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頂相のくつについて

僧の肖像でくつが揃えて前に置かれていることがありますが、なにか理由があるのでしょうか。教えてください。

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  • kamin
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回答No.1

こんばんは。 頂相には彫刻と絵画がありますが、いずれも沓(くつ)が置かれているものは台に座禅を組んでます。衣の裾が長いので普通に椅子に坐っているように見えますが、高台に乗るには沓を脱ぐのが自然でしょう。  頂相は、ご存知かもしれませんが、本格的な禅宗の輸入から始まりました。禅宗は教理を勉強して修法を行うことを主眼に置く宗派ではなく、簡単に言うと師から学んで印可(「お前は悟ったぞ」というお墨付き、または悟りの技術の免許証みたいなもの)を貰い、さらに自らの道を模索するものです。その印可として師の頂相を受けて法脈継承の証とし、また師が死んでも弟子達が尚、師の教えを忘れないために描かれる肖像画です。だから師を「仰ぎ見る」意味で、高台に乗る頂相が多いというわけです。  沓そのものの象徴性はよく知りません。ただ、如来や菩薩が素足で表現されることから類推して、師は尊敬すべき高僧ではあるけれどもあくまで人間であり、師の肉体を彫刻や絵に残すことから言っても非常に現実性を帯びています。仏としてではなく、威儀ある「人間」の代表として捉えられているのかもしれません。  いくつかの天部像(特に四天王など甲冑を着けるスタイルの像)も沓を履きますが、これもやはり如来や菩薩よりは格下なわけで、人間に近い存在です。  一方、高台に乗っていないものには沓は表現されません。だからといってその頂相のモデルが軽視されていた訳ではありません。唐招提寺の鑑真や東大寺の建立に大きく寄与した行基などの肖像は台には乗っていませんが、「生きた菩薩」として仰がれていたわけで、台の有無には時代の様式が大きく関係してくるでしょう。台に乗る彫刻が一般化してくるのは鎌倉後期から始まり南北朝・室町あたりで興隆してきますので、やはり禅宗の流入に伴った新様式と言えるでしょうね。

Mrs-Tiger
質問者

お礼

とても詳しいご回答をどうもありがとうございました。歴史的な背景からよくわかりました。今でもエライ人の写真や銅像を見ることができますが、わざわざ脱いだくつを描いたり置いたりということはないと思いますので、不思議に思っていたのです。信仰的なものの中でくつだけがどこか現実的で、理由が無ければあえて存在させないのではと考えました。当時の日本のお坊さんが実際にくつを履いていたのかはわかりませんが、くつを描くのがきっと中国から入ってきた様式だったのでしょう。

その他の回答 (2)

  • kamin
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回答No.3

>当時の日本のお坊さんが実際にくつを履いていたのかはわかりませんが、くつを描くのがきっと中国から入ってきた様式だったのでしょう。  多分、頂相に描かれている沓は法堂沓(ほうとうぐつ)かと思います。日本でもお坊さんが正装する時に履いてました。正装しているのだから、やっぱり足元に沓がないと不自然と考えられたのでしょうか。沓を描く様式は、日本に輸入された中国の絵のうち(不勉強で最古の例を挙げることはできませんが)、806年に唐で描かれた真言七祖像(東寺蔵)にすでに現れています。ご指摘の通り、古来の中国の装束と図像の影響によるものであることは間違いないと思います。

Mrs-Tiger
質問者

お礼

ほんとうに詳しく教えていただいて、どうもありがとうございました。あのくつに名前があったとは!…日本の絵描きさんも、?と思いつつ描いていたのかもしれませんね。気になってくつばかり見てしまうのですが、これからは「法堂沓、法堂沓」と頷いて見ます。ありがとうございました。

  • kamin
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回答No.2

申し訳ありません。訂正いたします。 >台に乗る彫刻が一般化してくるのは鎌倉後期から始まり南北朝・室町あたりで興隆してきますので、やはり禅宗の流入に伴った新様式と言えるでしょうね。  と書きましたが、台に乗る肖像画は鎌倉を待たずとも真言八祖などを初めとして、祖師像で描かれています。  なので、台に乗って沓を揃え置く肖像画が一般化するのは南北朝・室町あたりというのは間違いです。頂相の興隆に限っては、大凡その年代で合ってます。    その訂正部分を除いて、後をご参考として下さいませ。

Mrs-Tiger
質問者

お礼

丁寧にありがとうございました。

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