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ならぬことはならぬものです
大河ドラマ「八重の桜」が始まりましたが、このドラマに出てくる 会津藩の教え「ならぬことはならぬものです」を 聞くと、どうももやもやします。 これは論理的には「AはAである」というトートロジーで 何も言ってないに等しいのでは? この教えは命令を遂行する足軽レベルなら規律重視でもいいけど、 戦略を考える大将がこういう思考だと不味いのでは?などなど みなさんはどう思われますか?
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「AはAである」 じゃなくて、 「例え不合理と思われるものでも、決められた事を守れ」 というような意味ですよ。 「悪法でも法は法」というのに似ています。 会津初代藩主の教えに 「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」 というのがあります。 http://www.tsurugajo.com/history/kakin.htm つまり、未来の家臣たちに、たとえ殿様でも他国に同調して、 徳川宗家に弓引くものには従うな。と言ってます。 その流れですね。 時勢が傾いて、たとえ徳川が悪になっても 自分たちは将軍に殉ぜよと。。なるわけです。 この藩はその成り立ちからもうすでに非合理の塊なのです。
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- Whigs
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会津の近くにいたらしい鷹山さんが「なせばなる なさねばならぬ なにごとも なさぬは ひとのなさぬなりけり」と言ったかどうかは、この方には会ったことがないので知りません。 しかし、核爆発にしろ津波にしろ、人災か災害かの区別はむつかしいものの、自分たちにはどうしても変えられないものはあるだろうから、落ち着いて受け入れましょうということなのかも知れませんね。 もちろん、『変えられるもの』は変えていかなければ、『ならぬものはならぬ』なのでしょうが、そこで俺が俺がと言いながら、人々の気持ちより自分の名声を望むような、あるいは自分の価値観をおひとに押し付けてばかりみたいなお山の大将が現われても、さらに不幸が人々を訪れるかも知れない。だから、大将であっても、雑兵であっても、それらの人々を送り出す家族であっても、我を押し通すことは良くないのかも知れない、ということではないかと思います。 つまり、けっして世の中に負けろと言っている訳ではなく、人々の思いを大切にして、勇気と賢さを持って、誰もが強く生きて行きましょうということではないのかと、長州出身のわたしは思います。
お礼
回答ありがとうございます。 この言葉はいろいろと想像を巡らせることができますね。
- laksmii8
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八重の桜でならぬことはならぬを強調してきちんと説明していないのか、かなり間違った意味にとっている人がたくさんいます。 ならぬことはならぬは『間違っていること、悪いこと、いけないことはしてはいけない』という意味です。 会津藩士の子供として武士として人として間違っていることはしてはいけないということです。 什の掟にある嘘をついてはなりませぬ、卑怯な振る舞いはしてはなりませぬなどを『ならぬこと』でまとめてさしているだけなのでおかしくないと思います。 人として当たり前にできなきゃいけないことを言っているのでいい言葉だと思います。 子供が自主的に作ったというのもすごいです
お礼
他の回答者さんも答えられてますが、「ならぬことはならぬ」は 什の掟の最後に加えられた念押しする強調の一文ですね。
「ならぬことはならぬ」 この言葉って何だか重々しく響くのだけど 僕が住む大阪弁でいうと 「あかんいうたらあかん」 何だか昔、よく親からあるいは先生たちから いわれたような気がしています。 要は権威有る人が「四の五の言わずに言うこときけ」 と脅して押さえつける言葉ですよね。 問答無用です。 きちんとわかるように聞かせてやらずに何も言わずに 従えという教えが現代、「体罰」となり被害者を 苦しめ、スポーツ界を歪めているのだと思うのですが。
お礼
