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芸術と大衆文化の決定的な違い

芸術と大衆文化の決定的な違いを一つ挙げるとしたら何ですか? また明確に境界線が引けるとしたら、その境界線を一言で表現すると何ですか? もしくは、互いに密接不可分で境界線など引けないものだというのならその御意見ご教授お願いします。 例 (ゴッホ・ピカソとイラスト・漫画)(バッハ・モーツァルトとJPOP・演歌)など。

みんなの回答

noname#157864
noname#157864
回答No.13

芸術・・・その理念、表現方法、テクニックに驚かされるもの。確立した本人に学ばないとまねできないもの。メッセージ性がある。一度出会ったら忘れないくらいの個性がある。 大衆文化・・・ある程度の“世相”を反映している。影響しあうため、流行の波がある。 演歌やクラシック、ポップス、ブルース・・・特に音楽はそのほとんどが大衆文化です。 芸術の中に大衆文化はないけども、 大衆文化の波にのって芸術が生まれることもあると思います。 バッハはもともと大衆向けの音楽で、機械的な作曲が特徴です。 モーツァルトは音楽家の中でも唯一芸術家と呼んでもいいのではないでしょうか?この人の作曲をまねしようと思ってもまねできないと思います。 他の回答にもありましたが、大衆文化は求められることまででしか供給することはなく、同じ型に従いながら次々に量産します。“その型を楽しむ”という感じでしょうか。 たとえ、時代の流れにおいて淘汰されたからといって、それが芸術でないとはいえないと思います。 逆に、バッハのように残っているからといってそれが芸術だともいえないと思います。好きでよく聞きますが・・・

回答No.12

#6の者です。 >コマーシャルアートも芸術ですか? 先に「アーティスト自身の感性における完成度を目指す、 求道的な性向を持っています」と述べたように、アートと グラフィックデザインの本質的な違いは、アーティストの 内面にしかありません。 画材屋の店頭に、額縁の飾りのように売られている油絵は、 いくら100%アートの形をとっていても、誰もファインアート とは認めません(あえて呼ぶなら「壁掛けデザイン」)。 主眼が、自己の見出したアートのスタイルの完成であるか、 客に売ってもうけるためであるかによって、全く同一の結果 であっても二者に分かれるのです。

回答No.11

>もしくは、互いに密接不可分で境界線など引けないものだというのならその御意見ご教授お願いします。 どちらも芸術の分野です。ただ、クラシックとポップスでは、演歌やポップスは芸術視の傾向は低いです。これは「作品的評価」を得ていないからです。 作品の評価とは二種類存在します。 「作品的評価」 「興行的評価」 です。 大衆文化は、「興行的評価」を得ているからこそ、普及します。芸術などの一部は興行的評価を得ているものもありますが、多くは「作品的評価」を中心に考えられます。 これが、クラシックとポップスの大きな違いです。 大衆文化から、芸術になる事例はかなりあります。現在の漫画などが良い例です。 「ゴッホ・ピカソとイラスト・漫画」の違い。といえば、同じ芸術でも、その芸術性は異なります。芸術と言うのは学歴のような格と言うのが存在します。それが違います。 ゴッホやピカソも人気があるから高値で取引され、それが作品の芸術性を高めています。 本質的には、大衆文化とは余り変わりません。 現在は「芸術」とは、「一部の人が勝手に決めた美意識」と言う認識ですが、ルネサンス時代やそれ以前、多くの大衆がその認められた作品に魅了されたのも事実です。だから芸術は発展したのです。ゴッホやピカソも、彼らの作品に魅了される人が多いのも事実です。しかし、その多さ=芸術性ではないというのも事実です。 それは前に言った、「興行的評価」と「作品的評価」の違いです。

回答No.10

決定的な違いと質問者は言いますが 元々芸術と大衆文化は次元の異なるものです 芸術を一言で規定すると それは周囲の影響を受けながら尚 深化するものの事です 大衆文化やサブカルチャ―を一言で規定すると それは周囲に影響を与えながら拡大するものの事です 自ずと違いが判断可能です 又 この両者の接点を求めるならば それはただ一人アンディ―・ウオーホール という人物の成果が一体何だったのかと問わなければなりません 米国人でありポップカルチャーの騎士とうたわれたこの人物を理解する事こそ 貴方の質問に回答する事になります コマーシャル・アーティストであるこの人物は芸術家なのか それとも商業画家なのか この判断は曖昧です このアンディ―ウオーホールの作風こそが芸術と大衆文化においての境界線を 初めて取り払った人物です 貴方の御質問に対する回答はこれだけで充分だと言えます

