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アスペルガー症候群と人間関係:意識的な付き合いの絞り方のメリット・デメリット
- 矛盾するアスペルガー症候群の人間関係アドバイス:意識的に付き合いを絞る良さとは?
- アスペルガー症候群の人にアドバイスする交友関係の絞り方の矛盾
- アスペルガー症候群と人間関係:理解者を増やすための付き合いの絞り方
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小学生の息子がAS、私自身は未診断ですが、子供への遺伝や自分の幼少期と子供の類似点を比較し、おそらくASだったのではないかと考えている30代女性です。 私は、なんとなく言いたいことはわかるような気はします。 私自身の経験から、そもそも人に対してのコミュニケーションが上手にできないこと、人見知りが酷い点、また、なんとなく周囲と違うことから、浅く広く付き合いをして良いと感じたことは一度もありません。 まず、ASの特性として、自己否定というか、自己評価が低く、プライドが高かったりとかもあるので、上手くコミュニケートできないことに加えて人の目がとても気になってしまったりしました。 私の場合はそんなに重度ではないと思うので、空気が読めない発言をしたり、人のいってる言葉の裏が読めない、なんてことはあまりありませんでしたが、自分自身をわかってもらうということは割と難しく、誤解が生じたりすることも多かったです。 なので、浅く広くつきあうのは苦手でした。 多分、そもそもASの多くの人は浅く広く沢山の人と交流することは得意ではないのではないかと思います。 無理に交流しない、というのは、あえて沢山の人との交流を断つ、ということではなく、世の中にはそういうことに理解を示せない人や、人と違うことを良しとしない風潮も現実にはあり、そういった生きにくいと感じる人間関係を無理に頑張らなくてもいい、という意味合いが強いのではないでしょうか。 実際にそういった関係の中にいると、自分のコミュニケーションのヘタさであったり、沢山の人と協調性をもつのが苦手だったり、上手に輪の中に入っていけないことで、自分自身の自信を失うことにもつながります。 私はトラブルを引き起こすタイプのASではなかったとは思いますが、それでも大勢の人の中にいると、上記のような感情を強く感じました。 ASでも、程度や性格の個人差もありますから、多くの人と上手くやっていけるタイプの人や、周囲の人間に恵まれている場合であれば、そういったことが当てはまらない場合もあると思います。 ただ、現実は、そうそう理解してくれる人ばかりの社会ではありません。 そういうのが現実です。 人付き合いの悩みや疎外感を問題視している、とありますが、その悩みや疎外感を解決することが、必ずしも理解者を増やす、ことだけではない、ということではないでしょうか。 もちろん理解者が増え、支援してくれる人が増えることは大きな理想だと思います。 が、ASの本人が、果たしてそれをどこまで上手にできるでしょうか。 実際は難しいと思います。本人が大人になって自分はASだからこういうことができない、といったところで、今の社会の現状では、怠慢だとか性格だとかいわれることのほうがことさら多いのではないかと思いますから。 そうなれば、本人がどんなにあくせくしても、理解者を増やせるとは限りません。 逆に、偏見の目でみられる可能性もありますね。 そういう現実も踏まえると、やはり、自分を理解してくれる人、ASだとカミングアウトするしないにかかわらず、付き合う人間は選べ、ということなのではないでしょうか。 意識的に自分に合う人と付き合うことで十分というか、無理に社交性をもたなくてもいい、ということではないかなと思います。 実際、私も昔はすごく悩みました。初対面でもすぐ打ち解けたり、誰とでも仲良くなれる社交的な友人を見てると、自分との違いを痛感し、あまり友達が多くない自分が情けなかったり。 でも、あるときから、自分はこれでいいんだ、無理して浅く広く付き合うより、本当に自分を理解してうれる人が何人かいればそれでいい、自分に合う友人がいればいい、と思うようになれてからは、自分自身のアイデンティティに少し自信がもてるようになったというか、本当に自分を大切に思ってくれる人がいれば、そう沢山の人と仲良くなれなくても、それでいいんだ、友人は量より質だ、と思っています。 それからは、上手に交友関係を広めることができなくても、「これが私」と思えるようになりました。 