世に悪とは存在せず?善のねじ曲がりとは何か

このQ&Aのポイント
  • この世に悪は存在しないという問いについて、善のねじ曲がりが悪であると言える。善は存在し、悪はそれとして善の損傷として現れる現象に過ぎない。
  • 悪は心のへそ曲がりに発し、ウソやいつわりのことと言われる。一方、善は個人ごとに主観的に決まる心のあり方であり、悪は善のひねくれやねじ曲がりでありそれがくせとなると善が損傷を受ける。
  • 悪は他のものから独立して存在するのではなく、善が減少していくにつれて現れるものと捉えられる。善としての心の本性が減り、それを悪と呼ぶ。したがって、悪は存在せず、善が減った状態の名前で呼ばれる現象に過ぎない。
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この世に 悪は 存在しない。

 ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

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回答No.22

こんばんはです。 ☆☆☆ ☆(a)悪は存在しない。 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。 どちらも、人間がその都度その都度こしらえてきた価値観に従い、ある現象を〈善〉と呼び、それに相反する現象を〈悪〉と名づけているのではないでしょうか。この世に、あるいはこの世を離れたところに、真理界や叡智界というものがあるのならば話は別でしょうが、この現象的世界に絶対的な善や普遍的善などはありえず、善悪ともに相対的なものでしょう。ある社会で善と考えられているものが、別の社会では悪とされることもよくあります。時代によっても、善の内容は変化します。むしろ、善悪は文化・社会などによって異なる相対的で、多極的なものという捉え方は駄目ですかね。 また、 善性の欠如、もしくは善性をねじ曲げることをもって悪を定義するのならば、同様に、 〈悪性〉の欠如や、〈悪性〉をねじ曲げることをもって「善を定義する」ことも可能になるのは。 bragelonneさんの論法をしたがうのならば、 (a’) 〈善〉は存在しない。 (b’) 主観としての〈悪〉をねじ曲げ傷つけることが、〈善〉である。 (c’) すなわち 〈悪〉は それとして存在するが 〈善〉はその〈悪〉の損傷としてこれをひとことで〈善〉と呼ぶ現象があるのみだ。 となりはしませんか。 人間という不完全な存在を考えた場合、むしろ〈善〉より〈悪〉を実在視し、そこから哲学を組み立てるべきなのでは、などとも思っています。 〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉を善悪の判断基準とするのならば、〈悪〉を実在視する方が、理にかなっているようにも思うのですが。 ☆☆☆ ☆ ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 ◇〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉という心理的現象に善悪の根拠を置いているようですが、 bragelonneさんは、 そうした感情をいだくために、人間には本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力が備わっていることを前提としているように思います。 はたして、人間にそのような能力が生得的に備わっているのかどうか、僕はかなり懐疑的です。 そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。 そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。 そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、 ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。 また、僕は、理性や悟性といったものは、道具的なものだと考えています。 理性や悟性といったものは、自己利益の追求のためにつかう道具的なものという意味です。したがって理性や悟性そのものには価値はない、というのは極論ですが、便利な道具、その程度のものでしょう。 そして、人間は、生物学的な進化の中で、そうした理性や悟性と言われるものを身につけ、いわゆる動物とは別な存在になった。 しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。 ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。 この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。 ☆☆☆ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。 (そのどちらもふくめているのかしら?) 〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか? 老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。 で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。 だとしたら、今回の質問の背景にある思想は、キリスト教ではなく、日本・中国などにみられる自然(じねん)の思想が背景ということになるのでしょうかねぇ~。 だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いそがしくなってまいりました。夕飯と夕刊を済ましました。  ★ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。  ☆ なるほど。これらの言葉について深く規定し終えてはいませんでした。  ★ 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。  ☆ ただしこれは 語源辞典をしらべたのですが どちらも《あざむく・だます》を共通としているようですが ご説明願いますか? 違いについてです。  ★ ~~~~  〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか?  老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。  で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。  ・・・  だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ なるほど。そういう筋もあるのですか。ゆえに 大道廃れて仁義ありになるわけですね。  困りましたね。  ええ。分かりました。次のような方針を明らかにします。  ○ (ここでの問い求めの方針) ~~~~~  1. ここでの善悪論は あくまで実践論である。少々理論の不備があっても 実践に役立つことを旨とする。  2. 主観を基礎とし理論としてもそこから出発するかたちを取っていますが それは 必ずしも《心理》の問題を重んじて扱うことではありません。そうではなく 言うなれば むしろ《生理》です。  3. 広く生理として人には 《顔を赤らめる・動悸がはげしくなる・言葉がしどろもどろになる》といった反応があります。ここに少しく《心理ないし倫理》を含めて そのとき《やましさ・うしろめたさ》をも感じるとする。とすると それはおおむね《うそ・いつわり》という自己表現にかかわっているはずだという見方をする。  4. 《やましさ》でこれらの生理的心理的反応を代表させるなら この疾しさを持つということは 《しかるべき心の状態・また立ち帰るべき心の状態》から背き離れる心のウゴキである。と見る。  5. 《しかるべき心の状態〔とおのが心が思っているそれ〕》を《善》とよぶべき自然本性のあり方と規定する。したがって この善に背き離れる動きは 負の善であり ひとことで《悪》と呼ぶ。  6. このような定義から 次の命題をみちびく。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~  ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) ★ ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。  ☆ 性善説 その孟子版については かなりここでの善悪論は違っていることに気づきました。No.21お礼欄をごらんください。  (あ) すでに表現が外に出てしまっている状態について 相手との関係において 善悪を規定する傾向が 孟子にある。こちらにない。《悪は人の外に存在する》とまで言っているそうです。こちらは《存在しない》と言っています。  (い) やはり外に出た表現行為とその人間関係について見て 善悪を規定しようとする。人間の性は善だという説は 《善の兆し》が先天的にそなわっているからだと言う。たとえば 《惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)》だと。  でもこの兆しないし傾向は おそらく主観〔という動態〕における生理的心理的な反応をめぐって立ち帰るべき状態があると見たり その状態から離れようとする別種の反応が観察されたりすることなどから 《善》なる自然本性が捉えられるという原点があるから そう言えることではないか?  その善から 自己背反としてのような悪という現象が現われる。と捉えるかたちを ここでは採る。       *  (8) ★ この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。  ☆ キリスト教・つまりオシエないし宗教は 知りません。嫌うという意味です。アウグスティヌスに――自分の解釈をとおして――拠っています。  (9) ★ ~~~~~~~~  しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《根源》は――実践論であるゆえ―― あつかわない。という方針です。  (10) ★ ~~~~~~~~  本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力・・・  そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった過程そのものについての議論は 差し支えないかぎりで 扱いません。  (11) ★ ~~~~~~~~~~~  そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 能力が先天的か後天的か あるいはウソ・イツワリをめぐる感覚反応が快不快という判定の仕方によるべきか あるいは有利不利かによるべきかなどなど これらは 出来る限り扱いません。  主観が何を最終的にもとめているか。ねがっているか。立ち帰りたいと思っているその場は なにか。これによって判断し あとはそのしかるべき場ないし状態を善ととらえ それにさらかうウゴキと状態を悪とよぶ。これのみで 話をすすめるという方針です。  (12) そうしておくなら   ★ ~~~~~~~~  そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、  ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった別様の理論に対しても 同等の位置を持ち得る。こう見ます。  わづかに 質問趣旨のほうが 有益だと思われるのは 主観がただちに善悪の判断が分かるかたちを取っているそのことです。  (13) ★ ~~~~~~~~~~~   ☆(a)悪は存在しない。  「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」  ということになるのでは、というのが率直な疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この反論についても 主観が何をもとめているか ここに焦点を当てるかたちで なお持ちこたえ得て行くものと考えます。上のご見解は あまりにも《客観的》すぎましょう。実践論を構成しがたい。と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  とりあえず このあたりでひとまづとします。もし取りこぼした論点などありましたら 申し訳ないですが そのとき考えます。  

