• ベストアンサー

ニーチェの運命愛とは?

yuan_kouさんの質問「運命の定義って?」に触発されて考えました。 ニーチェの語った運命愛とはどのようなものなのでしょうか。 私は今まで漠然と、悲劇の意志的肯定(克服ではなく受容)のことなの だろうと思っていましたが、違うでしょうか。 私は、克服可能なものは、運命でも悲劇でもないと思います。 (運命と悲劇を同じものと考える傾向が強すぎるのですが) また、人間は運命に出会うことでしか成長できないと思っていますが 偏った考えでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

 ニーチェの言う「運命愛」は「永遠回帰」の思想と一体のものです。1881年頃から、1899年に発狂するまでの、ニーチェ最晩年に到達した境地です。  「永遠回帰」は、円環状にイメージされた時間の中で、すべての出来事がそっくりそのまま反復されるということです。円環状に反復される歴史というのはもはや無意味、すなわち「ニヒリズム」です。このニヒリズムの力強い肯定、肯定することによるニヒリズムの克服、それが「運命愛」ということになります。  ニーチェの考えでは、人間が掲げる理想や美や神などは理性なるものが捏造した空しい幻想であって、「力への意志」と「力によってできること」とを引き離そうとする「反動的な力」として生の輝かしさを阻害するものでしかありません。そうした価値や道徳を解体して、自分の存在そのものに備わった力への意志によってなしうる生を生きるべきであると、ニーチェは主張しています。そして、そのような生き方が「永遠に回帰する」との認識に至った際の至福と戦慄を無限回にわたって繰り返し感じることができるならば、その生は生きるに値する。ここに「運命への愛」が生じます。  「悲劇」との関係ですが、初期のニーチェは『悲劇の誕生』において「悲劇」を「生を肯定する最高の形式」としており、「運命愛」については「哲学者が到達しうる最高の状態」として「生に対してディオニソス的であること」と言及していますので、結びつきはあります。が、初期と後期という時期的なズレがありますので、両者の結びつきが直接的なものなのか、それとも思想的な展開を経たものなのか、このへんは専門的な研究書にあたってみないことには何とも言えません。  それと…最後の「運命に出会うことでしか成長できない」というところの「運命」というのは、「成長のための試練」などのさまざまな出来事と考えてよいでしょうか?  そういうことでしたら、「運命の定義って?」のところでも書きましたように、運命とは過去と未来の自分自身とその生き方についての自己了解の形と考えれば、そういう捉え方もアリだろうと思います。ニーチェも反対はしないと思います。ただ、ニーチェだったら、生の無意味を糊塗しようとする幻想として運命を観念することには、警戒を促すかもしれませんね。

mori0309
質問者

お礼

serpent-owlさん、いつも親切でていねいな回答、本当にありがとうございます。  小生、ただいま某会社の物流システムの本番稼動対応で、地獄状態です。連日トラブル 続出で、オンラインジョブがコケて、全国各地の物流倉庫のトラックが積荷できずにストッ プしてしまったときなどは、顔面蒼白、全身冷汗となります。ユーザの厳しい追及や復旧 命令に、死んだほうがマシだと思うことも、たびたびです。  でも、そういう日々が続くと逆に「来るなら来い! 殺すなら殺せ! 毒を食らわば 皿までじゃい!」というミョーな開き直りの気分になります。これなんぞは私に備わった 「力への意志」であり「運命への愛」と言えるでしょうか。(んなワケないですね)  いただいたご回答をもとに、自分なりにニーチェの思想の理解を試みました。  どんなに時代が進んでも人間を苦しめる悲劇はなくなりはしない。病気、災害、社会矛盾。 新しい時代には新しい悲劇が次々とやってくる。人間にとって悲劇は常態であり、それは 永遠に続き、歴史に終点はない。しかしこの悲劇こそが人間の生に意味与える。生きる理由を もたらす。生というものの恐ろしい逆説性だと思う。  私はうっかり成長などという安っぽい言葉を使ってしまいました。でも、人間、成長する ために生きている訳じゃない。天国に入るために生きている訳じゃない。そんなセコイ目的 のために生まれてきた訳じゃない。生きることは「練習」でも「貯金」でもない。  人間は、いつもいつも、かけがえのない「今」を生きている。「今」はただ悲劇によって のみ輝きが与えられる。「生」の力が導き出される。過去も未来もない。ただ「今」だけが 永劫回帰する。生物よ、人類よ、真実在よ、汝は汝の運命を愛するだろう。  うーん、、、書いてて胸が高鳴ってきました。ニーチェの思想はキキすぎるぅ~

