでです」
はい。だから、「《信仰(つまり非思考の庭およびその動態)》」は誤りです。信仰は信じることの一種ですから、非思考ではありません。「神はいる」は主述形式をもつ判断であり、この時点で思考されたものGedankeです。
あなたが言っているのが、神は経験できる事象ではないということならそれは当たり前です。

「ものごころが着くという事件をかんがみるなら《後天的》なものです、やましさは。その以前にあったか? あったに決まってるぢゃん」
なぜあったと言えるのか? そしてそれはいつから? どうぞ論証してください。

「小気味よくガンコですね」
反論をどうぞ。
お礼コメント
bragelonne

お礼率 92% (10857/11721)

 つづいてです。

 ★ ア・プリオリな知識として「命の尊さ」を持ち出すのは誤り。
 ☆ 死ぬことの恐怖は 先天的な感性です。

 ★ 物心がつく以前と以後の人は同一ではない。
 ☆ 思想を変えたり 生き方をあらためたりしたとしても 同じひとりのワタシです。

 ★ 「「私は私である」と述べる私」は、私を叙述の対象とする私なのだから同一ではない。
 ☆ ただ自己に言及しているというのみ。同じ存在です。

 ★ 超越論的統覚としての私と、その私の思惟作用によって構成され、語ることができる対象になった私は異なる。
 ☆ 《超越論的統覚》や《思惟作用》や《語ること》やそれらをおこなっているワタシやを ワタシは統覚しています。話す主体・考える主体・その表現内容を観察し間違っていないかを検証する主体・それらをすべて統覚している主体 これらは みなワタシです。

 ★ 第一、「私は私である」は分析命題に当たるだろうが、その文は内容をもたない。
 ☆ 《ワタシと自称する主体は ワタシである》。


 ★ 代名詞であるがゆえに「私」という語は無内容です。
 ☆ 【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】
    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html
 ☆☆(上記質問の趣旨説明欄) 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?


 《神秘》は 保留でもいいでしょう。

 ★ 「私」は経験から想定されたものにすぎない。
 ☆ ワタシは 相対的な世界にあってという条件つきで 現実です。

 ☆☆ 非自発的行為
 ☆ この例ないし用語は 必ずしも適切ではなかったかも知れません。
 不可抗力――つまりいわゆるその場のクウキなどをもふくめて――の事態に遭って その相手(情況)の要請に従うという場合 これも《広く大きく》行為ですよ。
 
 つまり 答責性があるという意味です。つまり そのとき取った行動は ワタシには不可抗力としてのしかかりましたとでも説明して責任を果たすたぐいの行為です。

 ★ 転落で死んだ場合
 ☆ これは 自殺ではないでしょう。事故死になりますが 問題はその方面にはなく たとえばこうです。あのあぶない崖を歩くことにしたのはワタシなのだから やはりワタシの行為として起きた事故だという見方です。(死者が考えて発言しうればですが)。

 脅された花子の場合は まさに不可抗力です。

 銃を発砲したボブは ワルギはないのですが 思い込みに頼らず 注意を怠らないことという顧慮をあいまいにしていたかも知れない。少しは やましさを感じることと思う。


 ★ 無い神は存在する、なんてなっちゃいますよ。
 ☆ ええっとですね。非経験の場を――神という語が持たれていることにかんがみ――想定するわけです。それは 有るか? 無いか? けっきょく人によって好きなほうをえらべばいいわけです。どちらもありです。
  《存在する》かどうかは けっきょく分かりません。ただ仮りに特に有神論者は 有る神を《存在》と呼ぶでしょうね。

 ★ 理性は経験事象ではありません。私は理性を経験したことがありませんし・・・
 ☆ えあやいえおうえ? こうやってやり取りしている内容は 理性が考えています。

 ★ 推論能力の総称である理性は経験できない。
 ☆ そういう見方から捉えるのですか。けれども 《推論能力》という呼び名をあたえたそのものは 経験事象に属しています。

 ★ 一個のリンゴan appleは五感を通して経験できますが、リンゴというものappleを経験はできない。
 ☆ その《リンゴというもの》は それとして認識し想像もしうるものです。いわば観念です。つまり 想像世界という経験領域に属します。

 ★ 非経験的な理念である神
 ☆ 厳密に言えば 《非経験》と言ったら 《理念》はしりぞけられます。想像や思考と同じ経験事象だとなるからです。


 ★ 信仰は信じることの一種ですから、非思考ではありません。
 ☆ いえいえ。《対象のない》のが 信じるです。わづかに神の名を介してはいますが。想念や理念にしても思考や想像の《対象》であるなら 経験事象です。つまり 非対象を対象としているのが 信じるであり信仰である。つまり 非思考です。

 ★ 「神はいる」は主述形式をもつ判断であり、この時点で思考されたものGedankeです。
 ☆ 《想定した神》そして《仮りの代理表現としてあらわした神》 この前提のあとでは――それらは 言葉なのですから―― いかようにも思考を及ぼしたりすることが出来ます。その限りで 神学もあります。
 つまり ふつうの経験事象をあつかうのと同じように 言語学としても哲学としても議論をしてゆく場合があります。
 
 ★ あなたが言っているのが、神は経験できる事象ではないということならそれは当たり前です。
 ☆ あたりまえのことが あたりまえではないようなのです。
 神は 精神である。純粋精神である。と言う場合がけっこうあるのです。


 ★ 〔やましさは 自然本性にそなわったハタラキである〕どうぞ論証してください。
 ☆ 顔を赤らめるというやましさ反応。これが 後天的にのみ現われるとお思いですか? わたしのほうこそ論証してくださいと言いたいところですが 神経細胞でそのように――しかもワタシが意図せずに――起きる現象ではないのですか?

 誰も 顔を赤らめようとしていわゆる赤面するのではないし その仕組みを自分で作り上げたものでもない。歳を取ってから現われるのだとしても もともとそういうハタラキの仕組みがあったからこそ そうなるのではないですか?

 ヒゲが生えてくるのと同じような現象ではないですか? DNA にさえそなわっているでしょう。
投稿日時:2013/01/29 00:13
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