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.64

#60です。 > ☆ 《砂上の楼閣》なる作業仮説が 実地にはたらくなら それでよしとするかんたんな哲学です。  ですから 《立地》を検討せねばらないと言い 《楼閣の建て方》について反論する段階ではないと言うのならば 別様の作業仮説を提出するか それとも 何もかもダメだという結論をもって そのダメさ加減を説明しなければなりません。 : 砂地に楼閣を建てるのは好ましくない、と申し上げているわけですが、それに対して、じゃあ、どこなら良いのか言ってみろよ、とおっしゃっていることになりますが、何か大人気ないですね。 「悪は存在しない」とおっしゃっているわけですから、その正当性を納得いくように説明すれば済むことでしょう。 「そんなに言うなら、なんで悪は存在するのか説明しろ」と居直るのは、どうなんですかね。 いずれにしても、立地の目処がついた時点で、またお話させていただくほうが良いと思います。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 砂地に楼閣を建てるのは好ましくない、と申し上げているわけですが  ☆ 《やましさ反応》のどこが 《砂地》なのか。これを説明せよという応答です。  もしくは 砂地でもかまわない。それを作業仮説とするだけだから。とも言っています。  ★ 立地の目処がついた時点で、  ☆ 《立地》の問題そのものを扱うのではなく 砂地としてであってもの生理的心理的なやましさ反応を取り上げ そこから善とそして善の損傷としての悪とを定義して それらを人間の行為について当てはめるなら 妥当な観察結果や検証結果が得られると言っています。  悪は 善と同じようには存在するものではなく 善という存在の中身を損傷することとして起きている現象であるに過ぎない。つまり悪は 存在しない。  こういう仮説法による議論であり これを問うています。

noname#161051
noname#161051
回答No.63

no59からです。 >★ 自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるからです。 >☆ 悪行になった時点で あるいは要するに自分の主観においてやましさ反応を伴なって悪だと見なした時点で 悪とその行為が発生します。  それだけのことです。 だからそれが悪行の一つになっていると自分で主張してるじゃないですか >相手に損傷を与えたとしても それを自覚していない場合は その主観においては悪はまだ発生していません。 これは損害を与えた側が自覚してない場合でしょ?じゃあ損害を与えられた側やそれを認識出来る側はどうなるんですか? >★ いじめの問題なんかで言いますと加害者は『遊びのつもりだった』と言っています。当人の主観では『遊びのつもり』でも被害者や他の善悪や良し悪しが分かる人もしくは被害者の気持ちが察せられる人、違法行為が分かっている人であれば『酷い(「悪い」でも「悲惨」でも何でもいいです)行為を行った加害者』と認識できましょう。 >☆ ですから 実践論としては 《本人が やましさ反応を起こしたとき》 そこで本人にとって悪が発生します。 確かに本人の意向には悪ではないとなれば本人には悪をしたという感覚はないでしょうね、しかしそれと悪が発生するか否かはその加害者のみが感じたのが全てではありませんよね? >★ であれば『もとから存在するのは 身と心なる』から発せられた行為が悪行になる可能性も秘めていることになると思います。 >☆ 悪行になる可能性を否定したことはありません。 ではなぜ『悪は存在しない』と反発するのですか? >善の損傷のほうをえらんだなら 主観にとって悪が発生し まあ後ろめたい感覚が派生するということですね?それは否定しませんが >その実行によって 一般に悪行がおこなわれます。 『その実行によって』のみではないと思いますよ? >★ 『自由意志によって 善にしたがうか それともさからうか という善と悪とがおこなわれる。』という文面です。この文面は最後に『という善と悪とがおこなわれる。』と自ら悪の派生を肯定している。 >☆ そのとおりです。 なら派生する可能性はあるし撲滅できる可能性もあるじゃないですか?   >★ しかしご自身は『悪がおこなわれる』と自ら言っているわけだからその時点でご自身が悪を作ってしまっているわけでそこに気がつかないというのは吟味が足りないと思われますが・・・? >☆ 《現象として起きる》と《それ自体で存立するかたちで存在する》とは 違うと言っています。 それは石ころは転がるが石ころが転がるという事はないと言っているようなもので・・・ >★ どうも辞書で調べてみたところ『存在』というのは『現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの』という意味も含まれているようです。 >☆ そういう表現を用いる場合もあるということでしょう。  >《やましさ反応》があることも ないことも 《現象》です。 なら基から派生する善行も現象であって、それは存在して悪行は存在しないというのは相当無茶な理論です >この現象としての善も悪も あると言っています。この《ある》を 《存在する》という言い方でもあらわす場合があります。それだけのことです。 >ですが 悪は 存在ないし ご自身の仰る『存在』で言うなら善も『存在』しないことになりますよ   >もしそういうことでないとすれば そういうことは要素としてあると言ってますよ >★ 結果的に私の考えを証明することになりましたね。 ☆ どこから?> ご自身が『基の善は存在して悪は存在しない』と誇張してるあたりからです。 >そうでなければ 質問趣旨の行き方に沿って 批判を述べるのがよいでしょう。 散々述べてきました。 >★ なんですか?自由意志の主張ですか?その辺は否定しませんが論点がズレましたね。 >☆ やましさ反応は その無の場合の善か 有の場合の悪か いづれかを自由意志がえらぶのだと 初めから言っているぢゃないですか。何度言ったらわかるのですか。 2回目だから2回目で言わんとしてることが分かりました、要は善悪のいづれかを自由意志が選んでいるだから・・・という繋がりだったんですね?ようやく分かりました。 >★ あくまで私が思い描いている『悪』に対しては今のところ隔離し更生させられる程の悪行なんてしてないつもりです。 >☆ ウソ・イツワリのようにやましさ反応のあるものは 悪だと言っています。 それは認めてますよ、その上でそれだけではないと主張しているだけです。 >この定義に従わない場合は 別の問い求めの方法を ご自分で提出してその説を明らかにしてからにしてください。 なので今までの私の回答で明らかにしてきました >それとも ウソをついたことはないと言い張りますか? 言い張りませんが隔離し更生させられる程の悪行はしてません。 >★ 『要するに相手の悪を為したという意志行為が こちらに乗り移った』ことにはならないでしょうね。 >☆ ミラーニューロンという現象があります。ですが 経験的に分からないというのであれば これは 触れないでおきましょう。(ほかのみなさんに読んでもらうためにということとします)。 ミラーニューロンの反応を「乗り移った」と言い張るんですか?てっきり「人格や性質が乗り移った」という意味での「乗り移った」かと思いましたよw ミラーニューロンの反応を乗り移ったというのであればその主張は正しいものだろうと思います。 >★ ~~~~   ★・・・そんなこともないでしょうwそれは偏見ですw   ☆ という見方が 《偏見》でしょう。他人の悪行によって自分の精神が傷つくということは――世の中の言いぐさはどうであろうと―― ありません。  ・なんでですか?まともな反証が書かれていない。反論するなら正当性のある反証を書かないと反論になりませんよ。  ~~~~~~ >☆ 《まともな反証が書かれていない》のは 先にはどちらですか? ご自身でしょ? >こちらは 前まえから 善の損傷を悪というと言ってるぢゃないですか。おのれの主観においてだとも付け加えていあります。 そりゃあなたの主観なら幾らでも善悪定義できますからね当たり前でしょ。 >それ以外に 損傷はないと言っています。定義からです。 そりゃないでしょうけどそれは理屈を強引にくっ付けたもので石ころは転がるが石ころが転がるという事はないと言ってるの同じです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.59お礼欄) ~~~~  やましさ反応で 善か悪かを捉えるということ。やましさ反応をおこすということは やましいものごとを やましくないという意味での善にさからうことと認識しているはずだと言っています。  動悸がはげしくなることは 《やましくない善》をますます活かすようなことだとは見られないからです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ このくだりで すべてにお応えしています。  まづ 善も 善の損傷としての悪も それぞれ 現象しています。  つぎに ところが悪は現象しているが 善と同じようには存在していない。こう述べています。  悪がもし善と同じように存在するとすれば なぜ悪の場合に生理的心理的な《やましさ》反応が起きるのか? 善のときには起きないではないか?  むろん そういうふうに善と悪とを定義したに過ぎないと言われかねないのですが 少し違います。  そのように名づけて定義する前にも このやましさ反応は起こっているからです。  反応が起きるということは やましさや後ろめたさというくらいですから 好ましくないことであり やめたほうがよいと生理的な反応は言おうとしている。と考えられます。  言いかえると その反応が起きない場合もあるわけです。  そこから考えられることは 《反応無し》の場合は その想い描いたことをそのまま好ましいものとして行動に移してもよいと言っており 《反応有り》の場合は 好ましくないものとして行動に移さないほうがよい(または 行動に移すに際して慎重にするのがよい)と言っている。こう考えられます。  なぜ 好ましくないか?  それは もともと人の自然本性においてその《好ましくない》ことが存在しているからその存在の中から出て来るというのではなく そうではなく 《好ましい》ことが存在していて その好ましいことに逆らうこととして出て来る。からではないか?  好ましいことを損なうというかたちで 《好ましくない》ことは現われるのではないか? そしてそれだけではないか?  よって 善は 存在しておりまたそれとして現象する。悪は 善と同じようには存在しておらず 存在する善に逆らってそれを損なうというかたちで初めて現われる。のではないか? だから悪は 現象としては 善の損傷として現われるが 悪というものとして存在しているわけではない。  こうです。  これが  ★ 石ころは転がるが石ころが転がるという事はないと言ってるの同じです。  ☆ か?  

