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人に裁かれるより、機械に裁かれたほーが良いのでは

  裁判官も検事も人である。 人は思想を持ち、信仰し、理念を掲げる生き物である。 しかしその思想や信仰や理念は人それぞれであるから自分のもつ思想や信仰や理念とは異なるに違いない。 そのよーな者に裁かれたのではたまったものではない。 しかし法律の条文だけから成る機械であれば人としての思想や信仰や理念は持たないのであるから、偏った判断はせず皆等しく裁かれるはずである。 現代の機械文明の中にあってそのよーな機械を作ることはさほど難しくはあるまい。 そのよーな機械が完璧である必要もないのである。 何故なら裁判官も検事も人である故これまでに数多くの間違いを犯しているからである。 サイコロを転がして判断するのと大差は無いのである。 人であれ機械であれ完璧なものはない。 完璧である必要はない。 それならば裁判官や検事に裁かれるより、そのよーな機械に裁かれたほーが余程マシである。 おそらく世間の皆はこのよーに考えているのではなかろーか。  

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  • 回答No.7

自然言語で記述された法律を機械可読言語に書き換えることが出来れば、法律を順守するレベルの裁判は機械の方が均一で、しかも、迅速、低コストでしょう。 遺産相続の遺留分確定の裁判なんかコンピューターで一審をした方が良いと思いますね。 あとは、二審や最高裁は、複数のコンピューター・システムで審議して、一致した場合はそれを判決として、一致無い場合は人間が介入すると言うのが良いでしょう。 アポロコンピューターの時に、三種類のコンピューターで計算結果の一致を確認し、一致でない時には、多数決で結果を選択すると言う仕組みがあったそうですから、この方式を援用すればよいですね。 ただ、司法労働者が既得権を奪われると言って反対に回るでしょうから、国会議員がちゃんとして、裁判制度を決めないといけませんね。

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質問者からのお礼

  >ただ、司法労働者が既得権を奪われると言って反対に回るでしょうから、国会議員がちゃんとして、裁判制度を決めないといけませんね。 司法労働者は自分たちの仕事、司法業務が人間にしか出来ない聖域と考えているかも知れんが、そんなことはなく、銀行の窓口業務や運転免許証の更新業務、役所の窓口業務と同じで機械化しよーと思えばいつでも機械化できる仕事の代表格であること知ってもらわんといかん思います。  

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  • 回答No.23
  • kurinal
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>「同レベルのものであれば機械に置き換えるのは簡単であろーゆーこと。」 ・・・機械に置きかえて尚、「再審が必要になってしまいました」とか、そういうことか。

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  • 回答No.22
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1194)

>「最近の例でゆーと、東京電力の弁護団は東電がバラ撒いた放射性物質は無主物であるから仮に放射性物質をバラ撒いても補償の対象にはなり得ないなどと主張したらしいのである。」 主張は主張で、どんどんしたらいいと思う。 ・・・機械ではショートするか?(笑)

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質問者からのお礼

  つまり今の司法業界ゆーのは所詮この程度のものに過ぎんのであるから、同レベルのものであれば機械に置き換えるのは簡単であろーゆーこと。  

  • 回答No.21
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1194)

>「司法業務の機械化に向け、まず最初に国民総背番号制が導入されるはず」 裁判を受ける権利とか、刑事司法手続きにおけるなんたらかんたらとか、 ひいては、やはり人権という問題というのは、 また、最近「再審」というのも、よく聞く。 (原質問分に戻って) >「裁判官も検事も人である故これまでに数多くの間違いを犯しているからである。 サイコロを転がして判断するのと大差は無いのである。」 これは法曹に対して随分失礼な話ではないか >「人であれ機械であれ完璧なものはない。 完璧である必要はない。」 この表現を見る限り、「司法」というものの本質を、質問者はご存知と思えるのですが。 (つまり「十把一絡げ」というわけにはいかない、ということですが)

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質問者からのお礼

>>「裁判官も検事も人である故これまでに数多くの間違いを犯しているからである。 サイコロを転がして判断するのと大差は無いのである。」   >これは法曹に対して随分失礼な話ではないか 実のところサイコロを転がして判断するのはまだマシなほーで、実際はもっと酷いのである。 最近の例でゆーと、東京電力の弁護団は東電がバラ撒いた放射性物質は無主物であるから仮に放射性物質をバラ撒いても補償の対象にはなり得ないなどと主張したらしいのである。 このよーな有様に法曹界の本質が如実に表れていると思う。 今の法曹界は裁判所も検事も弁護団もまず倫理的に腐っているのである。 それゆえ司法業務の機械化は必要なのである。     放射性物質は無主物である

  • 回答No.20

おっと、 いまちょいとみてみたらこういうのもあるんだね。 C01 質感情報の脳内表現と利用のメカニズム http://shitsukan.jp/content/90 http://shitsukan.jp/ ヽ(  ̄○)ゞ。o○ファァ~~♪ ちょっと寝よっと。おやすみー

