• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:美の乞食に問う:醜さとは何か?)

美の乞食に問う:醜さとは何か?

littlekissの回答

回答No.19

こんにちは、iacta-alea-est2さん。 Clouds always follow the sunshine. と「好事魔多し」とが同様なんだろう? ってなことは、まあいいんだけど… ●―――悔しがっても後の祭りです。自分で自分の首を絞めたのです。 ↑ キャー コワイ!Y(>< ;)Y その一口が… “ 禍福は縄の如し ” ぐるぐるぐる キャー 洗濯機をみつめ シンキングタイム! 「受難曲」 後の祭り… 祭りの後… 祭り… 謝肉祭 「大食」 (>×<)食べてません。 お口ミッフィー××× 【教会暦と音楽】 http://www.prmvr.otsu.shiga.jp/ensemblevoce/Bach/Bach20.html (1) 謝肉祭  時間を追っていきますと、謝肉祭に関しては礼拝用の音楽ではなく、お祭り用の音楽やユーモラスな動物の謝肉祭など多くの曲が書かれています。15世紀後半頃からの謝肉祭の音楽が今に伝わっており、メディチ家が全盛期を迎えていたフィレンツェではお祭り好きの市民が山車を作って町を練り歩いたといわれています。メディチ家の当主、ロレンツォ本人の歌といわれているものも残っており、「バッカスの勝利」という長い歌の歌詞では次のような言葉が繰り返し現われます。    幸福を求めたい者は求めるがよい、    明日のことはなにも確かではないのだから。  塩野七生氏によれば、この歌は何百年も歌い継がれ、日本で言えば明治時代の人がそれをイタリアで聞いて帰り、帰国後に吉井勇に語ったことがヒントになって、ゴンドラの歌が生まれたのではないかと考えられています。即ち、    いのち短し 恋せよ乙女、    赤き唇 あせぬ間に、    熱き血潮の 冷えぬ間に    明日の月日は ないものを という名曲です。  このような享楽的な時代は長くは続かず、厳格な修道士サヴォナローラによって、ロレンツォは追放され、謝肉祭のお祭り騒ぎも禁止となって厳しい節制の時代をむかえることになります。それでも、上の歌が伝わっていたということは、庶民はどこかでひっそりと楽しんでいたのでしょうか。 ●天使のように清く、愛のように甘いって、どうやって彼は飲んだのだろう ↑ これ、カップの中をみつめてる彼の顔が浮かぶなあ。 【ラテ・アート】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88 韓国ドラマ 「コーヒープリンス1号店」は必見でしょー http://www.showtime.jp/special/korea/guide/coffee/ 『志賀直哉「転生」論 : 小説形式の複合』 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004875512

noname#145704
質問者

お礼

>ぐるぐるぐる キャー うーぬ、リトルキスちゃん、喜んじゃって、もう! ドラマを観ているノリだなぁ。うん、放っておきましょう。ね? 傷を広げたら気の毒だから。運が巡り巡って、私も気の毒なことになるかもしれないんだから、ね。訳の分からないことは放っておくに限る。 >塩野七生氏によれば、この歌は何百年も歌い継がれ、日本で言えば明治時代の人がそれをイタリアで聞いて帰り、帰国後に吉井勇に語ったことがヒントになって、ゴンドラの歌が生まれたのではないかと考えられています。 うん、あんまし関係ないと思う。だって歌詞が全く違うんだもん。塩野さんは、私も読んだけれど、あやしいところが多いんだなぁ。もちろん、読者が自分で見抜けるはずだと思っているとかいうのかもしれないけれど。だって、命短し、恋せよ乙女、って西欧に似たような歌がいくらでもあるもん。 >これ、カップの中をみつめてる彼の顔が浮かぶなあ。 カップの中でタレーランは悪魔と天使を観たのかぁ。二つが混ざっているって、ゴシック調かな。 追記:読みかけだけれど、この志賀の論文も微妙っぽい。「形式」と言っているのなら、まず、その当時、どういう形式が流行りだったかを包括的に論じ、志賀の小説において、どのパターンが多いかを言及しなくてはならない。しかるに、こういうまとめは一切なく、誰でもわかることをダラダラ論じている。溜息。もちろんリトルキスちゃんに対してではないよ。えい、デコピン一発!