  • bokeyu
  • ベストアンサー率37% (15/40)
回答No.62

「悪い」という形容詞を名詞化して「悪」ということばを作ったからといって、悪というものが個物を離れて独立して存在するとは言えないでしょうよ。 >ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。 現象の対立概念は実在でしょう。 ちなみに観念実在論者にとっては存在すると言えるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ぼけゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ことの発端は 一般に《悪は 存在する(あるいは 実在なり)》とはっきりしてはいないとしても   《悪は存在しない》とも見ていない  と思われることにあります。言いかえると 《悪は 存在しない》が常識になっていてもよさそうだ。と思うからです。  この場合の《存在する・しない》は たしかにむつかしいようにも思います。その中身をしっかりと区別して用いることがです。  ★ ~~~~~   >ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。  現象の対立概念は実在でしょう。  ~~~~~~~  ☆ もちろん《存在》もそうなのですが 《実在》というと 神のいる・いないにもかかわるかと思っていたのでしょうか そう言えば この言葉はこれまで出していませんし 出なかったように思います。  ★ ちなみに観念実在論者にとっては存在すると言えるでしょう。  ☆ そうですね。大雑把に言って 《イデア》がそれとして存在するという前提がすでにあるのですから 善にしても悪にしても それぞれとして存在すると言うことなのでしょうね。    これも大雑把な議論になりますが こうも考えられませんか?  つまり もし《悪が存在する(実在なり)》ということになれば その悪なる思想や行動に対して人が成しうることは ただ善をもってか同じ悪をもってかして その悪とたたかわせること。これだけになるということではありますまいか。  さもなければ 棲み分けるというようなかたちしか残らない。  言いかえると 次のようなことわざは 《悪が存在する》なら 持たれることはないはずです。     ・ 罪を憎んで ひとを憎まず。   ・ 無理が通れば 道理が引っ込む。  つまり 悪にゆづるといったことは 何の意味もなくなります。悪は 善を基礎としてそれから派生するのみである。あるいは 悪は 善に寄生して起こる現象にしか過ぎない。・・・  こういう見通しのもとに 質問を挙げています。  その善か悪かの判定について 《わたし》の主観における《やましさ》なる生理的心理的反応の有無によるなどを考えたものです。  こういった出で立ちです。

回答No.61

たとえ善悪に限られませんでしても、 もしオブジェクト群の属性にならずに単体での状態に其の価値が留まり続けているのでしたら、 其の場合には、其の価値はイデアにしかなり得ませんので、 御指摘の通りに、単体の価値は蓋し経験世界に存在し得ないでしょう。 http://money.quick.co.jp/MoneyNavi/insurance/18.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 単体での状態に其の価値が留まり続けているのでしたら  ☆ 《価値》を持ち出すのでしたら それが誰にとってのものか。これをすでに同時に明らかにする必要があると考えます。  《わたし》にとっての価値だときまったら その価値は すでに経験世界に属します。

  • hakobulu
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回答No.60

#57です。 > ☆ 《反論》の内容は どこにありますか? 結論を述べているだけではないですか?  善が基礎にあり その基礎の上に善の損傷という意志選択もある。そしてその損傷の場合は やましさ反応がある。これは 悪のことである。  このリトマス紙にかんするかぎり これだけだと言っています。  それに対する反論ってありましたか? : 読み直していただければすぐおわかりになると思うのですが、 「本性が悪のリトマス紙だけより持っていない、という点に関して反論している」と申し上げています。 「本性が悪のリトマス紙だけより持っていない、という主張に対して反論している」と言い換えても構いません。 その内容を指して「>結論を述べているだけ」とおっしゃるのであれば、そもそも「>善が基礎にあり」と前提していること自体が結論なのであって、それを前提として採用していることに不合理性がある、と述べているわけです。 「>結論を述べているだけではないですか」という批判を持ち出すのは筋が違うと思います。 反論の内容を述べることにやぶさかではありませんが、何度も申し上げるように砂上に楼閣を築くという行為自体にあまり興味が湧かない、ということです。 まず、立地を検討する必要があり、楼閣の内容を論議の対象にする段階にはない、という見解です。 楼閣の建て方について反論するという段階には至っていないのではないでしょうか。 > ですから 善悪が相対的なものだと言っているだけではなく 《悪は それ自体として存立することはない。ただ善に対する判断とその行為の際に 善の損傷として現われるのみである》ということをも言っています。(こんなことを どうして何度も言わねばならないのでしょう?) : ですから(とわたしも言わざるを得ないのですが、)「悪は それ自体として存立することはない」ということがすでに結論ではないんですか。 根拠が述べられないまま、その結論を前提として話を進めるという手法に異議を申し立てているわけです。 > ★ 『「やましい」という感覚はどこから、なぜ生まれるのか』を問題にしないといくら論議しても砂上の楼閣になりませんか、と言っているはずです。  ☆ 強いて言えば 自然本性の中からであり その要素を特には善と呼んでいる。そしてそのように経験事態を捉えて実践論の中に採り入れる。のみである。という意味です。  どうして この意味が伝わらないのでしょう? : 「>そのように経験事態を捉えて」というのは、「やましいとなれば 単純に悪」を言い換えているだけですよ。 何の説明にもなっていません。 実践論の具体的説明もない。 伝わらないほうがむしろ自然じゃないでしょうか。 > ですから 砂上の楼閣かどうかは どうでもよいという意味です。善悪は相対的なものだと言っていますから それが砂上の楼閣であるという意味にもなるだけです。 : そうした展開のしかた自体に異議を唱えているわけなんですけどね・・・。 それが実践論であるというのであれば、その意味がわたしには理解できませんので、これまでにしておきましょう。 > ★ ~~~~  《悪人という人間は存在しない。無造作に投げられたコインが、たまたま裏に出ただけである。であるから、人間は無造作であってはならない。しかし、無造作な環境はそこら中に転がっている》 というのはいかがですか。  ~~~~~~~  ☆ これは おかしい。つまり中身のことはまづ措いておいて こういう議論を添えることがおかしい。  あなたは この実践論としての善悪論が 無意味だと言おうとして《砂上の楼閣》だとおっしゃったのでしょう。だったら この実践論の要素を自分の見解に採り入れて 議論を組み立てるのは おかしい。 : 別におかしくはありませんよ。 つまり、悪は存在しないというのはおかしいが、悪人は存在しないというのであれば、こうした理由により理解できるのですが・・・。 という意味のことを述べているわけですから。 掘り起しが足りないと言われればそうでしょうが、何度も申し上げるように砂上に楼閣を建てるのでは意味がないでしょうから、特に論じようとしていないだけです。 まあ、先に述べたようにまだ考えがまとまっていないということもあるわけですが。 まとめるプロセスとしての論議というのもありでしょうが、できれば砂上以外のほうが好ましいという感じですね。 わたしにはその能力がありませんので、ブラジュさんには、適地を整えていただけると有難いと思います。 > 《悪は 存在しない》という命題は まだ必ずしもふつうに常識となってはいないと受け取っています。それゆえ質問をしているのですが ですから 人びとの常識を見直すのによい。はずです。  それとも すでに常識となっているとお考えですか? もしそうなら なぜ初めに 《悪は存在しない》ということなら すでに常識ですよとひと言言わなかったのですか?  ですから おかしな批判の仕方であると述べています。 : 全く意図が伝わっていないと思います。 《悪は 存在しない》という命題が常識となってはいない(というのはその通りでしょうが)かどうかは問題ではなく、その成立が「>自然本性と言うべき心としての善」という、根拠が明示されておらないことを前提としていることに異議を唱えているのですが。 「>人びとの常識を見直す」という思いつきは良いとしても、その前提となっていることの根拠が曖昧なのですから「よい」とは言えないのではないかということを申し上げたわけなんですけどね。 要らぬお節介と言われればそれまでなので、たしかに建設的な投稿とは言えないようですが。 >  ★ 「やましさ判定」の実態は問わないということでしょうから、  ☆ これは 異なことをおっしゃる。いまごろ・いまさら こんなことを言っているのですか。  やましさ判定だけが問題だと言っているぢゃないですか。その以前の 闇雲な欲動のうごめきも その以後の行為の結果としての社会関係の中における意味合いも 別としうる。と言って来ているぢゃないですか。  《やましさ判定》の実態こそを問うているのです。  どう考えれば  このように筋を逸れて解釈ができるのでしょう。 : 「実態」という表現がまずかったですね。 『「やましさ判定」の客観的実態は問わないということでしょうから』としたほうがわかりやすかったかもしれません。 結論として述べた『「おのれがやましさ判定で悪としなければ全て善」という理屈になると思いますが、そこから何が生まれてくるのか理解に苦しみます。』 という箇所が要旨なので、こちらに重点を置いていただければと思います。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・その内容を指して「>結論を述べているだけ」とおっしゃるのであれば、そもそも「>善が基礎にあり」と前提していること自体が結論なのであって、それを前提として採用していることに不合理性がある、と述べているわけです。  ☆ 実践論とは そういうものです。  経験事実を取り上げて それらだけで理論と言えるかどうか瀬戸際にあるひとつの作業仮説を建てます。つまり  ★ 「>善が基礎にあり」と前提していること自体が結論なのであって  ☆ という成り立ちです。この結論は 但し作業仮説であって 実際にいろんな場合に当てはまるかどうか これを検証して行こうという試みです。(抽象的な議論で済ませようとはしていますが)。  演繹法や帰納法のほかに仮説法( abduction )という論法があるのを 省みてください。  ★ ~~~~  まず、立地を検討する必要があり、楼閣の内容を論議の対象にする段階にはない、という見解です。  楼閣の建て方について反論するという段階には至っていないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ 《砂上の楼閣》なる作業仮説が 実地にはたらくなら それでよしとするかんたんな哲学です。  ですから 《立地》を検討せねばらないと言い 《楼閣の建て方》について反論する段階ではないと言うのならば 別様の作業仮説を提出するか それとも 何もかもダメだという結論をもって そのダメさ加減を説明しなければなりません。  ★ ~~~~  ですから(とわたしも言わざるを得ないのですが、)「悪は それ自体として存立することはない」ということがすでに結論ではないんですか。  根拠が述べられないまま、その結論を前提として話を進めるという手法に異議を申し立てているわけです。  ~~~~~~~  ▲ (ヰキぺ:仮説演繹法) ~~~~  〔* アブダクションという用語とは別の語がかかげられていますが これで用が足りると思います〕。  この方法によると、観察可能なデータに基づいた検証による反証が可能であると考えられる形式で仮説が定式化されることによって、科学的探究は進む。  その仮説の予測に反することができ、なおかつ実際に反する検証は、その仮説の反証とみなされる。    その仮説に反することができるが実際には反しない検証は、その理論を裏づける。  次に、競合する諸仮説がどれだけ厳格にそれらの予測によって裏づけられるかを検証することによって、それらの仮説がどれだけよく説明をするのかを比較することが企てられる。  ~~~~~~~~~~~~  あとは この仮説法の理解いかんにかかっていると考えます。  あと またまた《悪は存在しない》が常識になるはずだという哲学が 生まれてくる。と何度も言っていることを忘れなければ 理解に苦しむことはないでしょう。      

