• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:昭和三十年代の日本の映画事情に)

昭和三十年代の日本の映画事情とは?

このQ&Aのポイント
  • 昭和三十年代の日本の映画事情では、モノクロ作品とカラー作品が入り乱れていました。
  • 例えば、浜田光男主演の「仲間たち」はカラーである一方で、同年の作品である「愛と死をみつめて」はモノクロでした。
  • 黒澤作品はこの時代もモノクロであり、文学作品はモノクロであり、カラー作品は娯楽映画に多く存在しました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.5

当時の映画、日本映画の興行にも要因があるでしょう。当時は基本的に2本立て興行が一般的で、ほとんどの映画は90分前後、2本で3時間、というかたちで映画館にかかっていました。つまり、量産が期待されたわけです。 カラーは、まずフィルム代・現像費などがかさむのと、スタジオの電力を照明用に大出力で必要とします。なので30年代前半だと量産がききません。白黒でも問題のない映画、たとえば、ご家庭コメディ(サザエさん)、若手監督作品(初代「野獣死すべし」)は必然的に白黒になります。 一方、年末年始・お盆・GWにむけた大作、オールスター映画、SFなどは、カラーにすることを、作品の性質と、他社作品を押さえて稼ぐための商品、の両面で必要としました。 配給網を自前でもっている大会社(5社 東宝、東映、大映、松竹、日活)の自社作品はすくなくとも「封切りは確実にでき」るので、比較的予算に余裕があった故、カラー化しやすかったのですが、自前で配給網をもたない新興(新東宝)会社や独立プロは、封切りできるかまでが「賭け」の側面がありました。新東宝の食堂には、「テスト一回 はい本番」「やすく・はやく・おもしろく」などと標語が書いてありました。なので、フィルムの性能があがって価格がさがるまではマイナー作品はモノクロが多かったわけです。 ただ、モノクロは人間の「イマジネーション」をかき立てる画面を作ることになるのですから、あえて選んだ監督もおおいですし、今日でもありますよね(グッドラック・アンド・グッドナイト なんて好きな一本です)。黒澤監督はモノクロからカラーにしたとき、色が死んだ、という旨の発言をしています。 日本で最初に上映されたカラー映画は、資生堂が作った「資生堂式新美顔術」で、昭和12年のことです。見る機会がありましたが、異様にキレイな画面で、カルメンとは段違いに時間当たりのお金がかかった映画だと感じました。

その他の回答 (4)

  • mozofunk
  • ベストアンサー率39% (503/1279)
回答No.4

1999年発行の黒澤明~夢のあしあと~黒澤明研究会編 資料・記録集 というムックによると、昭和26年木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」が日本初の本格総天然色映画で、黒沢明監督の初カラー映画「どですかでん」まで19年かかっているそうですが、初期のカラーフィルムは感度が低く(絞り込んで被写体深度を深くする)縦の構図 望遠レンズが多用できない、という書き込みがありました。 黒澤監督はマルチカメラで引き絵と寄りを一度に撮影する監督でしたから、寄り用の望遠レンズが使えないというのは、かなりの悪材料であったと思います。 余談ですが、この頃のカツドウヤ(映画人)は作品のことを「シャシン」といいます。

noname#186980
noname#186980
回答No.3

再度の回答です。私は生後4ヶ月の時に吉永小百合さんに抱っこされていますので、吉永さんの作品はほとんど見ています。私のベスト3に入る作品『愛と死をみつめて』『愛と死の記録』『キューポラのある街』に共通しているのはなんだと思いですか?黒沢監督は『天国と地獄』であるシーンにカラーを入れてます。『椿三十郎』もモノクロ映画ですが、劇中の赤い椿は赤く見えました。小津監督にしろ黒沢監督にしても、思い入れがあったと思います。石原裕次郎の映画でカラー作品の一番最初は、日活の経営がが軌道に乗った『嵐を呼ぶ男』からです。その点大映はカラーで行きましたからね。スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』にも冒頭と最後を除いてカラーのシーンがあるのはご存じだと思いますが、とにかくジャンルで色分けはしていません。会社と監督の意向だと思います。これが私の見解です。質問に沿っていないようでしたら誠に失礼致します。

