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「零」を「れい」と呼ばず「ゼロ」と呼ぶ文化
国語のカテゴリーにしようかとも考えましたが、意見を募ることになると思いましたので、アンケートカテゴリーに投稿させて頂きます。 何年か前の日本映画に、「北の零年」というのがありました。それを、ナレーションでは、「きたのゼロねん」と呼んでいたのに違和感を覚えました。 いろいろ考えて、「0」を「ゼロ」と呼ぶ事例を思い起こしてみました。 (上の「きたのゼロねん」を(1)として) (2)電話番号を伝えるとき 「ゼロ・きゅう・ゼロ・…」 (3)旧日本軍の「零式艦上戦闘機」の略称 「ゼロせん」 (4)「10の0乗」 「じゅうのゼロじょう」 (これは学校の先生が言っていました) ほかにも事例はあるかもしれませんが、上の四つで考えてみたいと思います。 【(2)の場合】 音声だけで間違いなく相手に伝えるために、 「れい・きゅう・れい・…」 ではなく、音がはっきりと異なる 「ゼロ・きゅう・ゼロ・…」 と発音することを意図しているものと考えられます。これは、飲食店、たとえば牛丼屋さんで、「大盛り二丁」を、「おおもりにちょう」では、騒がしい店内で「いっちょう」と間違える恐れがあるので、区別するためにわざわざ「ふたちょう」と呼ぶのと同様と思われます。 また、宝くじの当選番号をテレビで発表するときに、十の位が「2」の場合、「にじゅう」ではなく、「ふたじゅう」と呼ぶのも同様と考えられます。 このように、はっきりと識別させるために、「0」を「ゼロ」と発音する、という場合があります。 【(3)の場合】 これは、私の知る限り、戦争中は、「敵性語を禁止する」ため、我が国では「ゼロせん」と呼ばず「れいせん」と呼んでいたはずであるが、相手が“zero fighter”と呼んでいたことから、戦後「ゼロせん」の呼称が定着したものと認識しています。 そこで、(1)と(4)の事例について考えてみますが、これらは、おそらく(2)の事例と同様に、はっき りと「0」であると識別させるために (1)「きたのゼロねん」 (4)「じゅうのゼロじょう」 と呼んだのだと思われるのですが、そうすると、「零」(れい)という日本語の存在価値はどうなるのか、というのが、私の違和感の根源となっていることと思われるのです。 長々と何を言いたいかと結論を申しますと、「零」を「れい」と呼ばず「ゼロ」と呼ぶことは、大げさなようですが、日本語の文化の衰退の一つである、 「北の零年」 は 「きたのれいねん」、 「10の0乗」 は 「じゅうのれいじょう」 と呼ぶべきではないか、というものです。 (「れいじょう」は「礼状」「霊場」「令嬢」などの同音異義語との区別のためかもしれませんが) 日本語固有の「零」を本来の「れい」と呼ぶのも、繰り返し、大げさなようですが、日本語の文化を守ることではないか、小学校の国語と算数の時間に、「零」「0」は、 「日本語では、『れい』と呼びますよ。ただし、電話のときなどの場合には、わざと特別に『ゼロ』と呼ぶこともありますよ」 と余談として教え、正しい日本語を認識させることが必要ではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。 この件以外にも、例えば昨今の歌謡曲の歌詞の中に、演歌でもない限り、必ずと言っていいほど英語が混じることなどを、なげかわしく思っています。 「日本人なら日本語の歌を作れ」 と、心の中で思いますがいかがでしょうか。 「…しようぜBABY」 などと聞くと、うんざりするのは私だけでしょうか。 「恋はMYSTERY」 なんかも、「百歩譲っても、日本の字で『ミステリー』と書いてくれ」と思ってしまいます。 「きたのれいねん」 「じゅうのれいじょう」 と、堂々と言って欲しいなあ、と思います。 お暇なときにでも、ご回答ください。
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- bardfish
- ベストアンサー率28% (5029/17766)
質問やお礼を見る限り、貴方は知識が無さすぎに感じます。 「文化を大切に」といいつつ、歴史上日本語がどのように変化してきたかまったく理解していない様子。 そもそも、日本の文字って中国から伝わってきた漢字が起源。 かなやカタカナは発音から抽出した漢字を略したもの。だから同じ読みのかなには何種類ものあて字があった。 もともと、日本語というのは「あて字の文化」なんです。 ※この辺をかいつまんで理解したいのなら「とめはねっ!」という漫画のかなの書編以降を読んでみてください。 「いろは詩」が赤穂浪士のことを指しているなんて解説も面白いですよ。 だから「ぜろ」とか「れい」のどちらが正しいか。なんて議論は文化という点で言えば不毛で、むしろ文化を蔑ろにしていることにもなりえます。 この質問の本質は、どこかの領土問題でいイチャモンをつけているK国やC国の理論と同じ(笑) 歴史の理解に乏しい、自分の知識が全て、もしくは自分の考えが絶対正しいんだという思い込みだけの暴論でしか無い。 >「恋はMYSTERY」 >なんかも、「百歩譲っても、日本の字で『ミステリー』と書いてくれ」と思ってしまいます。 これって旧日本帝国軍がやった敵性語の禁止にも通じる考え方じゃないですか?(笑) そういう考え方が広がると、貴方の意図とは関係ないところで差別や虐待につながっていくこともありえます。 帝国陸軍は皇王の発した言葉を曲解して「お国のため」と一般兵士を鼓舞して戦争へと突入していったのです。 「質問と前世関係無いじゃん」と思うかもしれませんが、言葉が少しでも足りなかったり自己満足なは告げ゛んだと、それを見た人が自分に都合のいいように曲解してしまう。という点では類似点があるはずです。 つまり「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ということです。 貴方は愚者ですか?賢者ですか?