noname#161051
noname#161051
回答No.59

> ★ おそらく『悪は現象として起きている』これは事実でしょう。どうやったって捻じ曲げることは難しいでしょう。しかし『存在はしていない。』というのが間違いではないでしょうか?   ☆ 悪は 現象として起きているのに 悪という存在としては どこにもない。――となぜ見るのか?  ウソをつくとき・イツワリをおこなうとき 《わたし》は 胸騒ぎを感じます。これは 動悸よ はげしくなれ もっと激しく鼓動を打ってくれと言って(または そのように自分で操作して) そうなるものではありません。生理的反応として 身とおそらく同時に心とが 勝手に動くわけです。  では なぜそんな反応が起きるのか?   ウソやイツワリは おのが心にさからうことだからではないか? やましさを感じるということは そうでないう場合もある。つまり やましくないわが心 その心の状態は このましい状態にあると考えられる。そしてこの状態を善とよぶとしてみる。  だとすれば ウソやイツワリは 善にさからう思いであり行為である。 ・まあそういう側面もあるでしょう。それは至極否定しません。 >つまり ウソやイツワリを悪と呼ぶなら 悪とは 善にさからう行為であり その善の損傷である。  こう言っています。  すなわち もとから存在するのは 身と心なる《わたし》であり ウソをつくとき胸騒ぎを起こす感覚反応である。つまり 初めから存在するのは 善である。  この善をそこなう行為 これが 悪である。 ・これも否定はしませんがそれだけではないと思います。自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるからです。いじめの問題なんかで言いますと加害者は『遊びのつもりだった』と言っています。当人の主観では『遊びのつもり』でも被害者や他の善悪や良し悪しが分かる人もしくは被害者の気持ちが察せられる人、違法行為が分かっている人であれば『酷い(「悪い」でも「悲惨」でも何でもいいです)行為を行った加害者』と認識できましょう。であれば『もとから存在するのは 身と心なる』から発せられた行為が悪行になる可能性も秘めていることになると思います。 >言いかえると もし悪が初めから存在するとすれば では 何で心は・というよりからだは動悸がはげしくなるというような反応を起こすのか? 存在するものから出たものが 何で逆の反応を生じさせるのか? それは 存在しないものが起こったからではないのか? つまり存在するもの――つまり善――を損なおうとするからではないか?  言いかえると 善という基礎の上に その善を思いそのまま行為する場合と そうではなくその善にさからって善を傷つける思いをいだきこれを実行しようとする場合とがある。これらは どちらもおのれの意志行為である。  わが自由意志は 自分の自然本性としての心のあり方に沿って行為を成すことも出来るし その心のあり方にさからって行為を為すこともある。  自由意志によって 善にしたがうか それともさからうか という善と悪とがおこなわれる。   しかも悪は 善の損傷行為であるなら 悪として存在してはいない。現象があるのみだ。 ・この文章に不合理性がある事に気がつきますか?『自由意志によって 善にしたがうか それともさからうか という善と悪とがおこなわれる。』という文面です。この文面は最後に『という善と悪とがおこなわれる。』と自ら悪の派生を肯定している。おおよそ物理的に悪というのは存在しないから悪は存在しないと言いたいのでしょうが、それは『快楽殺人を犯したいから見ず知らずの人を包丁で刺した』という現象をそれは物理的な現象に過ぎず悪ではないと言い放っているのと同等の事を言っているに過ぎないのではないかと思います。しかしご自身は『悪がおこなわれる』と自ら言っているわけだからその時点でご自身が悪を作ってしまっているわけでそこに気がつかないというのは吟味が足りないと思われますが・・・?  どうも辞書で調べてみたところ『存在』というのは『現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの』という意味も含まれているようです。なお且つ『悪』をwikiで調べたところ『悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である』と書いてあるということは『悪として存在してはいない。現象があるのみだ。』という原理は不合理性極まりない理屈になります。『悪という現象がある』のであれば『悪が存在しない』とはイコールにならないということになるでしょう。  結果的に私の考えを証明することになりましたね。 >☆ 悪をおこなうのは 《その人自身に纏わりついている悪》がではなく そうではなく その人の自由意志がです。善をおこなうのも この自由意志です。  わが心に従うか逆らうか――その意味で 善を成すか悪をおこなうか――は すべておのれの自由意志によります。この選択の自由ゆえ 自由意志とよぶようです。 なんですか?自由意志の主張ですか?その辺は否定しませんが論点がズレましたね。 >★ 人そのものは悪ではないとでも言いたい訳ですね、  ☆ そうです。少なくとも 善をも行ない得る存在です。 だからこれが定義論になるわけで・・・ > ★ 結果的には上記で述べたように纏わりついた性質を身にまとった人を隔離し更生させるというシステムを作っていくしかないでしょう。  ☆ その見解は 自分は悪を選択することは一切ないと言っていることにひとしい。と考えませんか? 考えません。 >同じ穴のムジナだと思いませんか。 ・無論『悪』の定義によっては同じ穴のムジナである場合もあるでしょう。 >善人が 部分的に悪を選択しこれをおこなう。こういう成り立ちではないでしょうか? ・だからそれが『悪』を定義してることになってるでしょ。(bragelonneさん的に) >《隔離し更生させる》などと言ったら まづ自分がその対象になるのが 落ちです。 ・どうでしょう?ならないと思います。あくまで私が思い描いている『悪』に対しては今のところ隔離し更生させられる程の悪行 なんてしてないつもりです。 なんですか?自分は《隔離し更生させられる》ような悪行でもするような人間という認識があるんですか?w >もうひとつは 決して相手の悪に同調してはいない場合。しかも なにがしか善つまりおのれの心に傷がついたと感じる場合です。この場合は 《もらい泣き》ではありませんが 要するに相手の悪を為したという意志行為が こちらに乗り移った場合を言います。 ・『要するに相手の悪を為したという意志行為が こちらに乗り移った』ことにはならないでしょうね。 その(相手の)行為もしくは外からの物理的現象によって善が損傷したという事になるんではないでしょうか? >★ ~~~~~  >主観における善の損傷 つまり おのれのウソによる悪 これによってしか 心は傷つけられることはありません。  そんなこともないでしょうwそれは偏見ですw  ~~~~~~~~~ ☆ という見方が 《偏見》でしょう。他人の悪行によって自分の精神が傷つくということは――世の中の言いぐさはどうであろうと―― ありません。 ・なんでですか?まともな反証が書かれていない。反論するなら正当性のある反証を書かないと反論になりませんよ。 >《あたかも傷ついたような状態になる》のであって ほんとうには傷を受けるというものではありません ・《あたかも傷ついたような状態になる》のならば傷ついた状態になっているのではないでしょうか? ・半分は定義論でしたね。ご自身に勝ち目はなさそうですね?wどうします?まだやりますか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 自分が良かれと思ってとった行為が悪行になっている場合もあるからです。  ☆ 悪行になった時点で あるいは要するに自分の主観においてやましさ反応を伴なって悪だと見なした時点で 悪とその行為が発生します。  それだけのことです。  相手に損傷を与えたとしても それを自覚していない場合は その主観においては悪はまだ発生していません。  そういう実践の視点をおもんじて 話し合いをすすめています。  ★ いじめの問題なんかで言いますと加害者は『遊びのつもりだった』と言っています。当人の主観では『遊びのつもり』でも被害者や他の善悪や良し悪しが分かる人もしくは被害者の気持ちが察せられる人、違法行為が分かっている人であれば『酷い(「悪い」でも「悲惨」でも何でもいいです)行為を行った加害者』と認識できましょう。  ☆ ですから 実践論としては 《本人が やましさ反応を起こしたとき》 そこで本人にとって悪が発生します。  ★ であれば『もとから存在するのは 身と心なる』から発せられた行為が悪行になる可能性も秘めていることになると思います。  ☆ 悪行になる可能性を否定したことはありません。善の損傷のほうをえらんだなら 主観にとって悪が発生し その実行によって 一般に悪行がおこなわれます。  ★ 『自由意志によって 善にしたがうか それともさからうか という善と悪とがおこなわれる。』という文面です。この文面は最後に『という善と悪とがおこなわれる。』と自ら悪の派生を肯定している。  ☆ そのとおりです。    ★ しかしご自身は『悪がおこなわれる』と自ら言っているわけだからその時点でご自身が悪を作ってしまっているわけでそこに気がつかないというのは吟味が足りないと思われますが・・・?  ☆ 《現象として起きる》と《それ自体で存立するかたちで存在する》とは 違うと言っています。  ★ どうも辞書で調べてみたところ『存在』というのは『現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの』という意味も含まれているようです。  ☆ そういう表現を用いる場合もあるということでしょう。  《やましさ反応》があることも ないことも 《現象》です。この現象としての善も悪も あると言っています。この《ある》を 《存在する》という言い方でもあらわす場合があります。それだけのことです。  ですが 悪は 存在ないし善としての基礎から派生するわけです。悪という存在があるわけではありません。善の損傷という存在が 初めからあるというわけではありません。    もしそういうことでないとすれば そのときは確かにほんとうに 人という存在について 善の要素と悪の要素とが互いに相容れない関係においてある。こういうことになります。  でもこうなると 存在論ないし本質論に入りますから ここでは実践論の方面にとどめておこうという方針で来ています。つまり やましさ反応で 善か悪かを捉えるということ。やましさ反応をおこすということは やましいものごとを やましくないという意味での善にさからうことと認識しているはずだと言っています。動悸がはげしくなることは 《やましくない善》をますます活かすようなことだとは見られないからです。  ★ なお且つ『悪』をwikiで調べたところ『悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である』と書いてあるということは『悪として存在してはいない。現象があるのみだ。』という原理は不合理性極まりない理屈になります。  ☆ なんでヰキぺに従わねばならないのですか? ヰキぺのその記事は ひとつに 主観にとっての悪とは何を言うのかの観点がうすい。もうひとつに 関連していますが 実践論としては それだけでは用を成さない。  つまり ヰキぺの記事を読んで 定義が分かったとは思われません。  ★ 結果的に私の考えを証明することになりましたね。  ☆ どこから? もし質問趣旨の行き方(方法)とは異なる行き方を提唱しているのなら それを明らかにするとよいでしょう。そうでなければ 質問趣旨の行き方に沿って 批判を述べるのがよいでしょう。  ★ なんですか?自由意志の主張ですか?その辺は否定しませんが論点がズレましたね。  ☆ やましさ反応は その無の場合の善か 有の場合の悪か いづれかを自由意志がえらぶのだと 初めから言っているぢゃないですか。何度言ったらわかるのですか。  ★ あくまで私が思い描いている『悪』に対しては今のところ隔離し更生させられる程の悪行なんてしてないつもりです。  ☆ ウソ・イツワリのようにやましさ反応のあるものは 悪だと言っています。この定義に従わない場合は 別の問い求めの方法を ご自分で提出してその説を明らかにしてからにしてください。  それとも ウソをついたことはないと言い張りますか?  ★ 『要するに相手の悪を為したという意志行為が こちらに乗り移った』ことにはならないでしょうね。  ☆ ミラーニューロンという現象があります。ですが 経験的に分からないというのであれば これは 触れないでおきましょう。(ほかのみなさんに読んでもらうためにということとします)。  ★ ~~~~   ★・・・そんなこともないでしょうwそれは偏見ですw   ☆ という見方が 《偏見》でしょう。他人の悪行によって自分の精神が傷つくということは――世の中の言いぐさはどうであろうと―― ありません。  ・なんでですか?まともな反証が書かれていない。反論するなら正当性のある反証を書かないと反論になりませんよ。  ~~~~~~  ☆ 《まともな反証が書かれていない》のは 先にはどちらですか? こちらは 前まえから 善の損傷を悪というと言ってるぢゃないですか。おのれの主観においてだとも付け加えていあす。それ以外に 損傷はないと言っています。定義からです。

