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西郷隆盛が江戸へ入れた理由

我ながら幼稚な質問と思いますが、よろしく。 西郷と勝海舟が江戸無血開城について会談をしましたが、敵軍が満ちている江戸へ西郷が単身?入ることができたのはどうしてでしょうか。状況がよく分かりません。

  • ekisei
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  • ベストアンサー
  • SCNK
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回答No.1

推論の域はでませんが、 そもそも戊辰戦争というもの自体、はじめから片方が負けを認めている稀有な戦争です。徳川方はすでに大政奉還して統治権を委譲しているのです。鳥羽伏見の戦いは罠に嵌められたようなもので開戦原因を作らせたようなものです。これが唯一の幕府軍の戦いであり、それ以外の戦いは正規な幕府軍ではありません。確かに奥羽列藩同盟との戦いや、脱走軍との戦いなど大規模な戦いはありますが、どれも幕府を挙げての戦争ではないのです。 江戸城下は殿様の直轄ですから、停戦命令を受け入れるしかないのでしょう。江戸唯一の戦いである上野の山の戦いも、いわば命令系統を外れた部隊であり、今のイラクのサダム派のようなものです。 江戸で幕府軍が応戦すれば朝敵であることを自ら認めるようなものです。サダムが大量破壊兵器をもっていないと主張しつつ毒ガスを使うようなものですよ。 まあ初めから幕府は降伏していたんですよ。しかしここが対外戦と違うところです。内戦というのは敵は敵ではなく、犯罪者にしてしまうのです。正対正ではなく正対悪なんですね。戦時国際法の世界ではこれを正戦論といいます。ということは完全に相手を抹殺しないとすまないわけです。徳川慶喜だって処刑されていてもおかしくないと思いますよ。しかし大政奉還をしたことや、駿府に蟄居したことが受け入れられたのでしょう。 この後の内戦を見ると首謀者はすべて処刑か、自決となっています。

ekisei
質問者

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早速ご回答いただき感謝しております。 幕府軍は統制が取れていて、自爆テロもなかったということだったのですね。 状況もわかりました。 長年の疑問が解消しました。 有難うございました。

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  • old98best
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回答No.2

私も、回答1の方と同意見です。 江戸の幕府軍は正規軍ですから、将軍の命令に従います。 当然、臨時司令官代理の勝海舟の命令にも従うわけですから、命令されない限り攻撃はしないわけです。 平和交渉に来る西郷には攻撃しないですし、開城後には攻撃は軍令違反となってしまいます。

ekisei
質問者

お礼

早速ご回答いただき感謝しております。 幕府軍は統制が取れていて、自爆テロもなかったということだったのですね。 状況もわかりました。 長年の疑問が解消しました。 有難うございました。

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