tbx
質問者

お礼

いえとんでもない、回答ありがとうございます、私は当時のことは全然しらないので、、、 もともとは黒澤映画が好きで一通り観たんですが当時の他の映画も観たくなって他の映画みたら割りとカラー作品が多く、何故巨匠であり芸術家でありクリエイターである黒澤や小津が新しいカラーという世界に挑戦しなかったのかな?と疑問に思ったんです、同じ疑問をもった人が当時もいたと思うし、その辺雑誌インタビューとかしていたのを覚えてる人とかいるんじゃないかなと思って質問したんです、 私は私見は望んでないんです 例えばこれこれこういう理由で椿三十郎はモノクロになったとか、当時はこういう理由で彼らはモノクロ作品しか撮らなかったみたいな具体的な理由を知ってる人はいないかなと思いまして、

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.2

こんにちは。 昭和30年代の映画をリアルに観てた世代です。 昭和30年代前半は殆んどがモノクロ映画でしたが、30年代半ば頃になると「天然色映画」が出始めました。 当時は、カラー映画とは言わすに天然色映画と映画ポスターには表示されてましたが、通常の場面はモノクロでクライマックスシーンになるとカラーになる映画が多かったですから、始めからラストシーンまで全てカラーの場合は「総天然色映画」とポスターには表示されてました。 当時は、私も小学生でしたから頻繁に映画は観られませんでしたが、印象深いオールカラー映画を観たのは「モスラ」でしたね。 この、モスラは自宅近くの映画館で子供向けにポスターを募集してたことで、絵を描くのが好きだった私もポスターを応募したところ佳作に入選して無料入場券を貰えたことで観られました。 なお、「愛と死をみつめて」が上映されたのは昭和39年の東京オリンピックが開催された年だったと記憶してますが、この時は中学二年の突っ張り少年だったので、恋愛映画には興味がなく観ませんでした。 しかし、エレキギターには興味があったので、翌年から始まった加山雄三の「エレキの若大将」シリーズはオールカラーで観てます。 ちなみに、悪ガキだったので、高校時代から日活ロマンポルノなどの成人向け映画を堂々と映画館で観てましたが、昭和40年代前半も通常場面はモノクロで濡れ場になるとカラーでしたから「カラーフィルムが高価だった」から映画制作費の関係が大きかったのでしょう。 当時は、一眼レフカメラのフィルムもモノクロフィルムが主流でカラーフィルムは高価でしたからね。

tbx
質問者

お礼

当時の貴重な体験談ありがとうございます、回答楽しく読ませて頂きました、そうですか、当時はクライマックスだけカラーになる作品もあったんですか、初耳です、やはりモスラや若大将シリーズなどの娯楽作品の方がドル箱で儲かるからカラーが多いんですかね?しかしそうなるとやっぱり黒澤みたいな巨匠が節約の為にモノクロで 撮ったということになるのだろうか、、、、

noname#186980
noname#186980
回答No.1

モノクロは回想シーンに適しているからです。あとは経費が節減出来るというのもあります。

tbx
質問者

お礼

しかしそれでは説明のつかないような気がします、経費のことでいえば黒澤明は昭和25年の羅生門で世界的に評価されていて撮影にはお金をジャブジャブかけてその後の映画を作っています 経費の問題でモノクロしたとは考えられませんし、それは黒澤以外の小津安次郎にも言えると思います、回想に適してるというのも、当時の現代劇を モノクロで撮っています 私が疑問に思うのは日本映画の黄金期、世界的にも評価の高かったし、映画にお金を途方もないお金をかけられた時代に何故モノクロで巨匠たちは 作ったのかと思ったんです、愛と死をみつめても、映画化の前から新聞に連載されていて話題沸騰の中での映画化だったようですし、当時のスターである浜田光男と吉永小百合です、何か強い意図がない限りカラーで作るのが 素人考えでは普通かと思うんです 初期の作品を除いて石原裕次郎や、小林旭の映画はカラー作品ばかりなので、どういう意図なのか知りたいのです、また回想シーンに合うという理由なら今の回顧映画もモノクロで作られてなきゃおかしいと思います 私見ではなく、当時のそういう事情とか風潮とか知ってる方に回答お願いしたいです

関連するQ&A