他人をうらやんで、社交的になりたいと思い続けているだったら、もっと悲観的になってしまっていたと思います。 もちろん、随所において、未だに社交性のある人をみるとうらやましく思う気持ちはあります。 子供を生んで、親になったら親同士の付き合いがなかなか他の人のようにいかなかったり。 でも、そこで自分と比べて「だめだ」と思ってしまっては余計に良くないと思いますし、自分は自分のペースで。得意ではない場所や人と、無理に交流しなくてもいいかな、という気持ちがベースにあるので楽は楽です。 そのベースがあるからこそ、自分でできる範囲で、少しづつ、時には努力してそういう場所に飛び込んでみようかな、とか、新しい関係を広げてみようかな、と自分のペースでやることができています。 そのうち、自分に合った人が現れたりして、自分を理解してくれる人を見極めれるようにもなってきました。 多分この人間関係の築き方に負い目を感じていたりしたら、卑屈にばかりなって、何もできていないと思います。 本の2章で、悩みや疎外感を問題視しているからこその、付き合いを絞ることの有効性、なんだと思います。無理に交友を広めることは、逆に悩みや疎外感を助長されることになると、私個人の経験ではそう感じますね。 理解者が増える、ということは、やたらめったら周囲の沢山の人に理解してもらう、ということではなく、自分の大切と思う周囲の近い人から一歩一歩、自分をわかってもらいながら、理解を深めていくことで支援してくれる人が増えれば望ましい、という意味ではないでしょうか。
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- kakakarina
- ベストアンサー率28% (40/141)
私も矛盾は感じません。 無理はしなくていいよ あなたはあなたで いいよ 身近に理解者が増えれば そりゃいいでしょうし だからと言って 無理に探す必要もないんだよ、です。 第一段階として身内が理解者なのが1番です。 親が理解しなければ 始まらないでしょう。 根本的に生きづらさは増すでしょう。 拒否 じゃありません。 ほどほどを知る です。 と 私は思います^^
お礼
ありがとうございます。
- dell_OK
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私は矛盾しているとは思わない。 仮に矛盾していても何の問題もない。 自分を理解してくれる人だけに人間関係を絞ればいいのではなかろうか。 アスペルガーが何なのかも知らないが、普段の生活の中で出会う人々の中から、 この人は理解してくれている、と言う判断が自分にできていればそれでいい。 「無理に交流しない」と言うのは、無理でない範囲で交流する、と言う事だと思う。 無理さ加減は各々が判断するしかないが、 アスペルガーかどうかに関わらず、無理に交流しないのは当たり前の事だ。 無理にするならそれなりの必要性と覚悟が入用だ。 健常者であっても、誰とも付き合わない者もいるもんだし、 同じく、理解者を必要とする者もいる。 問題はアスペルガーにあらずな気がする。
お礼
ありがとうございます。
アスペルガー症候群という症例があるのですね? よくわからないのですが、その症例は、統合失調症とは、全然違うのですか? まあ、文面から察するに、確かにあまり人と深く付き合うなと言いながら、理解者がいないと始まらないというのでは、あまりに正反対で矛盾していますね。 理解者を作るためには、その人に、自分がどんな病気に侵されているのかを、時間をかけてじっくりと、説明する必要があるでしょうね? でも、トラブルを避ける為に、人付き合いをあまりするなというのでは、どちらが正しいのか、理解しにくいですね。
お礼
ありがとうございます。 統合失調症ではありません。 アスペルガー症候群の人が孤独になることを問題視する一方で、アスペルガー症候群の人が人付き合いを絞ることが良いとされるのが腑に落ちませんでした。 それではアスペルガー症候群の人を拒否した人とあまり違いが無いんじゃないかと思いました。 人付き合いは出来るだけうまくやるべきだから、お互い頑張って可能なだけ歩み寄るべきだという記述なら一貫していると思います。
お礼
ありがとうございます。 私は本を読んで次のように思っていました。 「アスペルガー症候群の人が意識的に友好範囲を絞ったら、アスペルガー症候群の人を拒否した人とやっていることが同じなのではないか」「アスペルガー症候群の人が疎外感を感じることを問題視しておきながら、アスペルガー症候群の人が友好範囲を絞るのはやってもいいのか」 やはりニュアンスが違うようですね。