noname#160792
noname#160792
回答No.58

人の悪:相互生成的でない関わり。自他を害すること 根っからの悪人はいないは他者を信頼するための言葉 人は人の心を傷つけるか傷つけないか →無力感を相手に与え続けると傷つけることになる(相手が信仰者でない場合)、相手に無力感が定着し、自己信頼感(自己効力感)や世界への信頼感が傷つく 信仰者の場合は信仰によって世界への信頼を得ているから、信仰を持つ限り人に悪さされても世界への信頼感は傷つかず、心(信仰心、世界への信頼感)を人に傷つけられることはないが、信仰者みずからが信仰を損ねると世界への信頼感や心は傷つく 信仰者でなかったり、発育過程で世界への信頼感を獲得し損ねていたり、無力感による心の退行から世界への信頼を減らしたりしていると、その人の心は傷ついているとか、傷つきやすい(感傷的)とか、傷つけられうる、傷つけられた、傷ついたと言えそう 傷ついてるのに自覚ないは心の麻痺。麻痺という避難のしかた 心が傷つくのは信仰心がないからだと言って信仰者たれと言うのはせっかちかお節介かよい助言 宗教の場合は発達段階1の世界への信頼を信者に与えることあるらしいが、同時に不安を与えたり2段階目以降の自律や自発性を損ねたりしそう なんらかの神への信仰心がなくても心の発達が順調で退行がないなら世界への信頼は人生初期に授かるという 自分は退行しているので世界への信頼感が少ない 世界を信頼する(性善説)のも信頼しないのも賭け事のような主観からのまぼろし、幻想的希望か幻想的不安、建設的なのは世界への信頼を持つほう 存在と悪を分ける見方:信念対立解消の一歩目 構造構成主義(西條剛央:イケメン)現象学的還元・エポケーによる対立感のクールダウン→対立する相互の信念を解明→より生産的な目標を設定・共有→目標達成方法を生成し漸進→対立解消・和解 信念でなく感情の対立はエポケーできるか →あらゆる感情(嫌悪感、嫉妬、喜びなど)の元は無力感 過剰な無力感が減れば対立感情も減る 発達心理学。エリクソンの発達段階 乳児期(段階1)……世界に対する信頼の獲得(≒信仰か)、と不安の獲得(過度なら悪性発達) 幼児期…自律・自発性の獲得、また羞恥心・罪悪感の獲得(過度なら悪性発達) ←性善感覚や善悪判断は乳幼児期の健やかな発達による n段階:自己有力感と非力感(限界)の獲得 悪:悪性発達。生き生きした関わりを阻み、発達過程にある諸課題クリアを妨げ、いちど発達した心を退行させるような、そんな作用をもたらす事やら方法やら 悪いひと:心理の発育が悪いひと。心理が発育した後に退行しているひと。そして他者の生成性や心理発達を阻んだり、無力感を多く与えて退行させたりするひと 無力感:過度な感情の元。怒りや嫉妬の元。退行や依存や感傷、被害感の元。自己評価のずれ、卑屈さや誇大感の元。信仰心の元か 無力感が定着→感情や関心の低下→分節化対象を喪失→あほになる→廃人化 さみしいときは否定的ストロークでもほしい 世界への信頼が少ないと、そんな世界であることを確認するための行為やストロークを多用する癖がつき、孤立しつづける いじめ…相手に無力感をすりこむ。相互生成的ストロークでない一方的な関わり。暴力(相手とその言葉をみとめない) 生産的なことば(発達的。成熟的。善的)←…生成的な会話>内省>議論・討論>一方的主張・盲信・罵倒・あざけり(いじめ)…→非生産的(悪性的)らしい 無力感からの回復のしかた 抵抗:相手に無力感を返す(生産性低) 避難:無力感を与える相手から距離をとる(世界への再信頼,弱化した心の再発達)助けを呼ぶ:問題の共有→目標と方法をさぐる(対処可→不安の減少) 認知:自他に無力感を与える癖に気づく・しらせる 仲間:身近な人との親密さ 恋:ひととの親密さ 婚 活:相互生成的かかわりあいへの漸進

