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素直に受け入れるって

素直に受け入れるとはどういうことなんでしょうか… 何を聞くんだというような質問ですみません; でも、 頭ではわかってもどこか受け入れられないから 行動が変わらないと思うんです。 どうすれば受け入れることができるのでしょうか。 頭で理解できるからその時は注意されたことを 意識して改善すると思うのですが 内心は相手の反応を予測して こうしておけば相手も喜ぶだろう みたいに考えている自分がいます。 相手の言うことを理解して納得もできるのに なぜか受け入れられないです。 どうすれば受け入れられるようになるのでしょうか。

みんなの回答

  • kuku82
  • ベストアンサー率25% (367/1464)
回答No.7

はじめまして ちょっと厳しくなるかも知れませんが、 気になったのは、「相手の言うことを理解して納得もできる」という所です。 理解ってなんでしょう? 納得ってなんでしょう? ここが不十分だと、誤解が起きます。 このケースが、ほとんどです。 が、しかし、それに気づかないと、誤解つまり間違いを理解、納得していることになります。 ともすれば、近いうちに必ず矛盾が生じます。 「理解する」前提には、共通目的が必要だと思います。 目的が共有されてない状態は、理解する以前の話になります。 つまり、理解するには、「何故、このような事を言うのだろう?」というのを 想像でき、同じ方向を向いている必要があります。 多くの場合は、この共通目的が無いか、お互いの考えている目的がずれている(でも、相手も自分と同じと思ってる)場合が多いです。 質問文から、注意された時の状況が目に浮かびます。 注意した側の真の目的は何でしょうか? 質問者さんに直してもらうことでしょうか? いやいや・・これは、方法です。 真の目的は別のところにあるはずです。 でも、それを誤解してませんか?もしくは、目的が見えないことは無いですか? だから、方法だけをあわせこみ・・・相手が喜ぶであろう行動に出る。 あらら・・目的を見失ってますね。 だって、相手を喜ばすことと相手の真の目的は違うでしょう? だから、理解した「つもり」、納得した「つもり」ってことにしかならないのです。 受け入れるというのは、「真の目的は何か?と考える」ということだと思います。 多くの人は、受け入れる前に方法を比較します。 そして、その方法が合う、合わない・・・で、批評します。 目的も無いのに批評しても無駄ですよ。 でも、目的を共有するというのは、簡単なことではありません。 なぜなら、目的には、間違っている場合もあれば、正しい場合もある。 正しい場合は共感しやすいが、間違っている場合には共感できない。 だから、話合うんです。目的についてを。 「目的」と「方法」を間違えないように。 東大や京大の入試問題のうち、本当に難しいのは極一部です。 ほとんどは、注意を怠らなければ解ける問題です。 何故か? あれらの大学で見ているのは、注意深く、基礎がしっかり出来ているか? もし少々出来ていなくても、それを補い十分すぎるだけの難しい問題を解くだけ尖がっているか? (ずば抜けたイノベーションがあるか?)を見ているのです。 欲しい人材はソコです。目的と方法をキチンと設定しています。 単なる難関で、目的も曖昧で方法だけなら難しい問題並べりゃいいんです。 でも違います。ここがすごいトコなんです。

回答No.6

頭で理解できるからその時は注意されたことを 意識して改善すると思うのですが 内心は相手の反応を予測して こうしておけば相手も喜ぶだろう みたいに考えている自分がいます。 これで良いのではないかと。 少なくともあなた以外の全ての人には「素直に受け止めている」を思われています。 十分だと思いませんか。 これができるだけあなたは普通の人より十分立派です。 自分で納得したいのであれば 主観を交えず全ての物事を客観的に判断することです。 その上で相手の言うことが正しければ疑問を挟む余地はないでしょう。 間違っていたら反論しましょう(できない状況も多々あると思いますが・・)。 でもこれはナルシスト的行為です。 自分を成長させるために行うことです。 自分の為だけの行為ですので、やってもやらなくてもいいことじゃないでしょうか。 僕はできるだけやろうと思って生きていますが。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.5