関連するQ&A

  • 気勢感をめぐって さらに 美とは何か?

     先般の   ( a ) 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html    の質疑応答を承け   ( b ) 【Q:非対称の美の鑑賞から】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7139296.html  を通過するかたちで 表題について問います。  § 1 いきなり 美とは何か?  (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――( a )のやり取りでは――捉えました。    (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。  孤独とは 孤独関係なりと。  (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?   (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき    わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ    れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな    る。     そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど    うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず    隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起    こさせてくれるものだということかと。  (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?  (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。    (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?  (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。  (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。  (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? これです。  (10) 言いかえると――質問者によるたたき台としては―― 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。  (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性として含むことにおいて その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えているはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。  § 2 具体的な美の鑑賞へ  (12) さて § 1の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) ( b )に挙げられている次の作品について われわれは では どう見るか?    ○( b ) ~~~~~~~   参考例  ( c ) 尾形光琳 紅白梅図          ( d ) 龍源院   枯山水石組の立石   ~~~~~~~~~~~  (13) ひとつの焦点は ( d )が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( c )がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。  《気勢感》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょう。  (14) ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。こういう出で立ちです。  * 質問者は 理屈はこねますが 美術史の素養もなく 個々の作品は画像で見たというくらいの知識と経験なのですが その非力をも省みずあつかましくもこのように問います。よろしくどうぞ。

  • 世界的な美の基準について

    質問失礼します。 批判覚悟で書き込んでいますが、第三者視点で俯瞰した回答をいただけますと幸いです。 また、当方に白人至上主義・人種差別の意図は一切ありません。 ・質問→世界的な美の基準は、やはり白人圏にありますよね? 仕事とプライベートを兼ねて八年ほど海外(東欧・北欧中心)におり、時折帰国していた者です。 先日、本帰国いたしまして空港に降りた途端、周囲の方々を見て愕然としました。(※自分も例に漏れず日本人なのは百も承知です) 所謂コーカソイドと呼ばれる人間達に囲まれすぎていたせいで、恵まれた体格・長い手足・堀の深い顔立ちがデフォルトの光景だった当方は、国内の様子に違和感を覚えました。何度か一時帰国していた際も同様の所感を持ちましたが、今回は明確な感情として意識してしまいました。 美の感性はそれぞれという意見は頷けますし、東洋の美・西洋の美、それぞれ違った趣があると思います。 しかし個人の趣味嗜好とは別に、生物の本能的な部分に「不動たる美しさの基準」が刷り込まれていると思うのです。ヒトは一般的に、左右対称の黄金比率を好むといいます。 それが、冒頭で質問した世界的な美の基準は白人圏にあるということに帰結します。 また、海外暮らしで感じた違和感の他に、国内でも感じた事を以下記載します。 国内で暮らし海外旅行にもあまり行かない身内は、日本の芸能人の美しさを世界のマジョリティのように語っています。それに感化され数年ぶりに視聴した国内テレビは、男女問わずみな似通った顔立ちの芸能人ばかりが出演していました。 それぞれのお顔立ちを拝見すると、本当にこれは暴論だと思いますが"いかに白人の要素に似ているか"が鍵なのではないかと感じました。 また、整形についても同様です。 コンプレックス解消のため・自己満足のためなど様々な理由があると思いますが、大体の人が小顔・大きな瞳(二重)・高い鼻・細い顎をのぞみ施術を受けられる方が多いと聞きます。日本人が整形をしてまで手に入れたいものを、白人は生まれた時から既に持ち合わせています。 上記の要素を並べて俯瞰すると、やはり美しいと定義される基準は白人に多く当てはまると思います。 ここまでお読みいただきありがとうございます。 上記について、皆さんはどう思われますか? さまざまな意見をお聞かせいただけましたら幸いです。 また、繰り返しますがこれは人種差別を意図したものではなく、興味本位から質問しています。