nisihigasi_6
質問者

お礼

なるほど。御回答ありがとうございます。 アンディ―ウオーホール。勉強させて頂きます。

回答No.9

Mokuzo100nennさんの「大衆文化は大衆が相手や」が、この質問のを考える際の大事なポイントの一つです。 「文化 ⊃ 芸術」の認識も大事なポイント。 「芸術でない文化」もあることを忘れないことが大切です。   例えば、挨拶や葬式、礼拝、衣服の選択着用、飲食物と食器等を食卓に並べるのは文化の一部ですが、通常は芸術の一部とは認識されません。   例えば、{美術、文芸、音楽、建築、演劇などの分野で、表現物と鑑賞者、表現物と鑑賞者が、相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動}を{芸術と認識する}ことにした場合には、{ピカソの作品自体、AKB48のDVDそのものは芸術ではない}ことになります。 芸術と認識するには{鑑賞側の精神的・感覚的な動きをセットにする}ことが重要なことになります。 (美術館に収蔵されている作品は“もの”であって、芸術ではない) 文化とか芸術は、実行主体、鑑賞する人などの担い手とセットで考えるのがポイントです。 あるシーンを見ても、文化と思うか、文化と思わないか、芸術と思うか、芸術と思わないかは、評価者にも影響されます。 飯と味噌汁の食事風景をみても、多くの日本人は文化とは思わなくても、欧米の文化親類学者は明らかに文化と考えます。 私は、自宅の食器や陶磁器類、家具類等に嫌なモノは持っていませんが、そうしたものに特に芸術性や文化の香りを感じてもいません。芸術の判断はさらに難しいです。美術展に出品されていたり、高額の入場料を取ってやっている歌や音楽は芸術かな?と思い込もうとしますが、そこらの中学高生が授業の一環でやっているものは内容にかかわらず芸術性や文化の香りを感じないフィルターがかかってしまいます。私は、写真等でガウディの作品を見ても快い感動のようなものは感じません。ゴッホやモディリアーニも生前作品に高価格は付かなかったようです。http://ameblo.jp/guy503/entry-10701845413.html ゴッホの生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』、人に贈った絵『医師フェリックス・レイの肖像』が鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあったそうです。私と同様のことが他の人にも起きるようです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「芸術と大衆文化の決定的な違いを一つ挙げるとしたら何ですか?」 「また明確に境界線が引けるとしたら、その境界線を一言で表現すると何ですか?」   ★★「大衆芸術と大衆文化の境目」を一つ挙げるなら、 ☆☆⇒その境目は、「鑑賞の対象にしているか否か」です。 鑑賞の対象にしていないなら、大衆文化であっても、大衆芸術には該当しません。 鑑賞の対象にしていれば、大衆芸術でありかつ大衆文化です。 KARAの舞台も、大相撲の場所も、サッカーの著名な試合も、大衆芸術でありかつ大衆文化です。(既に“大衆”のところはクリアしている前提です) 日本のコンビニや冬のおでん、正月彼岸の行事は、大衆文化であっても、大衆芸術には該当しません。   ★★「芸術ではあっても、大衆文化でないとする境目」を一つ挙げるなら、 ☆☆⇒その境目は、「地域の大衆の多くが受容し大切にするか否か」です。 大衆の多くが受容し大切にするか否かは、社会状況、時代風潮などに大きく左右されます。 流行廃り、時代の流れも大きいです。今と10年前、10年後では、同じような事柄も大衆文化であるかないかが変化することも希ではありません。 一部の人が素晴らしいと感じても、多くの人が鶏小屋の穴を塞ぐのに使う程度のものとする絵画や石垣の石材に使う程度におもう彫刻、古くなったから建て替えようとする建造物は、物体であっても大衆にとっての芸術や文化ではないのです。 美学、音楽、建築、舞踊等に専心してきた人が芸術と認め貴重な価値を付しても、多くの人が「なくなっても、無視されても気にとめない」ものは、その時代その社会の大衆文化ではありません。 アフリカ、東南アジア、朝鮮半島の民俗楽器などの演奏は、現代日本の大衆文化ではありません。 http://saisaibatake.ame-zaiku.com/gakki/gakki_zukan_world.html 大衆文化は地域でも違います。 日本の音楽でも、中世や近世、あるいは昭和40年代と、平成10年代でも、大衆文化となる音楽は違います。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「朝起床後に、歯ブラシを使用して歯磨きをし、湯水を使用して洗面する」のは、現代日本の大衆文化の一つです。 しかし、大衆芸術でも、芸術でもありません。   日本のコスプレやアニメ、AKB48が、他国でも人気を集めて類似のことが行われているそうです。 これは大衆文化です。 やっている本人だけが悦に入っているのではなくて、それぞれ鑑賞者、賛嘆者がいて、やっている本人や作品との相互関係さえあるのですから芸術です。 ごく一部の限られた人たちだけでなくて、ある程度(1割以上)の人々の積極的関心を得ているのなら(視聴率10%なら凄い)大衆芸術ともいえるでしょう。

