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鉄甲船について
第二次木津川口の戦いの際に活躍した鉄甲船。 その後も使われていたのでしょうか? また朝鮮の役の際も鉄甲船を大量に建造して 海戦に用いればよかったのではないかと思うのですが それをしなかった理由はあったのでしょうか?
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信長が使用した鉄甲船は大阪湾を封鎖した際にも使用されています。これは石山本願寺に対する毛利水軍からの補給ルートを遮断する目的だったとされています。 朝鮮の役とお呼びになっている文禄・慶長の役は秀吉政権の問題であり、信長の時代にそうした意図があったかどうかは歴史学上では議論にもなっていません(議論するほどの意味もありません)。信長の海外戦略はあくまでも国際貿易による財政構築を視野に入れたものであり、秀吉などとは質も異なります。 ここで呼ばれる「鉄甲船」は幕末の黒船とは異なり「船に鎧を着けたような代物」のことで、幕末に見られる黒船が遠洋航海が大量の人員や物資の輸送を目的とするために砲門を設けていたものとはわけが違う。一隻の旗艦に対し巡洋艦や護衛艦を配置する形をとるならば、軍艦としての機能を持つ船は一隻であっても問題はありません。むしろ機動部隊をより効率的に配置することで戦略と意図を明確にすることができることとなります。 長期戦ともなればそれなりに人員や食糧も必要となります。信長が石山戦争で使用した手法は「短期決着」が背景にあり、それは同時に全国に並立していた有力大名との戦争にも対応が迫られていたこともあります。それまでの中世的な寺家や公家を支配下に置く意味での本当の武家政権の構築を意図するならば現代のアメリカの第七艦隊のようにスウィング戦略が求められ移動がスムーズに行えることが必要条件と考えられこうした選択となったと考えるのが実情に近い、と理解出来ます。
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- misawajp
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大変な勘違いがあります 木津川口の戦いの際の鉄甲船の目的を調べてください それと当時の製鉄製鋼技術のレベルも 木造船に火矢避けの鉄板を貼っただけの物が鉄甲船です 薄い強固な鋼板など製造不可能なために、重くなりさらに重心が上がり非常に不安定になります さらに小回りの効く運用などできません、ですから投入できる戦局は非常に限定されます そして、玄界灘を渡ることなど不可能です また 大量に生産することなど望むべくもありません それが、質問の解答です ジグソーパズルの抜けている分は、調査推測して補完してください
お礼
回答ありがとうございます。
- pri_tama
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文禄の役の時に、九鬼嘉隆が用いた大安宅船「日本丸」、およびその姉妹艦数隻が、実は鉄甲船だったのでは?と言う説があります。←作成者が同じですから…。 (なお、船名は偉容に感じ入った豊臣秀吉が命名したとされる。) まあ、どちらの艦も詳細が微妙ですから…。 なお、日本丸は『志摩軍記』によると、数度の海戦に九鬼水軍の旗艦として参加し、朝鮮勢の攻撃を寄せ付けないその偉容ぶりが記されています。 その後、無事に日本へ帰還するも、幕府による船舶上限の所為で、500石積み60挺立の船に縮小改造されてしまいました。 なお、徳川秀忠が建造を命じて、徳川家光の時代に完成した将軍用の御座船「安宅丸」(別名「天下丸」)は、推定排水量1500トンで船体・上構総てに銅板を張った化物軍船だった様です。 (記録に残る鉄甲船よりもはるかに巨大…。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
お礼
回答ありがとうございます。
その後の活躍を記した歴史資料がないため不明な状態です、一説にはしばらく後に解体されたとも・・・・・というか鉄甲船自体そもそも存在していたかどうかも怪しまれているくらい。 朝鮮に持っていかなかったのは、当事はまだ防錆技術がないため、塩分を含む海での長期使用はサビてしまう可能性が高かったとか色々考えられます。
お礼
回答ありがとうございます。
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