- dogday
- ベストアンサー率29% (2313/7949)
日本文化の崩壊の質問って、一番抜けている知識があります。 それまで体系化されていなかった日本語の口語と文語を一致させたのは、明治時代の言文一致運動であって、固有の日本文化崩壊後に作られた常識であるということ。 日本古来の読み仮名や当て字は、音訓にとらわれず非常に自由。 ゼロ問題は、軍隊の数字の読みが通信用語を採用して、123を海軍が「ヒト・フタ・サン」、陸軍が「ヒト・ニ・サン」の違いがあり、0をマルまたはジュウと呼び、ゼロともレイとも使わない事に端を発し、現代の自衛隊もそのままこの読み方をしています。 零式艦上戦闘機(レイシキカンジョウセントウキ)のゼロもレイも使わない軍部内の略称は「レイシキ」です。 開発中から軍部内でも報道でも愛称は「ゼロセン」でも「レイセン」のどっちでも呼ばれていました。戦後に変わった訳ではない。 で、この日本軍の数字の読み方は、明治政府がフランス式軍隊を採用した最初からあって、言文一致運動は明治20年ごろなので、教育勅語以前のハナシ。 言文一致運動の弊害として、外来語も正確に書き分けるようになったので、陸軍が英語よみのセンチ、海軍がフランス語よみのサンチを採用して、戦中の新聞が陸海軍を正しく書き分けた結果、市民が逆にどちらでも良くなった。 言文一致の応用により、日本人は、野球のファールと故障のフォールを同じ意味に捉えられなくなったりもしました。 だから、相談者さんの指摘する日本語の文化の衰退は、大正期から戦前に限った正しい日本語の衰退であって、たった100年の日本語の話で、それ以前の日本語はどの読み書きをしてもかなり自由なので、 それって、 過去の日本語表記に対応できず、外来語にも適合できない、正しい日本語よみを固定化した戦中戦後の漢字教育のほうが、日本語の衰退に該当します。 この日本語問題、日本の家族制度の崩壊問題提起とも時期を一致します。 日本人的の昔は良かった的な、家族で食卓を囲む大家族制度は、大正時代にちゃぶ台が出てくるまで日本には食卓がなく、膳に一人前の食事を並べ、家長が食べ終えるまで家族は食事にありつけず、女は男と食事を別にするのが常識で、 家族で食事を一緒にする文化は、大正から戦後のこの時期にしか日本にはありません。 昔をどの時期に捉えるかで、正しい日本文化なんてないのです。
お礼
いろいろ豊富なご知見を、ありがとうございます。参考にさせて頂きます。 ご意見に対しては、半分賛成、半分反対です。確かに、明治時代、江戸時代、平安時代、等々、歴史の長い我が国は、その時代時代で文化様式が変化してきた、という点は、おっしゃる通りだと思います。それを、私が「衰退」と表現したのは、一面しか見ていなかったのかもしれません。 しかし、「正しい日本文化なんてない」には反対です。なぜならば、現代日本語にもその語源や由来というものがあり、基準とすべきものを確立する必要があると思うからです。 ある外国語を「日本語で何と言うか」と問われた場合に、「正しい日本語なんてない」なんて、恥ずかしくて言えないと思います。それが、従来の日本語にない概念、例えば「アイデンティティー」とか「セレンディピティー」などならば、カタカナの外来語を当てる、というので適切な対処であるとは思います。 しかし、「0」は現代日本語では「零」で「れい」と読み、「ゼロ」は英語の“zero”を語源とする外来語である、ということは、現代日本語としてきっちりと認識すべきだと思います。「北の零年」は、現代日本語では、「きたのれいねん」と読むのが基本で、「きたのゼロねん」というのは外来語混じりの読み方である、と認識すべきだと思います。そして、個人的な感情として、「きたのれいねん」と読んでほしい、という希望であり、未来の日本語で「ゼロねん」が基本になるかどうかは、「時代の流れ」ということになるのでしょうね。
- santana-3
- ベストアンサー率27% (3891/13901)
「ゼロ」は零(れい)の「カタカナ表記」とされ、英語の「zero」とは区別されているようですね。 また気象用語としては、「ゼロ」と「零」とで明確な違いがあり、降水確率0パーセントは「れいパーセント」と言い「ゼロパーセント」とは言いません。
お礼
ありがとうございます。参考にさせて頂きます。
- bardfish
- ベストアンサー率28% (5029/17766)
