邪馬台国は「邪馬壱国」ではなかった?書き間違いか別の理由か

このQ&Aのポイント
  • 歴史の番組で「邪馬壱国」と主張する声があるが、魏志倭人伝の書体や中国語辞書からは「邪馬台国」の表記が見られる。
  • 親がくずし字の本を持っており、その中に「壱」と同じ書体の「壹」が見つかった。
  • 邪馬台国は本当に「邪馬壱国」ではなかったのか、書き間違いか別の理由があったのか疑問が残る。
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邪馬「壱」国

歴史の番組で、邪馬台国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」ではないかと主張している方がいました。 そのときは特に気にしなかったのですが、 数か月後、別の歴史番組で魏志倭人伝を映した映像を見たとき、「台」の旧字体ってこんな字だったっけ?と思いました。ちなみに書かれていた字体は「邪馬壹國」でした。 親がくずし字の本を持っていたので見せてもらったところ、「壱」の欄に魏志倭人伝に書かれていたのと同じ字体「壹」がありました。 中国語の辞書も調べてみたところ、「壱」の欄にも同じ「壹」の字が載っていました。 邪馬台国は本当に「邪馬壱国」ではなく「邪馬台国」だったのでしょうか? それとも単なる書き間違いか、はたまた別の理由が考えられるのでしょうか?

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  • notnot
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回答No.1

「邪馬台国は無かった」という本に詳しいですが、魏志の現存する最古の写本では「壹」(壱)とのことです。 一部の写本では「臺」(台)ですが、魏志より新しい後漢書で「臺」になっているのでそれに影響されたのではと言うことです。 「臺」という字は天子の宮殿をを意味するので、少なくとも魏志の書かれた(統一王朝である)西晋の時代に、東夷の国名表記に「臺」を使うのはあり得ないだろうということ。「たい」や「と」を表す漢字はいくらでもある。 後漢書の書かれた南北朝時代では、北部に五胡十六国という異民族の諸国が乱立して、「臺」のインフレが起きていたので、東夷の国名でも違和感なく、後漢書では字形が似ているので間違えたのではということです。

checosequesto
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 たかが2つの漢字に関する疑問でも、かなり深い事情がありそうですね。

checosequesto
質問者

補足

「臺のインフレ」という部分の意味がわからないのですが、 「臺のインフレ」とは何がどうなったことを意味しているのでしょうか?

その他の回答 (4)

回答No.5

すでに回答があるように現存する最古の魏志には「邪馬壹國」と書かれています。 ところが魏志を引用した他の史書では「邪馬臺國」と書かれています。 いずれも旧字なので新字で表記すると「壱」「台」になります。 もし魏志原本あるいは原本に近い写本に「邪馬壹國」と記載されていたのであれば魏志を引用した他の史書にも「邪馬壹國」と書かれていていいはずですが、そのような事例はありません。 現存する最古の魏志刊行以降は他の史書にも「邪馬壹國」という表記が見られるようになるそうです。 このことから現存する最古の魏志の「邪馬壹國」は「邪馬臺國」の誤写と考えるのが妥当とされています。

checosequesto
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • daidou
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回答No.4

確か言いだしたのは古田武彦先生でしたね。 魏志倭人伝には「邪馬壹(壱)国」と記載されており、その後の後漢書では「邪馬臺(台)国」となっているため、本来は「邪馬壱国」であったのが誤記されたため、誤った国名が伝えられる事になってしまった、という説です この説の検証を行った訳ではないので、事実なのかはわかりませんが、説得力のある話だと思います しかし、この古田先生がちょっと曲者なんですよねぇ・・・ 「東日流外三郡誌」を真書と主張した挙句に、「原本」を発見しちゃったり、 魏志倭人伝に記載されている国(たしか黒歯国だったかな?)の場所を南アメリカに同定してみたり。 面白いんですがちょっと「トンでも」なところが否めない・・・ ちゃんとした功績も残している立派な歴史学者なんですけれどね。 ですので、彼の説だ、となると一応眉に唾をつけてみる、というような、そんな感じがあります。

checosequesto
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今回の質問は古田武彦先生の説かどうかとは直接は関係なく、あくまでも歴史番組でVTRに映っていた「壹」の字形を見て浮かんだ疑問です。 私が見た歴史番組で「邪馬壱国」ではないかという主張をしている方が古田武彦先生かどうかはわかりません。ただし主張の内容はなんとなく覚えています。こんな主張をしていました。 ・邪馬壱は「ヤマイツ」と読むのではないか。 ・越後の人は/i/と/e/の発音の区別が曖昧。 ・「壱」→「越」→「古志」となった。つまり現在の山古志村ではないか。

  • notnot
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回答No.3

No1です。 インフレというのは数が増えることで1つあたりの価値が下がることです。 つまり、それまで世界で一つしか無かった「臺」が、国の数だけ何個も出来たので価値が下がった。北狄の王が皇帝と称して宮殿を「臺」としたので、東夷の国名に「臺」がついていても違和感が無くなった。

checosequesto
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 この質問とは直接関係ないですが、先日、自分の回答だけ無視(お礼も補足もされない状況)されて大変ショックを受けました。的外れな回答や不適切な発言をしたとは思えないのに……。 こんなにつらい気持ちになるのであれば、他人にそういう想いをさせたくないと感じました。 これからは、荒らし回答や的外れな回答は別として、回答にお礼を書くことの大切さを知りました。

noname#177363
noname#177363
回答No.2

>邪馬台国は本当に「邪馬壱国」ではなく「邪馬台国」だったのでしょうか? 今のところ誰にも分かりません。プロアマを問わず、様々な主張をするのは各自の自由です。でもその自由って「真実」が解明していないから成立する話なんですね。「江戸幕府は、本当は織田信長が開いた」なんて言っても誰も信じませんよね? 邪馬台国論争は、それとは真逆の話です。 邪馬台国論争って、本当のことが分からず、想像を働かせる余地があるからこそ、魅力もあるということではないでしょうか。

checosequesto
質問者

お礼

>邪馬台国論争は、それとは真逆の話です。 邪馬台国がどこにあったかの論争とは違い、今回の質問は残された史料についてのものです。 邪馬台国と邪馬壱国の表記は史料に残っていることなので、 「真実が解明していないから様々な主張をするのは自由」というのはちょっとズレているように思います。

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