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  人の悪:相互生成的でない関わり。自他を害すること  根っからの悪人はいないは他者を信頼するための言葉  ~~~~~~  ☆ 《関わり》が 《相互生成的》である・でないとは どういうことでしょう?  わたしの定義を示しておきます。  ○  ~~~~~~  1. 人と人とのカカワリは じつはそれぞれの自然本性において《関係性》として存在している。はたらいいている。と見ます。  2. 人は 特にそのやはり自然本性の内の《自由意志》という行為能力ゆえに 社会的に独立した存在である。たとえば共同自治の係りを選出するとき おれの代わりに判断し選択してくれというようなことは 無効です。おのれ独りの意志行為でなくてはなりません。その意味で 社会的に独立しています。(社会の中において 独立しています。外においてではなく です)。  3. しかもこの《社会的な独立性》は じつは・じつに 互いにカカワリを持っています。たとえば本人の自由意志による選択とその意思表示を俟ってでなければ 本人の投票は有効とならない。という事態を ほかの人びとが その本人とともに同時に 共有しています。意志自由という存在のあり方としての特徴を みながそれぞれ持つと同時にそれだけではなく 他人の意志自由をめぐって ほかの皆が それを侵してはならないというカカワリを すでに生まれたときから 持っている。  4. こう考えるなら 人と人とのカカワリは 自然本性において・つまり生まれたときから 天与のものであり また言葉をつうじておのおのが自覚するという意味では 自然生成的なことがらである。こう考えます。  ~~~~~~~~~  ○ 《相互生成的》とは この《自然生成的なカカワリについて 自覚すること。また互いにその自覚を確認しあうこと》という意味でしょうか?  (ここは あとで見直して こういう解釈を得たものです)。  ★ 自他を害する  ☆ この《害する》という言葉も定義しておくとよいと思われます。  ★ 根っからの悪人はいないは他者を信頼するための言葉  ☆ そうですが・そうなのですが 実際には 自分を信頼しえない・つまり自信がないときのための言葉だと考えています。《悪は存在しない》というのも 自分に信頼をおけるようにという命題だと思います。  ★ ~~~~~  人は人の心を傷つけるか傷つけないか  →無力感を相手に与え続けると傷つけることになる(相手が信仰者でない場合)、相手に無力感が定着し、自己信頼感(自己効力感)や世界への信頼感が傷つく  ~~~~~~  ☆ たぶん《無力感》またはそれを与えるというのは 人と人とのマジワリにおいて 途中の一過程であり一段階だと見ますが どうでしょう?   ほんとうに無力感をあたえただけで その場のマジワリはそれとして完結したのか? それはないと思うのですが。・・・  言いかえると けっきょく無力感を与えられたとしても 何らかの悪にこちらがかかわっていなければ 傷つくことはない。かかわっていたなら その悪とのかかわりによってこそ――つまり無力感によってではなく―― 傷つくことがある。こう思うのです。    言いかえると  ★ 無力感が定着し  ☆ というのは まづない。こう考えます。宙ぶらりんのまま推移すると思うという意味です。  ただし 無力感を自分が自分に定着させようとしたのなら  ★ 自己信頼感(自己効力感)や世界への信頼感が傷つく  ☆ のだと考えます。あくまで 傷つくのは みづからの悪の選択とその実行によるという見方です。  次の見方に すべて《みづからによるその悪の選択と実行》という要因を添えてみれば そのまま 事実として受け留められます。  ★ 信仰者でなかったり、発育過程で世界への信頼感を獲得し損ねていたり、無力感による心の退行から世界への信頼を減らしたりしていると、その人の心は傷ついているとか、傷つきやすい(感傷的)とか、傷つけられうる、傷つけられた、傷ついたと言えそう  ★ 傷ついてるのに自覚ないは心の麻痺。麻痺という避難のしかた  ☆ これは 《自由からの逃走》という言い方で捉えられているかと思います。自由意志による選択と実行において 悪をえらんだ場合に傷つくのであると知ったあと もうこの選択をしたくないと考える。自由意志をはたらかさないと決心する。といった逃避。  ★ 心が傷つくのは信仰心がないからだと言って信仰者たれと言うのは  ☆ いいえ。心が傷つくのは おのれが意志によって悪を選択したからです。それ以外にありません。そしてそれは 信仰以前の問題です。悪をえらぶという意志行為は 経験行為です。  ほかの覚え書きの箇所については 留意しました。  ★ 無力感からの回復のしかた  ☆ それは 相手に あなたは人に無力感をあたえる人ですねと言う。ことです。  

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.57

#52です。 すべての項目についていちいち反論してみたい気もしますが、どうも不毛な論議になりそうなので、絞ります。 触れなかった点に関して、ここだけは必ず答えてもらわないと困る、とう箇所がございましたらお知らせください。 まず、念のために注釈しておきますが、 「 というのは当たり前なのであって、善悪は相対的なものである、と言っているだけです。」 というのは、 「 というのは当たり前なのであって、善悪は相対的なものである、と(ブラジュさんは)言っているだけです。」 という意味です。 > 3-3. それでも   ★★(回答No.49) ただ、ブラジュさんが言っているのは、やましさに反応するリトマス紙しか人間は持っていないのだ、ということになると思いますから、それは違うだろう、と反論しているだけです。  ☆ これが  ★ 善悪は相対的なものである、と言っているだけです。  ☆ とともに述べられているというかたちです。 : a. 「 ★ 善悪は相対的なものである、と(いう面白くもなんともないことをブラジュさんは)言っているだけです。」という意味です。 これであればご納得いただけると思います。 b. 必然的に「それは違うだろう、と反論しているだけです。」のほうもご理解いただけると思いますが、 「ただ、ブラジュさんが言っているのは、やましさに反応するリトマス紙しか人間は持っていないのだ、ということになると思いますから、それは違うだろう、と反論しているだけです。(#49)」の直前の文を確認していただければおわかりになるでしょう。 『《やましさ》が悪のリトマス紙たり得ることは、むしろ賛同しますし、ひとつの視点の発見だと思います。 しかし、それは(本性の一環であるわけですが)属性としての善があるわけですから、そこに反応するのはむしろ自然だ、ということでしょう。』 と述べています。 つまり、『《やましさ》が悪のリトマス紙たり得る』という点では賛同するが、ただ、本性が悪のリトマス紙だけより持っていない、という点に関して反論している【だけ】である。 と言ったわけです。 矛盾でもウソでもないはずです。 > 3-4. ちなみにこのとき 別の反論も出されています。  ★ 「やましいとなれば 単純に悪」とのことですが、「やましい」という感覚はどこから、なぜ生まれるのか、という問題を置き去りにしたまま論議を進めても意味がないだろう、ということです。  ☆ そういう実践論だと言っています。この《リトマス試験紙》は それしかないと言っています。 : どうも意味不明ですね。 「>この《リトマス試験紙》は それしかない」という断定が実践論なのですか。 わたしは、 『「やましい」という感覚はどこから、なぜ生まれるのか』を問題にしないといくら論議しても砂上の楼閣になりませんか、と言っているはずです。 どこが「>そういう(実践論)」なのかわかりません。(ウソをついてはいけません、と言わないのはわたしの謙虚さゆえです) > ☆ それぞれの善やそれぞれの悪が 主観にとってのそれらとして決まる。そして   ★ それを前提にして何を論じようとするのか、その意図が理解できない、と言っても良いでしょう。  ☆ 《悪は存在しない。善の損傷として起きるその現象があるのみだ》という命題を 人びとが共有すること。これをめざしている。と言っています。  《論じようとする》のではなく そういう実践論だともすでに述べています。 : それを目指すとどうなるのかが、よくわかりません。 《悪人という人間は存在しない。無造作に投げられたコインが、たまたま裏に出ただけである。であるから、人間は無造作であってはならない。しかし、無造作な環境はそこら中に転がっている》 というのはいかがですか。 > ☆ だから《主観的な善ないし悪》だと初めから明らかにしています。  しかもこの主観があるからこそ 《悪は存在しない》という命題が活きて来るのです。それを見ようとしない。それについて考えようとしないだけです。  いえ 見ようとせず考えようとしなくても そういう立ち場からの回答もあり得ます。かまいませんし むしろ歓迎です。 ところが ここへ来て 《何々と言っているだけです》という逃げが現われました。  撤回するのなら ぜんぶ取り下げるのが ふつうの行き方です。 : わたしとしては、《主観的な善ないし悪》を前提とした論議から一体何が得られるというのでしょうか、ということをずっと述べてきたわけですから、 「> しかもこの主観があるからこそ 《悪は存在しない》という命題が活きて来るのです」 というのは、全く無意味な言葉としてより響きません。 《何々と言っているだけです》が「逃げ」であるという点に関してはブラジュさんの誤解であるということ。これは、上の説明でご理解済みだと思います。 >  6-1. おそらく それでも承知しない場合は 世間で《悪》とよぶものごとが それでもあるぢゃないかという議論を持ち出してくるかも知れません。しかも かんたんです。おのれの主観にとっての悪は おのれがやましさ判定で悪としたそのコトであり それだけだという理解が得られていれば よいわけです。 : 「やましさ判定」の実態は問わないということでしょうから、「おのれがやましさ判定で悪としなければ全て善」という理屈になると思いますが、そこから何が生まれてくるのか理解に苦しみます。 なので、 > 世間で悪とよぶことがらは その主観による判定に合致しているかどうか。これを吟味検討すればよいということです。  しかも 合致していたとしてもその《悪》は 善の損傷として起きているだけであって 悪なるものは存在していないという了解がすでにある。こういうことです。 : という論理の有意義性も理解できません。 方便と真理の混同があるような気がしてしまうわけです。 具体例で展開していただくとわかりやすくなると思うのですが、他に特になければ今回はこんなところでしょうかね。 ブラジュさんも同じようなことを繰り返すのはお疲れになるでしょう。       