大阪だと「あかんいうたらあかん」のあとに 「こないなら、どうでっしゃろ?」「勉強しまっせ」が 続きそうに思いますね。 会津とは違ってだいぶ軽い印象です。
- taturo3
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ならぬことはならぬ これは、いまでいう法律の話では? なぜに守らねば?との問いに、 守らなければみんながうまくいかなくなる、という説明を 言い方を変えて、ならぬことはならぬと表現したのでは、、、
お礼
「きちんと法律を守りましょう」という呼びかけよりは もっと精神的思想的に峻厳なものを含んでいるように感じます。
- manuke22
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戦略とは関係ないのでさほど問題ないと思います。また、速やかな決断をするためにであればこうした単純な教条は有用でしょう。参謀だからこそ、謀略以外のことについては単純な思考様式や行動様式でよいとも思います。ちなみに私が戦略と関係ないと言うのは、戦略的であるために論理的であることは不可欠ではない、みたいな意味です。目的を叶える合目的性を重視するとき論理は不可欠ではないというか。あえて厳密に論理的に振舞わないことも合目的性には重要であると考えています。たぶん質問者さんは、参謀は論理的であるほうがよいのにこんな教条的な考えをもつのはよくないのではないかと判断しているのかもしれません。かりに、参謀に求められるのは命題論理や洗練された道徳的知見だけではないと考えるなら、ならぬことはならぬと述べた人物への印象は変わるかもしれません。参謀は倫理学者ではないわけですから。 たしかにならぬことはならぬはほとんど同語反復であり、この文だけを見れば無内容に思われます。しかしたとえば「餅は餅屋」なんて諺がありますが、餅は餅屋じゃないですよね。この諺を餅と餅屋の字義の通りに捉えたら意味不明ですが、「餅のことは餅屋さんが詳しいのだから、餅屋さんに任せたり尋ねたりすれば良い」と解釈するなら、明解な意味をもっています。そしてほとんどすべての人がこうした解釈をしているでしょう。諺はロジカルな文というよりもレトリカルな文なので、分析よりも解釈をすることが諺に対してはより適当な態度だと思います。 質問者さんは「論理的には」無内容な命題だと言いましたが、その文を論理的ではない仕方で捉えるなら、つまり分析命題としてのみ捉えないならば、その文は論理的には無内容でありながら意味のある文として捉えることもできるでしょう。たとえばこんな会話。「私ならウンコ味のカレーよりカレー味のウンコを食べるかなぁ」「いやいやいや。ウンコはウンコだよ。カレー味だろうがなんだろうが」。この「ウンコはウンコ」という文は同語反復ですよね。しかしそれゆえに論理的には無内容だとしても、それがウンコであるということを強調する文であり、したがってただ無内容なだけの文であるわけではありません。「ウンコはウンコである」は無内容な文かもしれませんが、それがある特定の文脈あるいは主題(ここではカレー味のウンコとウンコ味のカレーならどっちを食べる? ですね)で発話されたり記述されると、たんなるトートロジカルな命題ではなくなります。回答者のみなさんは私も含め、歴史や発話者の事情などを考慮にいれていますが、これらも広義には文脈に位置づけられるでしょう。 ちょうど「命令」という語を質問者さんが書いていますが、命令文は論理的ではないですよね。「起立!」は「立て!」という意味ですが、そもそも主語と述語がないので命題ですらないわけですから。それでもこの命令文をたんに論理的に無内容な文として片付けられません。この文を発することで学生は立つわけですから。命題論理からすればトートロジカルで無内容な文も、それが発話されたならたんに無内容な文ではないというか。禁止の表現であるこの文はたんに論理的に無内容な文ではなく、相手の行為を制限するように働きかける行為としての発話です。発言は行為の一種であると考えるのも、命題論理とは違う仕方での考察を可能にするでしょう。 たんなる文ではなく発話であること、特定の文脈のなかでの発話であること。これらは重要な要素でしょう。ちなみに私は思考停止と言われる状態をさほどネガティヴに捉えてはいません。思考が停止するということがまずありえないように思いますし、あまり考えないことによってそれだけ行動に注力できるからです。行動が思考よりも大事だとかそういう意味ではなく。