  • 可愛い女の子は全く体臭が臭くないイメージですっ

    勿論可愛いや綺麗には様々定義はあるかと思いますが、まぁ大体の方々が普通以上かなと感じるであろう女の子についてです。 自分はぶっちゃけ美少女といえる女の子と付き合った経験がありません。自分的には一時期は可愛いと感じただけな結局美少女ではないなと思える女の子しかないです。で、その過去の彼女皆さん共通して言えたのが口臭や足の臭さがありました。足が特に。 でも、街中で見かける小柄な可愛い女の子とか一部のアイドルなんか見ると絶対臭くないイメージしかありません。 体臭って容姿は無関係なのでしょうか?実際のところ知りたいです。 例(ミス○高ベスト3に選ばれた女の子いたけど臭かったみたいな…)

  • 2chネルのスレッドで>>77や>>777を取るのが仕事だと言い張る人

    2chネルのスレッドで>>77や>>777を取るのが仕事だと言い張る人がいて困っています。 どうもこの人は無職らしく毎日朝から晩までスレッドに張り付いています。 そして>>77や>>777といったキリ番を取ろうとして荒らしています。 しかも本人はそれを仕事と言っています。 どうやら本気で言っているみたいです。 この人は精神的な病気なんでしょうか? どうやったら外に出て働くようになりますか? 本当に将来が心配なので何かアドバイスお願いします。 例として、こんなこと言ってます。 仕事は仕事 例え金を稼がなくても仕事という例は多々ある と証明しただけ お前のいう「仕事」の定義が俺のゲットの仕事に 当てはまらないだけで世間では、それも 仕事と言われる わかったか?

  • 美術解剖学について

    人に頼まれたレポートで、美術解剖学について、書かなければいけなくなりました。より良く、人体を描くために、人体の中身に迫る学問であるという、定義は分かりました。具体例を提示して、2000字程度のレポートを書きたいです。どなたか、助けて下さい。お願いします。

  • DQNという言葉…

    最近よく「DQN」、「DQN親」という言葉を耳にしますよね。ブログや掲示板でもこの言葉を書いている人はたくさんいらっしゃいます。そういった方々のお話を読むと、「DQN」という言葉の意味は、例からニュアンス的にはなんとなくわかるんです。 しかし、私はこの言葉の正確な定義が知りたいのです。辞書に載っているような説明でなくてもいいのですが、「DQN」とはこういうものだということを、その言葉を初めて聞く人に説明するときに、わかりやすい定義をどなたかくださいませんでしょうか。よろしくお願いします。

  • 《いきほひ》の美は 縄文人の火焔型土器が原点か?