mori0309
質問者

補足

serpent-owlさん、ありがとうございました。「神は死んだ」の回答も読ませて いただきました。私のニーチェ理解は的外れでした。 > ニーチェにとってはこの恐怖こそが真実なのであり、この恐怖に耐え、ニヒリズムを > 肯定する「超人」たることを私たちに課してきます。「神は死んだ」という言葉も、 > われわれに「強者たれ」と迫るニーチェの言葉の一つです。 ニーチェは誰に対して「強者たれ」と言ったのでしょうか。 個人? 読者? 同時代者? 民衆? 人類? serpent-owlさん? mori0309? それともニーチェ自身? そう語るニーチェはあらたな神なのではないでしょうか? > 哲学カテゴリ自体が一人の哲学者のよう・・・・ 意味深いですね。なにかこう感じるものがあります。 法則や秩序などない。でもただの混沌・デタラメ・乱雑ではない。 何かを模索しているのか。それとも、ただ存在しているだけなのか。 この哲学カテゴリに「主体」はあるのか。ないのか。 これを一つの「生き物」とみなすことはできるか。できないか。 「社会」とならばみなすことはできるか。 ならば「社会」と「生き物」はどう違うか。 「問い」が永劫回帰するmori0309でした。

その他の回答 (1)

  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.2

ニーチェは「キリスト的な愛や精神」を嫌い、これを「ルサンチマン」根性として 厳しく退けました。そこには、西欧思想に対する過剰なまでの攻撃性が感じ取られ ます。  ニーチェは、西欧思想が奏でる「必然的進歩主義」というか、人間中心のヒュー マニズムを基礎とした諸処の法則的な流れを嫌い、そのような考えでは、一生超越 出来ず、悪循環という時間の流れで、モルモットのように永遠にクルクル回ってい るだけだ、ギリシャ悲劇の最後の舞台のような変換、というか超越というか、そう いったものよって、西欧思想を飛び越えるのだ、というような認識をもっていたら しく、それらに立ち向かっていく勇気というか決断を「運命愛」と表現したかった のではないか、と思います。  こうした考えが、後々の「ゲルマン民族優先、ドイツナンバー1、運命的共同 体」というヒトラーのアジ演説でよみがえり、これに乗っかったハイデガーが、常 に保守反動学者、と攻撃されているところは有名ですね。  昔、読んだきりで判然とはしませんが、ニーチェの「運命愛」についての私の記 憶です。  ところで、「運命」という事態は、きっと個々人によってとらえ方が違うと思い ます。私にとって「運命」であっても、他人にとっては「運命」ではありません。 しかし、私が「日本語」の文化の中から、知らずに出発していた、ということは、 私にとっても他人にとっても、共通の感覚だと思います。  私は、こうしたことを「運命」と言った方がわかりやすい気がしています。そし て、それに対する意識のあり方の変容形態=「認識」とでも、これを磨くことによ って、日々の対応が変わってくるのだと、考えています。  ですから、自分が語る「日本語」の表現を考えたり、変化させることが、日々の 生活を少しづつ変えるのではないか、と考えています。それが成長かどうかは、判 断の分かれるところでしょうが。