言うなれば、思考停止という語に対して思考停止したくないわけです。 ならぬことはならぬ。この文は「である」の文ではないですよね。してはいけないことをしてはいけない。まずならぬことをAとします。そうすると、Aをしてはならぬとなります。してはならぬことをAとするなら、してはならぬをAとするのはできないように思います。なぜなら、ならぬことはいちおう名詞の形をとっていますが、してはならぬはそうではないからです。ならぬはしてはならぬことだ、とは言いませんよね。上のほうでならぬことはならぬを同語反復だと言い切れなかったのはこれが理由です。独身者は結婚していないならともかく、ならぬことにたとえば人を殺すことを当てはめると、人を殺すことにしてはならないという意味内容は含まれていません。独身者は結婚していないという文なら、独身という語に結婚していないという意味があるので、結婚していない者は独身であるとも書けるわけですが。 ならぬことはならぬ。これは一見してトートロジカルな命題、あるいは分析命題のように見えますが、ならぬことはならぬはそもそも命題ではないのでは? してはならぬことはしてはならぬことである、これなら同語反復だと思います。
お礼
長文の回答ありがとうございます。 「ならぬことはならぬものです」は、哲学的にさまざまな角度から論じることのできる かなり豊かな話題だと感じました。
- 戦艦みかさ(@mikasa1905)
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私も気になりました。 ドラマがこれからどう展開するのかよく知りませんが、1話目を見る限り「徳川を裏切ってはならない」の「ならぬものはならぬ」かなぁと思います。戦略・戦術の話ではないんじゃないかと。 ただ、その徳川への忠心も、負け組になるわけですが。負けがわかっていても戦わなければならないって美学ですかね。例えばこの前、民主党惨敗は目に見えてましたが、だからって選挙寸前に脱走していった議員はとても支持できないと思いました。 信念を貫く「負け組」が歴史には必要だと思います。「るろうに剣心」の「斉藤一」みたいな。
お礼
同じ「ならぬこと」でも、徳川が君主なのか、天皇が君主なのかで 180度変わって来るんですよね。そこをどう考えるかですね。
- chiha97
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八重の桜、bougainvilleaさんとはちがった意味でもやもやしながら見ていました。 あの使い方は、「什の掟」の一部分のみを取り出してしまったために、「ならぬことはならぬ」という言葉の本来の意味とはかけ離れており、ほとんど誤用と言って差し支えないと考えます。 会津に対する誤解が広まってしまいそうです。 什の掟は「会津藩の教え」というよりは「子供たちが自主自治のために自ら作るルール・マナー」という感じのもののようです。 「什の掟」については以下のサイトがわかりやすいと思います。 http://www.nisshinkan.jp/about/juu 什の掟における「ならぬことはならぬ」の意味は、当時の大人たちが書いた掟の書き方と比較してみるとわかりやすいと思います。 【什の掟】 一、年長者の言うことにそむいてはいけない 一、目上の人にはお辞儀をしなければならない … ならぬことはならぬものです 【当時の掟の書き方】 一、○○をしてはいけない 一、□□をしてはいけない … 右の条文は堅く守るべきものである 「ならぬことはならぬ」は「右の条文は堅く守るべきものである」に当たると考えられます。 什は6~9歳の子供の集まりですから、小さい子でもわかるようにこのような表現をしたのでしょう。 意味は「決まりは守るべき」といったところでしょうか。 「ダメなものはダメ!」というような使い方をする言葉ではありません。 また、これは子供たちの決まりごとなので、戦で部隊を率いるような大人が「ならぬことはならぬ」の考えを堅持するなどということは、どちらの意味であってもまずないことと考えます。
お礼
番組の予告を見ると、今後もドラマのなかでも大人が「ならぬことはならぬ」を 連発するようです。 No4さんの回答でも書きましたが、この文だけ取り出すと「什の掟」本文からは意味は離れますが やっぱり会津の気風を象徴している一文なのではないでしょうか。
- ukiyotonbo
