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真の大乗は実現可能か

    大乗の善は小乗の悪 - 真の大乗は実現可能か。    

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

人の道さん、今晩は。 仏教は所詮、「己一個」の問題と思います。 むしろ「真の大乗」とは、なんでしょうか。

hitonomichi23
質問者

お礼

  >真の大乗 真の大乗とは何か。 英語でゆーと、Universal Truth 、人の道の言葉でゆーと「全宇宙的真理」、アルケー的にゆーと「宇宙の法則」とこーあいなります。  

hitonomichi23
質問者

補足

  >真の大乗とは何か。 常に実例で考えると良い。 例えば、核兵器は善か悪か。 小乗的、創価学会的 → 安全保障上必要と考えるが故に必要悪である。 大乗的、浄土真宗的 → 殺生は悪である。故に大殺生を行う核兵器は悪である。 このよーに完全に反対の結果が生まれることが分かる。

その他の回答 (5)

回答No.5

 独り言・・・(訂正しなくっちゃ。“彼”を“彼女”に。平静さを保ちつつ、でもヒステリックさが仄かに感じる文章はギャル!だね。人の道さんに他愛なく・・・・て、しまったところなんかもね。でも頭は相当良さそうだ。今は此のスタイルを維持して、ここ哲学カテの庭に“新風”をスパイラルのように吹かせてほしいと思う。刺激的だ!活躍を期待している。)  自身を完成させてこそ他者を正しく導くことが出来る、と思えば“大乗の善は小乗の悪、小乗の善は大乗の悪”と主張する精神はまだ、“完成”には至っていないと思う。  大乗とか小乗とか言っている段階は、まだ完全なる悟りの世界には入ってないように思う。  「悟り」の世界の入り口の手前で、悟ったように思ってしまっている人たちの“信仰に対する捉え方”だと思う。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.4

>南無阿弥陀仏と念ずるのであれば、「大乗の善は小乗の悪、小乗の善は大乗の悪」が何を意味するか、常にその答えを求めつつ念ずるのではないのか。 開祖を無視して、人の道教をつくっていますね・・・・^^; 正しい念仏のやり方は、南無阿弥陀仏と念ずるときは「南無阿弥陀仏」に集中することです。 納得できないならば、浄土真宗のお坊さんに確認してみてください。

回答No.3

 「大乗の善は小乗の悪・・・・」  俗な言葉に言い換えれば“あちらを立てればこちらが立たず”的な事のような・・・。  たぶん、どちらも“中途半端状態”なのでしょう。    次のような表現は、的を射ているでしょうか。   完璧な大乗は完ぺきな小乗から、完璧な小乗は完璧な大乗へ。  ☆ 独り言・・・(ここ、哲学カテでごく最近“群れのネットワーク”とかなんとか、小難しい質問があるけど、この質問者の別の質問の回答者に僕はなって、そこで“コケ”扱いされてしまった。当たり前だけど悔しくて、だから人の道さんがこの“群れのネットワーク”とか何とかの小難しい質問に、回答をしてあげて“彼”をギャフンとさせただけでなく、ベストアンサーをも捥ぎ取った。いや貢がせた。やったね!道さん。今僕は溜飲を下げる思い、なのだ)    

hitonomichi23
質問者

お礼

  > ☆ 独り言・・・(ここ、哲学カテでごく最近“群れのネットワーク”とかなんとか、・・・ 確かに群れのネットワークの質問者は少しばかし変なやつであるとは思うたが、・・・ “彼”なの?、わしはギャルであると思い回答しておったが、 あ~、分からん。  

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.2

>そしてその正しい教えはより高い視点からのみ与えられるものではあるまいか。 難しく考えすぎでしょう。 念行ならばただ念仏を唱えればよいし、座禅ならば只管打坐すればよいし、 観行ならばひたすら観察するだけでよい。 事実、どの開祖も大成した先達も「行に集中しその過程で確信を獲得し行に集中し、作為を捨て自然と涅槃に達しよ」と述べているはずです。 高い視点などなくても、正しい教えは「ただひたすら○○行をしなさい」で表されます。 そして、行のみで人格は向上します。

hitonomichi23
質問者

お礼

>高い視点などなくても、正しい教えは「ただひたすら○○行をしなさい」で表されます。 そして、行のみで人格は向上します。 それは違うと思う。 南無阿弥陀仏と念ずるのであれば、「大乗の善は小乗の悪、小乗の善は大乗の悪」が何を意味するか、常にその答えを求めつつ念ずるのではないのか。    

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.1

まず小乗というのは偏見に満ちた表現であり 上座部と言うべきということを指摘しておきます。 さて、「真の大乗」という表現が何を示しているのか不明ですが それが行の行い易さとすれば、念仏行というのは本当に簡単なのか? 確かに敷居は低いですが、どうしても人格というものと切り離せない。 またそれが仏に身を預け救われることならば 上座部も、表現は異なりますが本質的にそういう心がけが無ければ大成しないのではないかと思います。 結局、宗派の違いよりも人格によるところが大きいのでないでしょうか。

hitonomichi23
質問者

お礼

  >結局、宗派の違いよりも人格によるところが大きいのでないでしょうか。 ではその人格は何によって形成されるのであろーか。 正しい人格を形成するには正しい教えが必要なのではあるまいか。 そしてその正しい教えが何かを示すのが仏教なのではあるまいか。 そしてその正しい教えはより高い視点からのみ与えられるものではあるまいか。 そしてその高い視点に立つものが即ち大乗なのではあるまいか。

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