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現代アート

芸術は高い内的精神性を持つというのはデュシャンまでの時代における古い幻想、現代では通用しない幻想にすぎないのでしょうか? アートという語は芸術が纏う価値判断的な(いわば高尚な)イメージを払拭するために使われだしたとききます。しかし今日では(も)アートに対し様々な偏見が向けられているように思いますがどうでしょうか? 仮に芸術に明るくない人が芸術に対し抱く高い精神性が、現代アートにおいては誤っているとされるのなら、現代アートはどういった価値を目指しているのですか? 私は特に現代アートに対し否定的ではありません。判断もしかねるほど勉強不足なので。

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回答No.1

芸術は、合理性や経済性とは一線を画した、人間の感性の 特性を探求する学問、ないしスポーツだと言えば分りやすい でしょうか? 意識的な判断や生理的な感覚に直接的に支配されず、 そうした経験の蓄積において、感性の中に発生する歪みと しての“美(=直観的な“快”的な方向性)”を前提とした造形 なのです。 高くも低くもありません、内的な自然(脳生理)です。

morn5088
質問者

お礼

なるほどわかりやすく応えていただきありがとうございます。 では芸術に関わる行為は、なんらか知性感性の洗練・身体能力の発達に繋がる。対して芸術が本質的であるが故にその人の人間性や徳が陶冶される、という認識はズレているということでよろしいですか。 考えてみれば私は芸術と宗教芸術を混同していたようです。まあ、このような誤った認識は割と通俗的かと思いますが…。 すっきりしました。

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