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  つまり、『《やましさ》が悪のリトマス紙たり得る』という点では賛同するが、ただ、本性が悪のリトマス紙だけより持っていない、という点に関して反論している【だけ】である。  と言ったわけです。  ~~~~~~  ☆ 《反論》の内容は どこにありますか? 結論を述べているだけではないですか?  善が基礎にあり その基礎の上に善の損傷という意志選択もある。そしてその損傷の場合は やましさ反応がある。これは 悪のことである。  このリトマス紙にかんするかぎり これだけだと言っています。  それに対する反論ってありましたか?  リトマス紙の作用するときより以前の心的現象やあるいはその以後における社会行為となったときの結果やについて うんぬんした議論しかなかったと思います。  ですから 善悪が相対的なものだと言っているだけではなく 《悪は それ自体として存立することはない。ただ善に対する判断とその行為の際に 善の損傷として現われるのみである》ということをも言っています。(こんなことを どうして何度も言わねばならないのでしょう?)  ★ 『「やましい」という感覚はどこから、なぜ生まれるのか』を問題にしないといくら論議しても砂上の楼閣になりませんか、と言っているはずです。  ☆ 強いて言えば 自然本性の中からであり その要素を特には善と呼んでいる。そしてそのように経験事態を捉えて実践論の中に採り入れる。のみである。という意味です。  どうして この意味が伝わらないのでしょう?  ですから 砂上の楼閣かどうかは どうでもよいという意味です。善悪は相対的なものだと言っていますから それが砂上の楼閣であるという意味にもなるだけです。無常という意味のことです。  ★ ~~~~  《悪人という人間は存在しない。無造作に投げられたコインが、たまたま裏に出ただけである。であるから、人間は無造作であってはならない。しかし、無造作な環境はそこら中に転がっている》 というのはいかがですか。  ~~~~~~~  ☆ これは おかしい。つまり中身のことはまづ措いておいて こういう議論を添えることがおかしい。  あなたは この実践論としての善悪論が 無意味だと言おうとして《砂上の楼閣》だとおっしゃったのでしょう。だったら この実践論の要素を自分の見解に採り入れて 議論を組み立てるのは おかしい。  ★ ~~~~~  わたしとしては、《主観的な善ないし悪》を前提とした論議から一体何が得られるというのでしょうか、ということをずっと述べてきたわけですから、  「> しかもこの主観があるからこそ 《悪は存在しない》という命題が活きて来るのです」  というのは、全く無意味な言葉としてより響きません。  ~~~~~~~   ☆ どう無意味なのでしょう?  《悪は 存在しない》という命題は まだ必ずしもふつうに常識となってはいないと受け取っています。それゆえ質問をしているのですが ですから 人びとの常識を見直すのによい。はずです。  それとも すでに常識となっているとお考えですか? もしそうなら なぜ初めに 《悪は存在しない》ということなら すでに常識ですよとひと言言わなかったのですか?  ですから おかしな批判の仕方であると述べています。  ★ 「やましさ判定」の実態は問わないということでしょうから、  ☆ これは 異なことをおっしゃる。いまごろ・いまさら こんなことを言っているのですか。  やましさ判定だけが問題だと言っているぢゃないですか。その以前の 闇雲な欲動のうごめきも その以後の行為の結果としての社会関係の中における意味合いも 別としうる。と言って来ているぢゃないですか。  《やましさ判定》の実態こそを問うているのです。  どう考えれば  このように筋を逸れて解釈ができるのでしょう。  あとは 個々の論点としては取り上げなかったのですが 特には《悪は存在しない》という命題が常識になっていないことをめぐる問題 これにかかわっています。ので 細かい再反論は省略します。  