今の質問者さんのままが「正解」だと思いますよ。 まず、素直に受け入れるには、自分の精神状態などに左右されますよね? 「自分に100%瑕疵がある」と自覚している様な状態なら、自分も素直に謝罪出来るだろうし、逆に言えば、相手の叱責なども、「ご尤もです!」と、素直に受入れられるかと思います。 しかし「自分の言い分にも一理はある」と言う様な状態ですと、謝罪しつつも何か納得出来ない部分があるとか、相手の言葉を素直に受入れられない場合が多いでしょう。 そう考えますと、後は「盗人にも三分の理」ってヤツでしょう。 「自分に100%瑕疵がある」「一方的に自分が悪い」などと言う状態の方が、圧倒的に少ないワケです。 従い、相手の叱責・言い分などを、「素直に受け入れる」と言うのは、誰にとっても困難かと思いますよ。 ただ、そこで冷静になれるかどうか?じゃないですかね? たとえば「盗人にも三分」と言う様な場合、それは概ね「盗人側の理屈・事情」です。 「泥棒をしなきゃ餓死する」と言う状況にまで追い詰められたとしたら、非常に気の毒で、裁判上は情状酌量の余地にはなります。 でも被害者に対しては、盗人は100%悪い存在です。 だから少なくとも加害者に対し、「でも、泥棒をしなけりゃ・・」なんて言い訳しても、中には、被害者が「気の毒」と思い、見逃してくれる場合もあるかも知れませんが、基本的には無意味ですよね? 「盗人にも三分」は極論としても、「でも・・」「だって・・」などと言う場合(思う場合も)、多かれ少なかれ、「加害-被害の関係」では無く、「被害者の理屈」である場合は多いと思いますよ。 「被害者の理屈」を口にする方が有利な場合も有りますが、口にしない方が良い場合も多いです。 「思っても、口にしない」は、「素直に受け入れる」では無いですが、「素直な態度」です。 しかし、ソレが「普通」じゃないでしょうか? 自分が盗人の立場で考えた場合、「渇しても盗泉の水は飲まず」なんて言う立場を貫ける自信は無いですから。 かと言って、被害者に対し「じゃあ、アナタは私に『死ね!』と仰るんですか?」なんて言うのも、お門違いとも思います。 とは言え、自分だけならまだしも、もし愛する人などが居たら「泥棒をしてでも助けたい!」と言う気持ちは「当然」ではないか?と思います。 それに対し、被害者から「そう言う考え方は間違いだ!」などと言われたら、私は「それは曲げられません」と言うかと思います。 その「区別」をキッチリすることで、「受け入れるべき所は受入れる」と言う「態度」が取れるんじゃないでしょうか? 「罪を認めますか?」に対し、「はい。認めます。申し訳ありませんでした。」が、「素直に受け入れる」部分じゃないか?と思いますよ。 そこに「言い訳は有りますか?」とか、「アナタのやったコトは、100%間違いと思いますか?」を混同しちゃうと、「素直に受け入れられない」になると思います。 法律などの「理屈」は、万人に共通ですが、道徳などの「心」は個々に違います。 理屈に合わない部分は受入れ、自分の心に合わない部分は受入れない部分が有っても良いと思いますよ。 ただ、理屈に合わない部分は「素直に受け入れる」コトによって、自分の心が受入れられない部分も、徐々に「より正しく」変わって行くものではないでしょうか?

