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『孫子』、頭をつかうことは悪なのでしょうか?

善悪二言論によると、『孫子』などの兵法や軍学は悪なのでしょうか? その理由はなんでしょう? 善人は勝てなくても相手にいどみ、悪人は策略でかつ、というのをどこかの書籍かなんかでみたのですが、この理屈からいうと学問=悪、のような気がするのですがどうでしょうか? 

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  • jbeam
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回答No.3

善悪二言論:世の中の事象を善と悪の二つに分類する事で世界を解釈する認識法ですよね。 世界を善と悪の二つに分けた非常に単純で極端な見方です。 自分が正しいと思い込んだ時、人間なら誰もが持っているプライドを刺激する世界観ですね。 キリスト教徒が異教徒を悪魔の手先とし十字軍の遠征を行ったり、イスラム原理主義が、アメリカを悪魔と言う様に。 その単純さゆえに分り易く共感も得やすい為、誰かを悪者に仕立てることに成功した時は、ここぞとマスコミやネットでのバッシングが起きていますよね。 しかし、キリスト教・イスラム教等の一神教を信仰していない人にとって、善悪の判断基準は、時代・場所またその人の価値観から生まれてくるものと考えています。 (ご質問者様が一神教に帰依されているなら、その神の教えがそのまま善ですので今回の質問は無効でしょうから・・・・) ご質問に対する回答ですが、 ・兵は国の大事成り・兵は詭道なり・正正の旗堂堂の陣 との兵法や軍学は、 キリスト教徒にとっては、当然悪ですよ。 何せ、悪魔に唆されて知恵の実を食べたのですから。 >善人は勝てなくても相・・・ の書物からすると、ご質問者様のおしゃる通り、結論が【学問=悪】となる考えは有効です。

その他の回答 (2)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

ルールを守る人が善人で、ルールを守らない人が悪人です。 ルールを守る人と、ルールを守らない人が戦ったら、そりゃ ルールを守らない人が勝ちますよ。 ボクシングの試合に、拳銃を取り出すようなものです。 義経は壇ノ浦の合戦ではルール違反をして勝利をおさめました。 学問をやると、このルール違反を上手にごまかすことが 出来るようになります。 だから、学問、とくに社会学関係の学問は悪である、という 質問者さんの指摘は納得です。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

>善人は勝てなくても相手にいどみ、悪人は策略でかつ、というのをどこかの書籍かなんかでみたのですが、この理屈からいうと学問=悪、のような気がするのですがどうでしょうか?  ○個人の善悪と集団の上に立つ者の善悪は違うということなのです。例えば、個人が平和平和と叫んで防衛の準備もせず簡単に他国に侵略され多くの善人が粛清され国も失って奴隷のような状況に陥ったとすると、誰の責任かと言えばやはり上に立つ者の責任ですね。 個人はかってなものですが、集団の幸福を約束するための安全を担保することは次元の違う大善なのですね。 極力戦わずして安全を担保することがより大きな善ですね。負ける戦争を起こすような人を選ぶべきではありませんね。戦わずして安全を担保するためには軍事力も必要ですが孫子の兵法のような学問も必要になりますね。第二次大戦の日本軍の行動をみると、孫子の兵法を学んでいなかったことがわかりますね。玉砕戦争をして喜ぶ人はありませんね。おかげで優秀な立派な青年がたくさんなくなったので、現状のように二流選手が国を動かすことになったということですね。

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  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 生まれつき悪い人間はいると思いますか?

    人間の性格は育ちだけでは 説明が付かないような気がします。 ヒトの先天的気質には個人差があり、 性格も気質が基盤になっているとすると、 性格もある程度生まれつきで、 先天的な悪人もいるように思えます。 あなたはどう思いますか? ※ただ、だからと言って、 善人が子孫を沢山残す優勝な生物とは限らず、 その逆の事も多いように感じられます。 善悪の基準や正義は、 人間社会が決めたものです。 自然動物界では意味を成しません。 凶暴で周囲の個体を殺す個体(人間で言う悪人)も、 自然法則からは必要なのかも知れません。 例えば(私は男だから女の話を書くけど)、 人間的に優れた(「男友達」になりたい)男性と、 オスとして優れた(「彼氏」になりたい)男は違うと、 「自称悪女」の「女友達」は言います。 こうなると確信犯ですね…。