noname#161051
noname#161051
回答No.56

>★ はっきり言って状況によりますし人にもよるでしょう。  ☆ 《人による》というところ これを《主観的な善あるいは悪》というかたちで 捉えることを考えたものです。 なるほど、そこを解いているということだということですね。あまり抽象的に書かれると何を言わんとしてるのか分からないです。正直もっとはっきりと書いたほうが話は早いと思いますが・・・ >★ 『具体的にふつうのコミュニケーションの場で 悪と受け留めた行為の内容について こちらはどう対処するか』ということですね、  ☆ これを出したのは 質問者の結論を明らかにしてしまうならば こうです。  《悪は 存在していない》と見るので たとえ悪だと見なした行為についても その主体つまり相手の存在は 善であると捉えるということ。こういう認識の問題を言おうとしています。  言いかえると ことわざにもあります。  《罪を憎んで 人を憎まず》。つまりこれは 悪は現象として起きているが 存在はしていない。存在しているのは 善としての人である。ということを示しているのではないか? というようなことです。  それならばおそらく『悪は現象として起きているが 存在はしていない。存在しているのは 善としての人である。ということを示しているのではないか?』というところに何かしらトリックもしくは間違いが潜んでいると捉えるべきでしょう。言葉の組み合わせに踊らされていると事実は見えてきません。  おそらく『悪は現象として起きている』これは事実でしょう。どうやったって捻じ曲げることは難しいでしょう。しかし『存在はしていない。』というのが間違いではないでしょうか?ご自身が証明してますが、主観が『悪行』と感じる場合『《罪を憎んで 人を憎まず》。つまりこれは 悪は現象として起きているが 』とご自身が悪という定義を自らなさっているわけで、そこから導いても悪の存在を肯定していることになります。私なりの解釈で言うと多数だろうが少数だろうが1人だろうが主観的に悪行と感じる悪行が派生する可能性は十分にあるが無くすのも十分可能性だといっているのです。  悪行を行っているのは人ですからその人自身に纏わりついてる悪と言う性質により引き起こったと考えるのが自然だと思います。なのでその人に纏わりついた悪を撲滅し被害者の悔しみや禍根を取り払う上でその人に罪を着せるのは当然だろうと考えます。 >《悪は 善の損傷行為である》  →《悪は 存在しない》 というのは人そのものは悪ではないとでも言いたい訳ですね、まあそれはなんといいますか纏わりついた性質の人を悪と呼ぶか呼ばないかの話であって、結局定義論もしくは水掛け論で終わる話です。  >→《われわれは 人を愛し悪を憎むのであって 悪を憎むゆえに人を憎むのであってはならず 人を愛すゆえに悪を愛すのであってもならない》。  というような認識と具体的なじっさいの態度を言おうとしています。  結果的には上記で述べたように纏わりついた性質を身にまとった人を隔離し更生させるというシステムを作っていくしかないでしょう。 >★ この場合『避ける』というのを第一目標にすべきだろうと思います。あくまで『自己保身を第一優先しろ』と言っているわけです。  ☆ というような方針もあるかと思いますが そのことは《悪は存在しない》といった捉え方とどう関係するか。こういうところに問題を見て 問うています。 悪行は存在するんでしょ?ならば基本身の確保しなければいけないという話であって《悪は存在しない》というのを論破した上記述においての対処論です。 >★ うそをついて人を傷つけた場合  ☆ 他人のウソが ほかの人の心を傷つけるということは そのほかの人が 同じようにウソという悪に同調しないかぎり あり得ません。 この辺はまあ遠からずといった見解です。 >ウソをつかれて約束を破られたといった場合に 迷惑を受けることになりますが 精神が傷つけられるということは あり得ません。  たしかにタフな人もいればいろんな人がいますからbragelonne さんの感覚ではそうだということでしょう。しかし傷つけられる人もいれば傷つけられない人もいるというのが現実だと思います。 >主観における善の損傷 つまり おのれのウソによる悪 これによってしか 心は傷つけられることはありません。 そんなこともないでしょうwそれは偏見ですw ということころでよろしでしょうか、正当な反論でもなんでもあればいつでも反論してくれて結構ですが正当性が無い場合はそれで終わりにさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ おそらく『悪は現象として起きている』これは事実でしょう。どうやったって捻じ曲げることは難しいでしょう。しかし『存在はしていない。』というのが間違いではないでしょうか?   ☆ 悪は 現象として起きているのに 悪という存在としては どこにもない。――となぜ見るのか?  ウソをつくとき・イツワリをおこなうとき 《わたし》は 胸騒ぎを感じます。これは 動悸よ はげしくなれ もっと激しく鼓動を打ってくれと言って(または そのように自分で操作して) そうなるものではありません。生理的反応として 身とおそらく同時に心とが 勝手に動くわけです。  では なぜそんな反応が起きるのか?   ウソやイツワリは おのが心にさからうことだからではないか? やましさを感じるということは そうでないう場合もある。つまり やましくないわが心 その心の状態は このましい状態にあると考えられる。そしてこの状態を善とよぶとしてみる。  だとすれば ウソやイツワリは 善にさからう思いであり行為である。  つまり ウソやイツワリを悪と呼ぶなら 悪とは 善にさからう行為であり その善の損傷である。  こう言っています。  すなわち もとから存在するのは 身と心なる《わたし》であり ウソをつくとき胸騒ぎを起こす感覚反応である。つまり 初めから存在するのは 善である。  この善をそこなう行為 これが 悪である。  言いかえると もし悪が初めから存在するとすれば では 何で心は・というよりからだは動悸がはげしくなるというような反応を起こすのか? 存在するものから出たものが 何で逆の反応を生じさせるのか? それは 存在しないものが起こったからではないのか? つまり存在するもの――つまり善――を損なおうとするからではないか?  言いかえると 善という基礎の上に その善を思いそのまま行為する場合と そうではなくその善にさからって善を傷つける思いをいだきこれを実行しようとする場合とがある。これらは どちらもおのれの意志行為である。  わが自由意志は 自分の自然本性としての心のあり方に沿って行為を成すことも出来るし その心のあり方にさからって行為を為すこともある。  自由意志によって 善にしたがうか それともさからうか という善と悪とがおこなわれる。   しかも悪は 善の損傷行為であるなら 悪として存在してはいない。現象があるのみだ。  ★ 悪行を行っているのは人ですからその人自身に纏わりついてる悪と言う性質により引き起こったと考えるのが自然だと思います。  ☆ 悪をおこなうのは 《その人自身に纏わりついている悪》がではなく そうではなく その人の自由意志がです。善をおこなうのも この自由意志です。  わが心に従うか逆らうか――その意味で 善を成すか悪をおこなうか――は すべておのれの自由意志によります。この選択の自由ゆえ 自由意志とよぶようです。  ★ 人そのものは悪ではないとでも言いたい訳ですね、  ☆ そうです。少なくとも 善をも行ない得る存在です。  ★ 結果的には上記で述べたように纏わりついた性質を身にまとった人を隔離し更生させるというシステムを作っていくしかないでしょう。  ☆ その見解は 自分は悪を選択することは一切ないと言っていることにひとしい。と考えませんか?  同じ穴のムジナだと思いませんか。それゆえにも 悪は存在しない。人は 善人と悪人とがあるのではなく みな善人である。善人が 部分的に悪を選択しこれをおこなう。こういう成り立ちではないでしょうか?  《隔離し更生させる》などと言ったら まづ自分がその対象になるのが 落ちです。  ★ ~~~~~~~~~  >ウソをつかれて約束を破られたといった場合に 迷惑を受けることになりますが 精神が傷つけられるということは あり得ません。  たしかにタフな人もいればいろんな人がいますからbragelonne さんの感覚ではそうだということでしょう。しかし傷つけられる人もいれば傷つけられない人もいるというのが現実だと思います。  ~~~~~~~~~~~  ☆ ここは 大事なところです。  ふたつの場合があります。  ひとつは ほんとうに悪を為す相手だけではなく 自分も同じ悪をおこなったかまたは想い描いていたという場合。多かれ少なかれ 悪のむくいを自分にも受けます。つまり善の損傷が みづからに対してあったと言わねばならない場合です。  もうひとつは 決して相手の悪に同調してはいない場合。しかも なにがしか善つまりおのれの心に傷がついたと感じる場合です。  これは どういうことか?  この場合は 《もらい泣き》ではありませんが 要するに相手の悪を為したという意志行為が こちらに乗り移った場合を言います。あたかも――あたかも――相手と同じように自分も悪を思い描いたと思ってしまった場合 《もらい傷》なる仮性的な現象が起きることがあります。  よって  ★ ~~~~~  >主観における善の損傷 つまり おのれのウソによる悪 これによってしか 心は傷つけられることはありません。  そんなこともないでしょうwそれは偏見ですw  ~~~~~~~~~  ☆ という見方が 《偏見》でしょう。他人の悪行によって自分の精神が傷つくということは――世の中の言いぐさはどうであろうと―― ありません。  先ほどのふたつの場合につけ加えるとすれば それは 親しい人が悪行をおこなったと知ったばあい たしかにその親しき人の心を思いやって あたかも自分も傷ついたような状態になる。こういう場合です。  これら以外には ないでしょう。つまり これらであっても 《あたかも傷ついたような状態になる》のであって ほんとうには傷を受けるというものではありません。傷がつくのは 自分がウソ・イツワリを為したときのみです。

回答No.55

確かに御指摘の通りでして、『禿げた現仏国王』の問題と同じく、 自己完結的な粗悪性(負け犬)は存在しないでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%80%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ 負け犬 (dog) (成長率:低、占有率:低): ~~~~~   市場占有率が低く、今後の市場成長率も見込めないため撤退が検討されるべき分野。製品ライフサイクルにおける成熟期 - 衰退期に属する。  ▲ 例え「負け犬」や「問題児」(problem child) (成長率:高、占有率:低)に分類される分野であっても、「花形製品」(star) (成長率:高、占有率:高)や「金のなる木」(cash cow) (成長率:低、占有率:高)のシェア維持に貢献する分野もあるので、単純に区別できない。例えば補完財など。  ~~~~~~~~~~~~  ★ 自己完結的な粗悪性(負け犬)は存在しないでしょう。  ☆ たぶん この場合の良質や粗悪などの判定は それぞれの主観によって違いがあるということを言おうとしているのでしょう。  言いかえると あとは 〔単なる主観をはなれて〕組織としてどういう判断をし何を選択するかという問題に帰着しましょう。  となると 主観にとっての善や悪とは つながりがありつつも 一たんそれは断ち切られるかたちになると思われます。  組織が   ★ 自己完結的な粗悪性   ☆ をそのひとつの事業に認定することはあるのでしょうか?  あっても それを それでも活かして使おうという拾う神もあると言うべきでしょうか。きちんとした解があたえられていましたら おしえてください。

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     悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。  だから 悪は ない。存在しない。  善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。  またその傷つける行為のことである。  善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  これを問います。

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 善と悪についての問答

    善と悪についての問答   問う人:  善とは何や。 「人の道」:   善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人:   では悪とは何や。 「人の道」:   悪とは善の対極にあるもんや。  つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人:   偽るとはどういうことや。 「人の道」:   偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人:   なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」:   偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人:   如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」:   そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人:   最大の悪とは何や。 「人の道」:   最大の偽りや。 問う人:   最大の偽りとは何や。 「人の道」:   神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人:   なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」:   だから言うたろ。  見えんもんを見えると言うことは偽りや。  聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。  知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」:   どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人:   はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」:   では最大の悪が何かも分かったか。 問う人:   はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」:   皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。      

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。