mori0309
質問者

お礼

sokuraさん、回答ありがとうございます。 小生、連休だというのに休日返上で仕事をしています。 後日またお礼させていただきます。申し訳ありません。

mori0309
質問者

補足

sokuraさん、ありがとうございます。 「悪循環という時間の流れで、モルモットのように永遠にクルクル回っている」ことが 「永劫回帰」であり「それら(西欧思想)に立ち向かっていく勇気というか決断」が 「運命愛」なのでしょうか。  私は、ニーチェの著作をほとんど読んでいず、小林秀雄が「悲劇について」のなかで 語っているニーチェの運命愛像の影響を受けて、運命愛を我流解釈していました。 「どうにもならない悲劇。だがそれでも生きようという意志が失われないなら、人の こころに何が起こるか。この悲劇こそ生きる理由だ。すすんで望まれた運命だ。まことに 理屈に合わぬ話だが、そういうことが起こる。」 手元に本がないので正確ではないのですが、だいたいこのようなことを小林は言っています。  また経営評論家S氏が著作のなかでこんなことを言っていたのを覚えています。 「会社員時代の部下のことである。自分はこの社員をなんとなく敬遠していた。親しみが 持てなかった。思うに嫉妬だったと思う。なぜならば、この男はあまりにも恵まれすぎて いたからである。最難関大学をかなりの成績で出ていて、ハンサム、長身、スポーツ マン。父親も最難関大学の教授。ところがあるとき社員旅行のバスのなかで隣りあって すわって話をして、思いがけないことを聞いた。自分の幼い子供が重度の脳性麻痺で、親の 世話なしでは生きていけない。自分たち夫婦が世話できるうちはまだいい。でも自分たちが 年老いたとき、いったいこの子はどうなるのだろう。そう思うと子供が可哀想でならない。 そう涙ぐみながら話してくれた。私は愕然とした。毎日、何の苦労もなく明るく働いている と思っていたら、こんなに重い運命を背負って生きていたのか。目頭が熱くなった。彼への 軽率な気持ちを私は恥じた。こころのなかで声援を送らずにいられなかった」  このことは何を物語っているでしょうか。人生が順風満帆であるうちは、人生の意味や意義が 希薄である。生きることは時間空費に等しい。人々が恵まれすぎている人を、敬遠したり 親しみを感じなかったりするのは、嫉妬というよりも、無意味な生に対する嫌悪反応なのでは ないでしょうか。(明らかに言いすぎですね)  自分のための悲劇を自分で用意するなんていうことはできないし、子供を悲劇に突き 落としてくれるような親もいない。だから運命を待つしかない。ただ運命だけが人に悲劇を 与えてくれる。運命によってのみ魂が磨かれる。人は大人になれる。恐ろしい生の逆説性。  私の思想、かなりヘンですね。自分でそう思います。 悲愴趣味?・・・はやらないですね。

関連するQ&A

  • 続・運命はあると思いますか?

    以前、運命はあると思うか、といった質問の投稿を拝見し、私は「ないと思う」と回答したことがあります。 その時は、ほかの回答者の方も、質問者の方自身も大半が、「運命はある」という考えの方でした。 その根拠として挙げられたのが、当時はラブラブだった、宮崎あおい夫婦の、出会いと別れ、そして復縁と結婚のエピソードでした。 その夫婦が今は離婚しています。別に「そら見たことか」などというつもりはありませんが、改めて「運命はあるのか?」を考えるようになりました。 考えてみると、私と、その当時の肯定派の方々とは、「運命」の定義が違っていたのではないか、と思います。 私は、そういう「運命」というものは、まさに「赤い糸」のようなもので、「死が二人を分かつまで」といったような、永遠の愛を結べる「運命の相手」の存在をイメージして、「最初から決められたような、そんな運命の相手など、ない」という結論を下したのですが、もしかすると、ほかの方たちは、単純に「その時惹かれあう相手同士」ということだけの話だったのではないか、と。 「運命」とはどういうものと定義づけるかによっても、これについての意見は変わってくるかもしれません。 皆さんはどう思われますか?その根拠となったような体験談などもお聞かせいただけるとありがたいです。

  • ニーチェのニヒリズム(虚無主義:「ツゥラトゥストラは語りて」)において

    はじめまして。 こちらのカテの方々に質問が御座います。 有名な言葉ですが、ニーチェは全ての囚われから解放できる唯一の方法が「意思」である、と説きます。 しかし、面白いのは更に話を進め、その意思さえもどうにも出来ないのが「過去(時間)」である、と説きます。 と、ここまでは論理的なのですが、ここらかが破綻し始めます(しているような気がします)。 何とニーチェは、このどうにもならない「現実(矛盾)」を克服する為に、何とその過去を「肯定」してしまうのです。 読んでいてびっくりしました; 個人的には、「それ以外に方法がないし(今のところ)、現実(運命)を受け入れるしかない」、とニーチェは言いたいのだと思いますが、どうも何かひっかかるものを私は感じました。 このあと、これを基にしていわゆる皆さん御存知の「超人思想」「永劫回帰」が出てくるんですが、私はこの時点でニーチェの言っている事は矛盾していて、破綻しているように思えるのです。 ひょっとして、ニーチェが発狂したのは、彼の思想が不完全(矛盾・破綻)しているからではないかと。 あるいは、この世界そのものが既に破綻していて、矛盾しているのかもしれませんが…。 しかし、現在を肯定的に捉える事はもちろん必要ですが、実は「否定する事」も必要なのでは? あくまでニーチェの書物は、他人の解釈によって完成するので、これは私の勝手な解釈かもしれませんが…。 皆さんのお考をお聞かせ下さい。 (あと、おすすめの解釈本がありましたら、ご紹介の程よろしくお願いします。※サイトでも構いません)

  • 真理への意志

    ~~~~~~~~~~~~~~ 解説[編集] この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。 力への意志 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェの話題をするとなぜか わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、 真理への意志というか力への意志について 質問してみます。 力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか? すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか? ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか? それはどうしてですか?