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質問者からのお礼

   「ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理」への回答のほーもよろしく。  

  • 回答No.19

...........“〆(°_°*)ふむふむ  ●相手の裏をかこーなどとゆーせこい戦い方はせんのである。 たしかに 「柔能く剛を制す」ともいえるかもね http://kotowaza-allguide.com/si/jyuuyokugouseisu.html ありゃりゃ? w( ̄△ ̄;)wおおっ! 将棋から卓球、卓球から柔道になってきたゾォーーー (||||▽ ̄)アウッ! メタモルフォーゼ.~ o(^▽^)o キャハハハ いやー、しかし、おもしろいねー 少し想像してしまったー ・・・(‐‐).。oO 何を? 米長さんのコスプレ姿を… ヽ(〃v〃)ノ 「3D試着ミラー」なるものも登場してきてる昨今(日向徹♪)、ここはひとつご勘弁をと 着物から短パン、短パンから柔道着へと早変わりさせて申し訳ない モーシワケヽ(`⌒´)ノ ゴザイマセンッ!m(_ _)m 「柔」と「剛」がでてきたところで、ひとつ考えてみません? (考え方)+やわらかい,やわらかい+(考え方) (考え方)+かたい,かたい+(考え方) 「やわらかい」って、?「かたい」って? 感覚的な質感をどこまで理解できるかなあー? 日本語に見られるオノマトペの多様さ http://opac.kansaigaidai.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.UTF-8/DB00000199/Body/r086_02.pdf コーパス利用による中国語教育(3) http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/32795 KyoyoShogakuKenkyu_126_Sunaoka.pdf I 中国語声調の教育法と先行研究  声調の習得は、外国人が中国語を学習するさいの最初の関門である。 個々 の音節について音の高さが定まっている声調言語(tone language)は世界に多 数存在するが、 中国語は一音節内の音の高さの変化が意味弁別機能を担い、か つ形態変化を伴わない単音節声調言語の代表格といえる。現代中国語の標準語 である“普通話Putonghua”は、広東語や上海語など他の方言に比べ声調の種 類が少なく、一声、二声、三声、四声の4パタンだけであるが1、 基本的にすべての音節の構成要素であり、かつ声調の違いが意味の弁別機能を担ってい る。子音21種類、母音35種類に比べ、4種の声調の聞き間違えや発音の誤りが 情報伝達に及ぼす影響は大きい[孙德金2006年pp. 391]。  

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  • 回答No.18

>ボンクラーズは「まとも」ではない。 それはボンクラーズと対戦して勝った後にゆーとえー。 ↑ この返し意味わからんしー 「まとも」ではない言い換えれば 奇想天外、奇想奇天烈、摩訶不思議と っと言うてはんのんとちがう? 勝った後にゆーとえー。< どこからこの言葉がでてくるの?意味わからんしー そやけど思うねん、ボンクラーズって奇想天外、奇想奇天烈、摩訶不思議なんやろか? 何でそう思うかって? 卓球上級編 http://members3.jcom.home.ne.jp/tt1123/takkyuu/t-joukyuuhenn.html うん、卓球にたとえるとボンクラーズはある意味カットマン 対戦相手のミスを突いて勝利しているとはおもわん? そうするとやね、一見奇抜なことと見えることでも ぜんぜんフツウなことなんちゃうんかなあ?

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質問者からのお礼

  >そやけど思うねん、ボンクラーズって奇想天外、奇想奇天烈、摩訶不思議なんやろか? ボンクラーズは奇想天外でも、奇想奇天烈でも、摩訶不思議でもありません。 ボンクラーズの戦法は全くの正攻法である。 相手の裏をかこーなどとゆーせこい戦い方はせんのである。 それで米長永世棋聖を破ったんであるから立派であろー。    

  • 回答No.17
  • kurinal
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あんたが作った機械に相手される、そのほーが余程マシかね

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質問者からのお礼

  司法業務の機械化は段階を追って確実に行われることは間違いない。 司法業務の機械化に向け、まず最初に国民総背番号制が導入されるはずである。  

  • 回答No.16
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1194)

(明確に)違う。 仮に、裁判官や検事が「これでヨシ」みたいなプログラムを作りおおせたとしても、裁判官や検事(自身)に捌かれたほうがマシである、理屈である。 言うておく。ボンクラーズは「まとも」ではない。

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質問者からのお礼

  >ボンクラーズは「まとも」ではない。 それはボンクラーズと対戦して勝った後にゆーとえー。  

  • 回答No.15

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質問者からのお礼

米長邦雄永世棋聖を破ったコンピュータ将棋ボンクラーズの必勝アルゴリズムを使って精査すればえーんでないの。  

  • 回答No.14
noname#194996

NO、9 です。 まずお礼の全体としての印象を言っておきます。 確かに、多くのものが数値化されていることは確かです。 しかしそれはアナログ→デジタル 的変換であって、忠実性100%ではありません。ただ似たものに過ぎないのです。人間の目や感覚が騙されている、ごまかされている、といえないこともないのです。 そして、まだまだ数値化されていないものはたくさんあります。あるいは、人間がごまかされないものといったほうがいいかもしれません。裁判は最終的には人間の感情の対決に行き着きます。感情は数値化できません。 韓国人と日本人のどちらが感情的に竹島を欲しているか?そういった要素を国際司法裁判所が冷静に数値化して判断することは可能でしょうか?

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質問者からのお礼

  >感情は数値化できません。 やはり根本的な間違いがあります。 人間の損得感情などは物事の損得が人の頭の中で数値化され比較された結果生まれるものではないんですか。 心理学は人の心の中、心理、感情、理性、判断の基準などなどを研究する学問ですが、心理学がこれらを扱うにはやはり何らかの方法により数値化し、グラフに表すなどして比較検討するのです。 人間の感情とて既に数値化されてます。 医学では頭に電極を付けて脳波を採取し、これを比較検討することにより人の心を読むのです。 当然その脳波は数値化され解析されるのです。 意識調査なども人の感情や意識を数値化するために行われるものです。   よくよく考えてみて下さい。 この世に数値化出来ないものなんて殆ど無いのです。  

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    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。