     * 世の中にスサノヲ人間語での発言が登場したことに乾杯を挙げつつ 再度質問します。  § 0  まづ資料です。  (α) 火焔型土器    http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about02.html  § 1 まえがき――行儀と物分かりとがよいわるいということ――  《 Stay hungry, stay foolish.》というのは 一時的なブームを起こすにはよいでしょうが――または 一時的なブームを一つひとつ永遠に重ねて行くのによいかも知れませんが―― それでもそれは それぞれの分野で同時代に二人か三人で足りましょうから(または もっと多くの人数を必要とするという場合にも その探究する主題にもよりましょうから) そうは言いませんが  そうは言いませんが それにしても 近々の情況では 世間にはお行儀がよくしかも物分かりがよいという文章が多く見られるようになりました。    昔は――ほんの一年前くらいまで―― 回答と称して 罵詈雑言から誹謗中傷まで話にならない文章が多かった。いまもそれは途絶えてはいませんが さすがアラシ屋さんにしても 今では敬語を使うようになっています。《哲学カテから出て行け》やら《おまえの ID を剥奪してやる》やらは 日常茶飯事でしたが 最近 様変わりしたように見受けられます。  行儀がわるく物分かりがよくないのは だめなのか? これが この質問の趣旨のひとつです。  § 2 あやまちうるスサノヲ人間語(生活語)とあやまたざるアマテラス人格語(科学語ないし役人言葉)  行儀のわるい文章例を出してみます。スサノヲ人間語につうじると見ている場合です。  (β) 《次の作品は 果たしてうつくしいか?》 ~~~~~    ( a ) 尾形光琳      紅白梅図    ( b ) 大徳寺龍源院   枯山水(方丈前の石庭)  ( a )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。  右側に描かれている紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。  色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。  けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは 洗練されたアマテラス人格語の成熟度を表わしましょうか。  ( b )は 真ん中の島がなぜあるのか? と感じます。苔や草が生えていて まわりの石庭とは別の世界をあらわしているのでしょうか? つまり意図的にそうしていましょうか? その必要がないように思います。石だけでいいように思います。  正面の奥に木々が植わっています。これも 構図に入れるのなら もう少し何とかならないものか? 活かすなら活かすで もう少し何とかならないか。中途半端に感じます。  そして 周りを囲む塀ですが けっきょく隣の塔頭か何かの家が見えていますので これもわざと見えるようにしたのか?  木々は無しで 塀を高くして 小石の地面といくらかの大きい石(もしくは小岩)で織り成す庭だけの世界をつくったら どうか?   それにくらべるなら 竜安寺の石庭は ふつうに落ち着いているように感じます。落ち着いている中に ふつうにスサノヲ人間語としての気勢をも感じ得ます。塀の壁の色がよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~  § 3 縄文土器を鑑賞するにあたって 美についての作業仮説  (γ) 《美とは何か?》 ~~~~~~  (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――以前の質疑応答(*)では――捉えました。   * 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html    (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性(間主観性)ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。  孤独とは 孤独関係なりと。  (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?   (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき    わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ    れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな    る。     そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど    うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず    隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起    こさせてくれるものだということかと。  (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?  (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。    (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?  (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。  (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。  (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? に及ぶ。  (10) 言いかえるとこの場合 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。〔一つの言語における人間語(日常語)と人格語(科学語)とのあたかも二重構造か〕。  (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性としては当然のごとく含むのであって その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していて発揮しうると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは法律用語のごとく無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えていてよいはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。  ~~~~~~~~~~~~~  § 4 間奏曲  ちなみに § 3の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) § 2(β)のふたつの作品を鑑賞してみると どうなるか?   ひとつの焦点は ( b )の枯山水が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( a )の紅白梅図がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。  《いきほひ(勢い)》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょうから 果たしてそれをめぐってそれらの作品からどんな感覚を受け取るか?  § 5 果てさて 縄文土器をわれわれはいかに見るか?   ――将来への息吹きにつうじるか?――  とは言っても ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。そしてここでは この土器の世界を取り上げました。  こういう出で立ちなのですが ひとつには スサノヲ人間語の《いきほひ》は 何も躍動感などの動のかたちにのみあるとは限らないのであって 静のかたちにも・あるいはそうとすれば磨かれ切ったアマテラス人格語にもとづく作品にも見られるはずではないか? という観点を持ち それをも問います。  来たるべき(と思われる)日本のルネサンスに向けて 美とは何か? どういううつくしきものが求められるのか? ご教授ください。

  • 乞食なら乞食らしくすればいいのになぜ態度がデカい?

    金金金金金金金金金金金金金金金 金金金金金金金金金金金金金金金 金金金金金金金金金金金金金金金 と、日本統治時代から日本に金を せびって100年以上が経つ、あの国は 乞食根性丸出し・・・ あげくに領土を盗み、仏像も盗むしかも 司法がそれを認める始末w 日本の西にある乞食国家 乞食らしくすればいいのになぜ態度がデカい?

  • 乞食

    昔は食べるのに困っている人が個人の住宅まできて何か恵んでもらえませんかと お願いにきたりしているのを見たことは,あります,しかし大人になってからはそのような 事は聞いたこともないし見ることもなくなりました,しかし河川敷にいったりすると ホームレスと思われる人たちが大勢いたりするのはよく見かけますし,お店の 周辺を何をするでもなく徘徊して何か落ちていないかいったりきたり不審な行動 をしている汚い服装で旅行でもしているのかと思えるぐらいな荷物を持って いる人を見かけたりします。  日本人はプライドが高いので他人にお願いしてまで,何かを恵んでもらうことを いえないような社会になってしまったのでしょうか。  宜しくお願いします。

  • 乞食はなんのために生きているのか?

    自分の中でホームレスと乞食は違うと思います。 乞食は、本当に見た目もボロボロで長年に渡って髭も服も髪も生やしっぱなし 残飯漁って、町なかずーとボーとしている人です。タバコの吸殻拾って吸っている 本物の乞食 喋ることもしない 乞食同志のつながりなく生きている人を見かけます なぜ、生きているんでしょうか?乞食目線でお願いします。