  • obi-6
  • ベストアンサー率46% (22/47)
回答No.4

理解して納得もしているのに行動が伴わないということは、どこかまだ納得できていない部分があるか、人からの指摘を本当の意味で理解しきれていない部分があるか、いずれかかと思います。 前者であれば、自分の中にある「そうは言っても…」という部分とよく相談しなければなりません。 そこに自分なりの哲学があって、このやり方が正しいというものがあるのであれば、日常の実践の中で自分なりのやり方と指摘されたやり方を両方使ってみて、どちらがより良いか検証することができるでしょう。 そうすれば、最終的にどちらを選ぶか自分で納得して、自分の中に落とし込んだ上で決められると思います。 後者であれば、発想を変えることが大切かもしれません。 自分の改善点を修正することが、人に媚びることや屈することではありません。 改善点が相手に極端に都合のいいことであればまだしも、あなたの場合は自分でも理解できるとのことであれば、一般的な話なのでしょう。 指摘はあくまできっかけであって、本質的にはあなたの中にあったものです。 であれば、改善はその人のためではなく自分のためにするものだということが分かるのではないでしょうか。 最後に、自分のために今の指摘されたきっかけを利用して改善しておくか、今後も度々指摘されながらも自分なりのやり方を貫くか、最終的にはあなた自身で決めるということは忘れないでください。 ご参考になれば…

noname#150824
noname#150824
回答No.3

>相手の言うことを理解して納得もできるのに >なぜか受け入れられないです。 「相手の言うことを『素直に』受け入れられない」 その理由は、主に 「自分の方が正しいと思っている」 「自分の方が偉いと思っている」 「相手が間違っていると思っている」 「相手を見下している」 「相手の事を嫌っている」 「相手のいうことを受け入れると、『負けた』気がする」 「      〃       、『損する』気がする」 「相手のいうことを受け入れないと、『勝った』気がする」 「      〃        、『得する』気がする」 「相手に、自分の我が儘を受け入れて欲しい」 という所です。 「素直になれ」 というのは、本来「言いなりになれ」という意味でも 「相手を言い負かす・押さえつける為の言葉」でもありません。 上記の様な「感情論」「主観論」「公私混同」等で、 「状況や立場を踏まえた対応・判断」よりも 「個人的感情・気分を優先した対応・判断」を取る者に対する 「成長を促す諭し」 として使われる言葉です。 「物事を素直に受け取る」とは、 「物事をあるがままに受け取る」 「主観を交えず、客観的に受け取る」 という事です。 「他人の言葉を素直に受け取る」とは、 「相手の腹を探らない」 「裏の意味(の有無)を考えない」 という事です。 さて、何故貴方は「相手の言うことを『素直に』受け入れられない」のか。 「それ」を言われた時、 「自分の考えの方が正しいのに」「相手の考えは間違っている」と思ったのなら、 「本当に、客観的に見ても、『自分の方が正しい』『相手が間違っている』と言えるのか」 「その根拠を『何となく』ではなく、きちんと言葉で説明出来るのか」 と、考えてみて下さい。 「『素直に受け入れる』と、『自分が負けた』『相手に見下された』気がする」のなら、 「何故、自分は『相手に勝たなければならない』『相手より上にいたい』のか」 「本当に、客観的に見ても、自分は『勝っている』『上の立場』なのか」 と、考えてみて下さい。 「(ある年齢の)子供が、親の言うことを『正しいと分かっている、理解して納得している』としても、『素直に』受け入れられない」 のは、「反抗期」だからです。 「自分の精神・内面や経験、知識、意見等は、既に『親と同等(以上)』である(と思っている)」 「しかし、唯一『経済面』『社会的立場』だけは、未だに『親の支配下(本当は、保護下)』にある」 「親に経済的に見放されたら、『社会的立場の弱い』自分の生活は成り立たない」 「『自分と同等(以下)』の親の言うことを聞くのは、『権力に屈する』ことである」 「自分は、全てにおいて『自分一人で』正しい行動を取る事が出来る事を、親に対して示したい」 「自分は既に『一人前の大人』である事を、親に認めさせたい」 「自分は、『言われたから』その行動を取るのではない。そんな『子供』ではない」 大体こういう感じで、「親(相手)の言うことを素直に受け入れられない」のです。 社会に出ても、ほぼ同様です。 相手の事を 「社会的立場は『自分より上』だとしても、人間としては『自分と同等か、自分の方が上』と思っている」 から、 「自分は、『相手に言われたから』行動を改める様な、『劣った人間』じゃない」 という気持ちがあるから、「素直に受け入れられない」のです。 「苦言(相手の言うこと)を素直に受け入れる」度量は、即ち「自分の成長する伸びしろ」です。 「相手の言うことが、本当に『素直に受け入れる必然性がない』と、客観的に言えるものなのか」 先ずは、それを考える所から始めて下さい。