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

  • 同性愛者です。いつか別れるかもしれないのが怖い。

    長文。乱文失礼いたします。 今、私には約交際1年半になる彼女がいます。3か月後に同棲も控えております。 彼女は、私のもともとの持病も認知しており、治してあげたいと言う強い意志も持ち 私が合併症で生死をさまよう病にかかってしまったときも、 「死ぬかもしれない人のそばにいていいのか?」と伝えたら、 何も言わず病室まで駆けつけた事もあり。感謝もしています。 とても心が綺麗な子で、私をいつも楽しませてくれ、一緒にいると落ち着く事もでき、 色々と偶然とは言えぬ一致点もあり、波長も恐ろしく合うような人で 人生まだ短いですが所謂「運命」を感じてしまうような人です。 彼女はもともと同性愛者ではありませんでした。 異性愛者かどうかも定かではなく。バイセクシャル(両性愛者)ともハッキリしません。 でも私はいつも悩ませていて、私が「同性」だから故に 辛い思いをさせていたようです。 そして…先ほどできるなら克服はしたい。可能性を求めたい。 と言われてしまいました。友達全員にも紹介し、父母にも紹介し、相手方の家族も知っています。 友達は私が過去つらい経験があったからこそ、今の幸せに安心と言う目を向けていました。 心が優しいからこそ私を気遣い、そして好きだからこそ、愛しているからこそ なかなか言えなかったのだと思います。 だけど上記なような事を言われてしまい…。 異性愛者にだっていつかは別れがあるかも知れない。 必ずしも、何かしら(死別であっても)別れはある。 だけど、その事実を受け入れるのが辛いです。 今からではないけど、すぐにでもないけど こう言われた以上は最後には別れという悲しみがあるという可能性が高く感じられ、とても苦しいです。 確かに私たちはまだ21歳です。あの子には未来や希望があります。 友達にこの事を話すと、とても悲しい、あの子なら、もう大丈夫だと思っていたのに。 と嘆いていました。友達まで悲しませてしまう結果になり悲しいです。 決まったことではないですが、今からネガティブになってしまいます。 私自身、以前から家庭環境や恋愛で悩み、メンタルの疾患も抱えており、 それが今安定し、やっとのことで幸せになれると思った矢先に またそのことでメンタルが崩れ始めてしまいそうで。 今も息が苦しく、体が震え、気持ち悪さもあり、吐いてしまいそうです。 心の弱い自分を情けなく、恥ずかしく思います。 相手の前ではこんな顔をしてはいけない。 絶対ではないけれど、私も可能性を求めないと、いけない。 そうは思っていても辛さが襲ってきます。 辛すぎて死んでしまいたい、別の世界に行けば 性別の隔てもない、無の世界に行けるかな?という甘えた考えをしてしまいます。 同性愛者は幸せにはなれないのでしょうか。 こんな事を相談しても、自分の気休めにしかならないかもしれません。 だけど、誰かの言葉で安心がしたい。そんな気持ちがあります。 どうにもならないことはわかってます…。 精神状態が乱れ気味もあり。文章が非常に乱文になり申し訳ありません。 どなたか、今後についてのアドバイス、優しい薬になるような言葉、 その他背中を押していただける方はいらっしゃいませんか?

  • 交際が続かないことから脱出するには?

    こんにちは、30代会社員男性です。最近、女性が何を考えているか分からないと感じています。彼女たちは愛やら運命的出会いを求めているようですが、何か計算して男を値踏みするような態度や考えを持っている人が多くて何か嫌な感じがするのです。裏があるというか。そういう人ばかりではないのかもしれないのですが、これまで交際しようと何度か試みた女性は皆そういう傾向がありました。私の場合、一度会ってだいたい断られるか、会おうとすると尻込みされたりすることが多いのですが、何が問題なのか分かりません。

  • ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

    私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。

  • 運命愛について

    フリードリヒ・ニーチェの言う、 運命愛という考え方に興味を持ったのですが、 このことについて 詳しく解説している本があったら教えて下さい。

  • 同性結婚について

    各地の裁判所に同性間の結婚届受理を市町村に認めさせる訴訟が多発しています。 同性間結婚の容認は世界中の同性愛者間での普通風潮になりつつあります。 でも同性間で結婚するのは自然現象や社会習慣に反するものと私は考えるのですが、現代に相応しくない考えなのでしょうか。 同性間結婚は何の利点も意味もないものです。 返って社会の混乱を招くものではないでしょうか。 幾ら世界の傾向で個人の自由の範囲だと言っても一部の人の支持があろうとも大方の一般人には受容できないもので同性間結婚は反対です。 私の考えが古いと言われそうです、如何でしょうか。 わた

