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江戸時代、中野区にあったお囲い場について
綱吉の政策によって、今の中野区に犬10万匹を収容するお囲い場というのが作られたが、綱吉の死後、その収容所は廃止され桃園に変わった、ということをnhkのブラタモリで聞きましたが、そこにいた犬たちはどうなったのですか。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>そこにいた犬たちはどうなったのですか。 10万匹いたのは最盛期で、6代家宣が将軍になった頃は、お囲い小屋を造ってから14年経っていて、8万匹位 だったと言われています。 お囲い小屋が廃止になると、約半数は殺傷処分されましたが、殺傷処分にも限界があり、半数は野放しとなりました。 中野村で殺傷処分されたことから、人々は気味悪がって寄りつかず、その後、囲い場は原野となり、将軍家の狩場としてのほかは、何の利用もされませんでした。つまり巨大な「空き地」になったわけです。 その後、空き地にしていてはもったいない、と言うことから、桃などの果樹園となりました。 廃止後すぐに桃園になったわけではありません。 また、野放しとなった犬たちはというと、ごくごく少数は庶民が飼うこととしましたが、大部分は野犬となりました。 まだまだ、その頃は中野村で空き地や田畑の地でしたので、犬は野犬になったとしても、江戸の庶民には危害がなく、江戸の街へ流れた犬もいたでしょうが、ほとんどは中野村近辺で特に人に危害を加えることもなく野犬となっていました。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 >>当時はどのような方法で処分していたのでしょうか。 現代のように「農薬」や「毒ガス」などはありせんでしたので、 1匹1匹刀で切り殺しました。 従って、役人の方も殺傷処分には限界があり、約半数は野放しにせざるを得ませんでした。 何せ、10万匹とも8万匹もいましたから・・・。
お礼
ご回答ありがとうございました。なんとも、かわいそうな話です。
- oska
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>綱吉の政策によって、今の中野区に犬10万匹を収容するお囲い場というのが作られた その通りですね。 当時も今も、世界最大の犬小屋です。 旧津山藩が、幕命によって土木建築を行ないました。 が、10万という数字は「眉+唾」です。 実際は、犬小屋に収容した犬の累計に過ぎません。 >そこにいた犬たちはどうなったのですか。 殺処分です。 市中に放す事は、出来ませんからね。 国営犬小屋機構を事業仕分けで廃止しても、直ぐに犬小屋が無くなる訳ではありません。 役人が失業しますから・・・。 昔も今も、公務員は身分が安定しているのです。 地元採用で派遣社員・契約社員は、解雇されましたがね。 1.病気の犬は、即刻処分。 2.元気な犬は、犬追いの的。 3.子犬などは、里親探し。 それでも残った場合は、殺処分でした。 中野村といえば、当時高遠藩の内藤家新宿屋敷の近所ですよね。 宿町が近いですし、治外法権の内藤家の領地でもあります。 「無条件で逃がす」事は、ありません。 甲州街道一帯が、野良犬だらけで治安が悪化します。 こんな事は、幕府としても望みません。
お礼
くわしいご回答ありがとうございました。当時はどのような方法で処分していたのですか。また、犬追いの的とはどのようなものですか。
- mekuriya
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さあ、分かりません。もしかするとリビアのカダフィ大佐みたいなことになったかも知れません。
お礼
ありがとうございました。
お礼
くわしいご回答ありがとうございました。当時はどのような方法で処分していたのでしょうか。