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石見銀山にある大久保間歩は洞窟ではないのでしょうか
前に行ったのですが、洞窟だと思っていたのですが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%A9%B4 には、載ってませんでした。 と言う事は、洞窟ではないと言う事ですか?
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こんにちは。 質問とは、ちょっとかけ離れるかもしれませんが、追加です。 間歩(まぶ)とは、金銀の鉱脈が見つかった採掘坑のある部分(山全体ではなく)を指します。 間歩の入り口は「釡の口」と呼びます。 間歩の坑道全体を「敷」(しき)とよびます。 そして、敷の中でも釡の口から入って、枝分かれをしていない、いわゆる、本筋の路を「廊下」とよびます。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 皆さんがおっしゃられているとおりですが、 まず、回答から先に述べますと、 石見銀山の大久保間歩(まぶ)は、銀の採掘のために人間が人工的に掘削した穴ですので、「洞窟」とは言いません。 正確には「採掘坑」、または、単に「坑道」と呼びます。 「洞窟」とは、 何らかの要因により、「自然」に竪穴や横穴となったものを言います。 wikiにもありますように、 例えば、鍾乳洞だとか、地盤沈下などにより断層ができて穴となったような場合を指します。 (よもやま話) (1)大久保長安は、武田氏の猿楽師大蔵太夫の次男として生まれました。しかし、一説によると、徳川家康に白斑点のある珍しい「鷹」を贈って気に入られ、慶長7年(1602)に甲斐代官、続いて、石見(銀山)代官にまで出世しました。 (2)石見銀山での成功により、慶長8年(1603)には天領地佐渡(金山)代官に抜擢されました。 (3)佐渡代官として人海戦術による多額の金銀を採掘することには成功しましたが、人足の多くを島外から雇ったため、また、能登や越前などから、一攫千金を夢見て佐渡金山の開発に多くの人が押し寄せたため、佐渡の人口が急激に増加をし、主食である米などの物価が高騰し、佐渡島内での経済的破綻をきたしてしまいました。 (4)それでも、長安に対する家康の信頼は厚く、慶長17年(1612)7月、長安が中風をわずらったとき、家康は江戸の街で有名な薬師に薬を調合させ、それを贈っています。 (5)しかし、長安の中風は回復することなく、慶長18年4月に駿府で死去し、これにより、石見、佐渡の金銀山の経営は新たな人材が登用され、例えば、佐渡では田中清六という人物に引き継がれました。
お礼
ありがとうございました。
- okormazd
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参照URLにある洞窟は自然にできた「穴」です。 石見銀山にある「穴」は人が掘ったものです。銀を取るために掘った坑道です。 「洞窟」というなら人工の「洞窟」ということになります。 「穴」なら何でもいいということになれば、鉱山の坑道や鉄道や道路のトンネル、地下鉄なども含むことになり、世界中で枚挙に暇が無いことになってしまうでしょう。 だから、参照URLには出ていません。
お礼
自然にできたかどうかが焦点のようですね。ありがとうございました。
- at9_am
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> 洞窟ではないと言う事ですか? 洞窟ではなく坑道跡です。 質問者氏が掘った穴を洞窟とは呼ばないように、坑道跡も普通、洞窟とは呼びません(広義では呼ぶこともあります)。 wikiに載っていないのが何故かは知りませんが、単にあまり長くない(900mしかない)ためかもしれません。
お礼
とてもわかりやすいたとえでした。ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。