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 確かに、 >{美術、文芸、音楽、建築、演劇などの分野で、表現物と鑑賞者、表現物と鑑賞者が、相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動}を{芸術と認識する}ことにした場合には、{ピカソの作品自体、AKB48のDVDそのものは芸術ではない}ことになります。 と、言われ、私もそう理解納得し、大変有用な定義づけだと思いましたが、それは moto_koukouseiさんの個人的な見解ですか?それとも、芸術の世界で一般に妥当と認められている認識ですか? 私には今まで、 >文化とか芸術は、実行主体、鑑賞する人などの担い手とセットで考えるのがポイントです。 という考えが足りませんでした。確かに作品自体だけでは何の意味も持たない存在かもしれませんね。この視座を得て今までのことを考え直してみると新たな発見があるように思います。 なるほど、 >★★「大衆芸術と大衆文化の境目」を一つ挙げるなら、 ☆☆⇒その境目は、「鑑賞の対象にしているか否か」です。 鑑賞の対象にしていないなら、大衆文化であっても、大衆芸術には該当しません。 鑑賞の対象にしていれば、大衆芸術でありかつ大衆文化です。 と仰って頂いたことで、芸術と文化の境目が自分なりに理解できました。ポイントは、「鑑賞」という言葉ですね。 自分は今まで「鑑賞」という言葉の厳密な定義を持っていなかったのですが、辞書で調べ自分なりに吟味してみると、「鑑賞」の目的語が“芸術作品を”なのですね。 確かに私も箸や陶磁器を鑑賞の対象としてはいません。一方で、ゴッホやピカソの絵画は鑑賞の対象としていました。 と、今までの自分ならここで終わっていたのですが、moto_koukouseiさんのこの指摘で自分の考えをひとつ前に進めることができました。この質問の意図は、世間では(自分が感じてるだけかもしれませんが)著名な画家や音楽家の残した作品が芸術で、自分がよく接する漫画やJPOPなどは芸術という大層なものではなくワンランク下の“大衆文化”だという風潮があったように思っていたのですが、その人が「鑑賞」していれば、漫画やJPOPも芸術として認識していいのですよね?漫画=文化∧芸術。 >★★「芸術ではあっても、大衆文化でないとする境目」を一つ挙げるなら、 ☆☆⇒その境目は、「地域の大衆の多くが受容し大切にするか否か」です。 このご指摘も自分にとっては有益でした。ゴッホやピカソの絵画も貧困や飢餓に見舞われている地域の人々にとっては何の価値も持たないものだという考えが昔からありましたが、そういうことですよね?芸術ではあるが文化ではない。と、考えていたら、最初にお示し頂いた「文化 ⊃ 芸術」の式が乱れることになってしまったのですが、例外ももちろんあると・・・。何かすいません。折角解答していただいているのに(..) このお礼の中で2つ程また質問させていただいたのでご回答頂けると光栄です。

  • foosun
  • ベストアンサー率12% (13/104)
回答No.8

それっぽいのが芸術です 芸術に本質はありません

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 芸術家が本質がないものを追求するのは何故ですか? 本質がないという答えが分かっているのに。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.7

欲求された以上(以外?)のことをも仕立てたのが芸術。 既製品の中から選択して要求を満たすのが大衆文化。 境界線は「信頼」「隷属の受け入れ」 一人歩きさせるに任せることが出来るかどうか?

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。

回答No.6

ファインアートは原則的に、アーティスト自身の感性における 完成度を目指す、求道的な性向を持っています。 デザインは、利用者(それがどんなに低級な感性であれ)の 満足感の充足を第一に考えられています(他人に合わせる)。 その「利用者志向」において、デザインは造作物の上に付与 されるケースが多く(視覚的満足を第一に考えた壁掛けの ようなものもあるが)、ファインアートは表現のための必要最 小限の造作物に留まります。

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 コマーシャルアートも芸術ですか? また、 >ファインアートは原則的に、アーティスト自身の感性における 完成度を目指す、求道的な性向を持っています。 という考えは、ぼんやりですが私の頭の中にはイメージとしてありました。 しかし、彼らは何のために“アーティスト自身の感性における 完成度を目指す、求道的な性向”を行うのでしょうか?目的が謎です。 内容や手法は理解できるのですが、目的が謎なので昔から理解できません。 他にやるべきことはないのでしょうか?家族がいるならばもっと幸せな生活を送らせてあげるべくお金を稼いできたり、社会に何か問題があると思えばその解決に力を注ぐなど…。私としては芸術家の方々は、苦しんでまで精神がおかしくなってしまうまで“アーティスト自身の感性における 完成度を目指す、求道的な性向”を行っているように思えるので一人間として不可解で仕方がありません。 何か彼らがそこまでする目的として、社会一般に認識されているようなものがあれば、ご教授願います。

回答No.5

ご安心ください。あなたが芸術であるとする作品は、大衆向けに創作された作品であっても誰がなんと言おうと芸術です。

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。

回答No.4

芸術に醜いものを排除しようとする暴力が現れる限りでは大衆文化とかい離する。 その境界は世相に左右される。

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 >芸術に醜いものを排除しようとする暴力が現れる限りでは大衆文化とかい離する。 その境界は世相に左右される。 というご指摘は自分では頭の中で考えてはいたが、うまく文章にできなかった概念をはっきりと文章にしていていただいた感があります。 ということは、Flareonさんとしては、人間のエゴが介在してこなければという前提条件があれば、本来的には芸術=大衆文化という、見解ということですか?それとも私が無知なだけで、世間的にもちゃんと芸術=大衆文化という図式は受容されているものなのですか?

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