• ベストアンサー

この世界

この世界を色界か無色界かに上げたり上がったりすることはできないものですか? 創造神に相談できる立場にあってと仮定します。 できるだけ真面目な意見をお願いします。 弊害や利得など。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#156094
noname#156094
回答No.4

解釈の浅深を決めるのは、人それぞれの境涯によるのではないでしょうか。 三界をどう捉えるのかも同様だと思います。 欲界以上の世界を理解できるのも、人それぞれのように思います。 人によって、この世界が違って見えるように思います。 見え方の違いが三界ではないでしょうか。 欲界以下の境涯であれば、この世界は欲界のままです。 しかし、それ以上の境涯に進めば、この世界は色界や無色界にも見えてくるのだと思います。 >この世界を色界か無色界かに上げたり上がったりすることはできないものですか? 知覚が変化すれば対象も変化する、という言葉があります。 自らを変えることによってのみ、色界や無色界が有りうるという事かもしれません。 また、色界や無色界を垣間見るという体験は誰にでもあるように思います。 清浄な自然の風景に感動したとか、心の琴線に触れたとかいった体験です。 欲の世界に身を置きながらも、それ以上の世界に進むことのできる可能性が誰にでもあるという事なのかもしれません。 創造神に相談、という仮定を持ちださなくとも可能ではないでしょうか。 実体験から色界に到達している人達はいくらでもいるような気がします。 たとえば、自然を相手にした芸術家は全てそうした人達のように思います。 誰でも三界を体験できる可能性を秘めているし、その可能性によってのみ三界の見える世界が変化する、という事のように思います。

その他の回答 (3)

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.3

色界や無色界というものは、単なる世界ではなく、魂の修行によって到達できる到達点です。 この世そのものが欲界なのではなく、欲を持つ魂のいる世界が欲界、物欲や淫欲が消えた世界が色界なのです。 この世の人の全てから物欲や淫欲が消えれば自然と色界となり、それすらも消えれば無色界に達するのです。あるいは欲界であっても自らの欲を滅すればすなわち、その魂のいる世界は色界や無色界となります。 ですので、世界を挙げるとか下げるとかいう問題ではないのです。 ただし、滅するというのは興味がなくなるわけではありません。とらわれる事がなくなるということですから年老いて意欲がなくなるのとはまったく異なります。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

hosiboshiさん、こんにちは 例えば、「弊害や利得」ということで言ったら、「新航路の発見」ということは、大きな影響があったのではないでしょうか(世界史的な通説?)。

noname#155457
noname#155457
回答No.1

それは無理だと思います。 人間は色界・無色界(天国)に於いて、神の戒め犯したために、この世に追放されたのです。神の戒めとは。 ************************************** 『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証し てはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』 (新約聖書) ************************************** イエスキリストは人間を天国へ生まれさせるためにこの神の戒めを人間に教えに来たのです。 この世のすべての人々がこの戒めを守らない限り、この世が色界・無色界になるのは無理ではないでしょうか。

関連するQ&A

  • 神様について

    色々な神様を信じているというのは世界を創造した神は1人ではないと信じているのと同義ですか?沢山の神様が一緒に世界を作った、というような。 世界を創造したと言われる(伝えられている?)神様は1人じゃありませんよね。 他にも「○○の神様」の○○が他の神と被ってる事ってあります。 分かり辛かったらすみません

  • おすすめの世界創造ゲーム

    自分が神様になって世界を創造するようなゲームが好きなのですが、最近のおすすめのゲームを教えて下さい。 神様というと神話的イメージがありますが、 そういうものだけでなくA列車シリーズやシムシティシリーズも好きで、 もう少し幅を広げるならアトリエシリーズのように、 自分の力で何らかのものを創造していくものであれば何でも構いません。 ほかにも、 ・ポピュラス ・アクトレイザー1(クリエイションモード) ・原始人 SIMPLE1500 などもやったことがあります。 できればDSかPSPで教えて頂けると助かります。