noname#149600
noname#149600
回答No.2

受け入れる・・無条件に受け入れようとするから、苦しくなるのでしょう。 受け入れる・・前に、受け止める・・と言う手順があるのです。 その手順を無視するから、あるいは気付かないから・・今回の様な質問が出るのでしょう。 受け止める・・ああ、その様な考え方もあるのね・・と先ず、相手の話を聞く必要はありますね。 そして、それを自分は受け入れるか・・どうかを判断すればよいのです。 あるいは、ここまでなら受け入れる事がでる。 あるいは、時間が経過すれば・・などなどもありますね。 あるいは、受け入れなくともよいのです。 それは、その時々や、自分の気持ちをよく確かめる・・ 自分と向き合う・・作業も必要ですね。 また、前回同様な事を受け入れたが、今回は嫌・・も当然あってよいのです。

回答No.1

このテーマは、かなり複雑に考えがちですが・・・ 人間の本質をとくときに「素直に受け入れる」が使われることがあります。哲学的になると本当に難しい問題でしょう。しかし、視点を変えて見てみましょう。たとえば、人間関係を良好にする場合に限ってとすればどうでしょうか?私たちは一人では、生きてはいけませんね。これは揺るぎようの無い事実です。たまに、「何言ってんだい、俺は誰の手も借りずに一人で生きてけるよ」なんて言ってるアホなやつ、まあそんなやつはほっときましょう。で、この事実を柱に考えましょう。 地球上の全ての生き物は単体では生存し続けることは出来ません。何らかのかかわりをもってお互い様のように生きています。人間もその中の一つですね。何が言いたいのかというと、つまりは一つ一つは重なり合わなければ存在できないということ。で、全てがそれぞれ別の存在でもあるということ。私たち人間に限って考えてみても、誰一人同じ人はいません。言い方を変えると「誰一人同じ考えをしていない。」と言うことです。つまり、考えていることは人それぞれ違うということ。 ここから本質に入っていきます。人間関係を良好にするには、できれば争いを避けたほうがいいですね。しかし、それは不可能に近いです。考え方の違うものどうしがいるわけですから論争は起こるでしょう。そこで登場するのが「素直に受け入れる」という言葉です。この言葉の多くは力関係から来ることが多いです。社会の中で言えば、会社組織の中で上司が部下に対して、何らかの意見を言い合うときに上司が不利になったときに部下に対して「お前なぁもう少し素直になれよ」と言います。 ようは押さえつける言葉です。なので、部下からしたら納得はいかないはずです。納得がいっていないのですから理解しようとしても理解は難しいですね。残念ながら理解できてないものを受け入れるのには抵抗が生じます。なので、あなたが感じている違和感みたいなものが出るのは自然なことなのです。 ぼくの考えですが極論を言えば、素直に受け入れる必要はないと思います。それよりこの人はこんな考え方なんだ、自分とは違うけどこんな考え方もあるんだねって、あまり深く考えないで受け入れることにしています。そして、相手に言われたことを実践してみます。その過程の中で自分では気付かなかったことに出会います。良いこともあれば、悪いこともあります。良いことは自分の中に取り込んで、悪いことは捨てます。 >どうすれば受け入れられるようになるのでしょうか。 ちょっと複雑に説明してしまいましたが、素直に受け入れる必要はありません。そのような場面に出くわしたら「まずは、受け入れてみる」そして削除法で、自分には合わないと思えたらそれは捨てる。言葉を変えてみてください。「素直に」を「まずは」へ。きっと、何かが見えてくるはずです。最後に自分を中心へ置いてください。そのほうが人間関係が良好に運ぶことが期待できます。

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