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その通り。戦略立案では、これじゃ駄目。だが、それ以外は、これでいいってこと。 独裁者なら、誰にでも「ならぬことはならぬものです」と言う。 自分の思い通りになるように洗脳するにはこれしかない。 「ならぬことでもやってみたらどうか」なんて言っていた日には、民主的になってしまう。 >みなさんはどう思われますか? 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
お礼
秀吉なら「ならぬなら ならしてみよう ホトトギス」ですかね。 大阪ぽい発想ですよね。
かって土井たか子氏が『だめなものはだめ』と発言したのを思いだしました。 それは正しいのかもしれないけど、それを言ったら議会制度そのものを否定することになると思いました。 そのときのもやもや感と同じように感じます。 また、かって『原理原則』と言って社員を思考停止状態にする組織から4ヶ月で逃げ出したことも思い出しました。 『原理原則』が不変なものであるわけがない。 自分にとっては非常な苦痛だったのですが、自分で考えないで済むということは安楽なのでしょう。 ワンフレーズや、決め付けで思考を止めてしまうこと。 それに乗っかっちゃえば、自分で考えなくて済むものね。 というか、自分も考えたように思い込んじゃうのかもしれません。 実現性に無理があることは、やろうとしてもうまくいかない。 こういえば、大多数にとっては名言といえるかもしれません。 でも、そんなことにこだわらない人もいますし、偶然にはみ出したことをしてしまうこともあります。 白川先生のポリアセチレンは触媒の量を間違えたからできました。 できないと思っていたら、青色ダイオードは開発されなかったでしょう。 戦国の世なら、外れてしまう人にチャンスがあるでしょうが、徳川幕府の治世では変わらないことが大事だったのでしょう。 戊辰戦争は変わりたくない人々と変えたい人々の戦いだったと捉えることもできるのではないでしょうか。 ところで、『ないものはない』って、結局あるんですかね、ないんですかね? わかんないっすよね。 ドーナツの孔って… いや、もう寝よう。
お礼
ワンフレーズも現実と合致しているときは 仕事の能率も上がって効果的ですが、 現実から遊離してしまっては、悲惨な結果を招くだけですからね。 やっぱり現実からのフィードバックを欠かすのは 不味い考え方だと思います。
- TANUHACHI
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少なくとも「言論文化」の成熟しているとはいえない国や集団にあっては有効な手法であるかと考えられますが、それは別な言い方をすれば「思考停止状態」にあるとも言えるでしょう。 この点は現在の日本でも変わりないともいえます。それは古くさい儒教道徳が戦後も形を変えて生き残っているともいえます。日本の企業社会で嫌われるのは「意見を言う者」ですが、逆に欧米では「君はどう考えるの?」と問われて、自らの意見を言えない人物は評価もされません。 目的に対して、そこに至る過程をクリアするために戦略や目標があるのであって、日本ではその「目標」をクリアすることが目的になってしまっている結果ともいえます。思考および行動からみれば、逆立ちと揶揄されても文句もいえないことすら、まともに理解できないのでしょうね。 日本の社会では「考える、疑問を持つことを極端に毛嫌いする」「上意下達が絶対的な支配原理であり、これに少しでも疑問を持つならばそれは反逆に値する」との貧しい発想です。だから日本は「靡く文化」とも呼ばれる。一つの方向を一糸乱れぬ形で目指すことが美徳とされるのでは、つい最近「大国」をカネの力で強引にもぎ取ったどこぞの国と変わりありません。
お礼
アメリカでもアメフト体育会的なノリはあるように思いますが 戦略的な雰囲気が違うように思います。 日本だと考えたあとに、上手く空気を形成するところが 重要なんですよね。
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お礼
「什の掟」は会津藩「家訓15カ条」の幼児用簡易版なんですね。 教えてくださったURLを見ると > 尚、誰が草案を作成したかについては、諸説あるようですが、 > 保科正之と山崎闇斎が共同で作成したのではないかと考えられています。 山崎闇斎の名があり、朱子学から闇斎、そして会津藩への流れで 自分のなかで思想的な位置づけがスッキリとしました。 回答ありがとうございます。