  • 神の存在証明

    神の存在について調べると「この世には偶然では片付けられないことがある」とか何とか言ってます。仮に神がいると仮定すると一つ問題が出てきます。神はこの世の万物を形成した場合、神自身はどのようにして生まれたのでしょうか。そう考えると神=創造主というのは矛盾があり証明が不成立になります。この意見どこかに反論できるところはあるでしょうか?意見をお願いいたします。

  • キリスト教学についてです><

    学校でキリスト教を勉強しています。 神が創造者であるという言い方は進化論と矛盾するのか否か。というテーマでレポ―トを書かなければいけません>< 私はそもそも違う意見なのだから矛盾も何もないと思うのですが、必ずどちらかの立場で意見を書かなければいけません… 神は創造者であるという言い方は進化論と矛盾するのでしょうか? できれば詳しい説明もよろしくお願いします><!

  • キリシタンの方々へ、神について

    キリシタンの方に神について質問があります。 聖書に書いてある通りの全知全能の神が存在すると仮定して、神がこの世界を創造した理由はなんだと思いますか? 地球外(宇宙スケール)の事象を含めない話に限るとこの世界は不平等で醜い事象(戦争、飢餓、貧困、格差etc)が現在、過去に数え切れないぐらいあります。それでも神は寛大な愛をお持ちになっていると信じている方がいらっしゃいますが神が全知全能だとするとその未来をわかっていて世界を創造した事になりますよね?どんなに良い理由であろうと結局はこの醜い事象を過去、現在そして未来に起こる事をそのなんらかの清い理由の前に容認した事になりますがキリシタンの方にとってはこの事は何の重要性もないんでしょうか?もし重要ではないなら神は寛大な愛など持っていない事を認める事になると思うのですが。。。

  • ビッグバン有限宇宙は人間が望む世界なのか

      少し考えてみた。 もし万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神は存在せず、 あるいは宇宙は無限であると教えるアルケーの神は正しくなく、 ビッグバンのみが正しいとする。 その結果この世界は137億年前に突如として無から生まれたものであり、 また宇宙は無限ではなく、まるで器のよーに閉じた有限な世界なのであり、 この世界は人間のために創造され、人間のために存在し、神も仏も全て人間のために有り、 天国や地獄も全て人間のために神や仏が用意したものであるとする。 これが正しい世界であるとしたとき、このよーな世界は果たして人間が望む世界なのであろーかと考えてみた。 しかし、どーしてもわしにはこのよーな世界は暗黒の世界にしか映らない。 やはり宇宙は無限であると教える万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神の世界のほーが遙かにマシであると思うが、このよーに思うのはわし一人であろーか。 あ~、アルケー、  

  • ライプニッツの最善説と悪

    ライプニッツの最善説と弁神論に関する質問です。 ライプニッツは、この世界は可能世界の中では最善の世界であり(最善説)、この世に悪が存在するのは、被造物である人間に問題がある(弁神論)があるといっています。 しかし、この主張からは 「悪に満ちた人間が、神の作ることのできた最善の人間の姿である。つまり、神は『悪をなさない』という完璧な人間を創造することはできなかった」 という、神の全能性を否定する立場が読み取れますが、ライプニッツはそういう立場だったのでしょうか?

  • もうひとつの世界

    一人の人間が宇宙を創造することは可能だと思いますか? 仮に、馬鹿らしいくらいほのぼのとのんきな世界を作ったとしてそこに定住したい、または行ってみたいと思えますか? 現在の厳しい世界が、自身の向上のために良いと思いますか? またほのぼのとした世界があったとして、そこに行けるとあなたが思える条件は、厳しい生活をしている立派な人ですか?それとも現実に苦しんでいる弱い人でしょうか? どこにいても虚無感を感じてしまうので、どこにいても同じだと思えてしまいますか?この世界のほうがよっぽど素晴らしいと… 仮に創造したとしてもやはりこの世界と同じように諸々の問題が発生してしまうのが必然で、全ての問題の解決策は無いと断言できますか?

  • 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。

    馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」

  • 質問は、神が人間を創造したのか、いや、人間が神を捏

    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?