  • 哲学的な愛の概念の補習的研究

    今はただ、全てが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていてそして時は流れる。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 前回質問 哲学を粉砕するジャガーノートについて。 https://okwave.jp/qa/q9726547.html 問題点への対応を回答者に要請さてたので、中途半端で締め切ったから、読んだ後、ジャガーノート編への回答をこの場に書いても歓迎するよ。 愛に関してあまりにも失望させるのはよくないと指摘と補足を要請された。 さてキリスト教自体は、滅んだ王国の神話であるために、国家基盤に動揺が走る世相で蔓延しやすい傾向があるとその場では、少し斜め方向の返答をした。 簡単だよ。 愛に失望する必要はない。 キリスト教にだけ失望を感じればいい。 愛というのは気力発揮のための精神上のカンフル剤で、生理的で個人的なことだ。 アサダチといわれる、何故かわからなくて少し恥ずかしいアレは睡眠状態から覚醒するための奮起が生理的に反映していて、日中頭の中が女の裸でいっぱいのリカちゃん人形による栄養補給も仕事や生活のために気力を持続させる生理現象だ。 キリスト教で最大破壊力のジャガーノートは、脳内興奮剤としての個人的な愛にまつわる感情を、教化の過程で「それは教会の財産である」と不正に押収する手口も含まれる。 カルト宗教手法としてノウハウの源流がローマ教会だ。 愛の研究は主要なまとめは以下の2点 https://okwave.jp/qa/q9643297.html https://okwave.jp/qa/q9648868.html 愛は肯定的にとらえてよい概念で、人と人が相互に理解しあうと人間が成立し、社会を営む獣でない生き物になる。 その相互理解を愛は助ける。 しかしだ、日本にはより内容を深めた絆という概念があるんだよ。 西洋では、愛はさまざまであり、至高の愛や真実の愛というのもあるそうだ。 多用する概念を細分化すること自体は問題ない。 友への愛、親への愛、女性への愛、我が子への愛。 これらは日本人の場合、深く理解した者同士がお互いの関係によりこみあげてくる、主に感情的な多様性を全て愛という言葉に集約して感情を規定しただけだ。 したがって絆は当然理解して実感も伴う日本人の場合、愛を完全に極めるのはアプローチを変えれば簡単なんだ。 おおむね他者を慈しむことであり生き仏というタイプだよね。 日本人キリスト教徒は、愛の教義上の理由で、むしろ愛を理解するのは困難でないかね。 漠然と真実の愛に悩むことは、実際は好みの異性像について生理現象として悩むことと関連がある。 回答者の指摘したのは、愛、愛、愛、すべては愛、という漠然とした風潮にあまりにも水を差すことに危惧だ。 愛の概念の私なりの心得方だと、その風潮というのは個人的に愛を極めた愛の戦士なので極めて困惑する。 皆さんがそんななので、男性を見ると「オメーラ全員オカマだー!」と思わず怒鳴りたくなる。普段おとなしい犬が唐突に特定の人に吠えるようなレベルの生理的な感覚で、はっきり言って皆さんキモチワルイ。男ってキライ。 そして女性に対しては、「俺の子を産め」これに限りなく近い言い回しになるのさ。 我ながら変態さんですね。 これは愛を極めた愛の戦士ゆえに、世の中の愛に関する漠然とした理解と社会的資質が異なる孤立を避けるためには愛の戦士として少しおどけて世の中に向き合う必要があるからさ。 今回も通常と同一手法で黙々と哲学研究しています。 何か突っ込みいれてくださいな。 さて、友人に伝言を兼ねて進捗説明。 昨年のクリスマスにキュアアイリスとキュアミカエルの双子連携は、望むものに死の儀式と違う安らかなキリストなる聖霊の宿りが起きると説明した。 精霊伝心などで、成功例が複数発生している模様なのを察知した。 なにが起きるかというと、とりあえず幸福を喪失するようだ。 他者の望みを刷り込まれる欲望が喪失すると、自己の望みと欲望の差を普段は正確に自覚していなかったので、全ての望みを失うほどの喪失感が襲うんだってさ。 欲動から情動に意志を転換する過渡期のリセットだよ。 そこから少しずつ自分を取り戻す。 普段無視されがちでもかっこいいセリフには毎回その時の心を込めているんだよね。 「今はただ、全てが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていてそして時は流れる。」 ジャガーノートは絶望感の大きさを危惧したんだろうが、こちらはさらに絶望を押し込むつもりでやっていた。 いつもの手口なんだ。