> (3)旧日本軍の「零式艦上戦闘機」の略称 についてですが、戦時中の新聞報道で「兵士たちにはゼ ロセンと呼ばれており」という記述が残っているが、ZERO Fighterという呼称が戦後定着したという説については根拠が確認されていません。 また、零戦が初めて新聞で報道された時も零戦のルビには「ゼロセン」とふられていました。 時代が遡るほど零戦「零」をレイと呼ぶ記述は少なくなるそうです。 そもそも連合軍が零戦に付けたコードネームは「Zeke(ジーク)」です。 連合軍将兵が「Zero(ゼロ)」と呼ぶようになったのは日本軍兵士の捕虜から広まったのではないでしょうか? ついでに、戦後に太平洋戦争関連の漫画に零戦が登場するとほぼ例外なく「ゼロセン」とルビがついてますよ。 いまでも当時の戦争漫画が当時のセリフのまま再販されていますからね。 撃墜王として有名な坂井三郎氏の語録でも「ゼロセン」となってます。 生き残った零戦パイロットや開発者達のインタビュー映像でも「ゼロセン」と言ってます。
お礼
ご回答ありがとうございます。あくまでも私の認識の限りですので、ご知見、参考にさせて頂きます。
- kqueen44
- ベストアンサー率43% (530/1214)
日本語の特徴として、「きたのれいねん」→「北の例年」とも聞き取れるからではないでしょうか。 同音異義語が多いというか、漢字次第で大きく意味が変わるからだと思いました。 「じゅうのれいじょう」→「銃の礼状」とも聞こえますし・・・音で聞くなら間違いではないですし・・・ 正しい日本語は必要だと思いますが、言葉は変わりゆくものなので、旧来の日本語に固執してはいけないと思います。 排他的・鎖国的であってはいけないと思います。
お礼
私と意見は違いますが、貴重なご意見だと思います。ありがとうございます。
- AVENGER
- ベストアンサー率21% (2219/10376)
3に関して。 >「敵性語を禁止する」ため、我が国では「ゼロせん」と呼ばず 零式艦上戦闘機に関しては当初のコードネームはZeke、三二型はHampでした。 ゼロ戦という呼び名も零戦と共に使われていましたので、禁止されていたわけではありません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
お礼
ご知見ありがとうございます。参考にさせて頂きます。
お礼
ご回答を承りました。 bardfishさんの蘊蓄については、参考にさせて頂きます。 >だから「ぜろ」とか「れい」のどちらが正しいか。なんて議論は文化という点で言えば不毛で、むしろ文化を蔑ろにしていることにもなりえます。 この辺り以降から、論理がつながらないように見受けます。なんで文化をないがしろにすることにつながるのですか? 無知であることは自慢できることではありませんが、私が知らなくてbardfishさんが知っていることもあれば、その逆もあるのです。ご回答文にあるような攻撃は、やめてください。 「零」を漢和辞典で引いたら、「ゼロ」と出てきますか? 学校では「れい」と教えるのではないですか? あなたが学校の先生だったら、テストで「零」の読み方の正解を何とするのですか? 子供に聞かれたら、何と答えるのですか? 私が問題にしたのは、そういう教科書的な基準なのです。ある基準があって、それに沿っているか外れているのかを考えることから共通の言葉というのが成り立つはずであって、その基準について問うたことに対して「どちらが正しいかなどという議論は不毛である」というのは、間違っていると思います。 それから、英語混じりの歌詞についても触れられましたが、私の意見が私の意図とは関係のないところで差別や虐待につながっていくこともありえるのですか? どうしてですか? 帝国陸軍が戦争へと突入したのは、それ以外にもあなたのご存じないいろいろな理由があったのではないですか? 話を無理やりこじつけないでください。 >「質問と前世関係無いじゃん」と思うかもしれませんが、 「前世」は「全然」と書きたかったのではないですか? >言葉が少しでも足りなかったり自己満足なは告げ゛んだと、それを見た人が自分に都合のいいように曲解してしまう。という点では類似点があるはずです。 「は告げ゛ん」は「発言」の間違いではないですか? 「曲解してしまう。」で文が終わったかと思ったら、「という点では」と続き、何とも現代日本語の文法を無視したよみづらい文章です。bardfishさんこそ、投稿する前に、ご自分の文章を読み返して欲しいものです。冷静になってください。そして、愚者だとか賢者だとか、挑発するのはやめてください。 私の意見に異議を唱えたいのは分かりましたが、礼を欠いてよいというものではありません。「K国やC国の理論と同じ(笑)」だとか(これは私への嘲笑です)、上記の挑発など、感情のままに礼を欠いた不完全な文章を投稿するのはやめてください。