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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.40

もありがとうございました。 > ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。 
 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。
  ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]
 
  実を申しますと、愚生にはわかりません。もしかしますと、そもそも、これらの比率等は、自然に由来するもののため、人類の歴史以前から存在するものかと推察されます。従いまして、これら比率等から、安定感を感ずるというのは、アプリオリなるものなのかもしれません。 
> ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。
  ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。
  はい、一般論と致しましては、愚生もそのように考えております。自分がその美しさに魅せられたならば、他人ともその美を分かち合いたいという衝動が出てくるというのは、自然と思うからでございます。 > そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。 
 ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。
  愚生は分かれるものと解してございます。  例えば、カントの言葉を借りますと、あえて、こちらからの積極的な美の探究心を持たずとも、美はやってくるのに対しまして、後者は、むしろ、積極的に、分析を試みる作業であるからでございます。 > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?
  19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。  
> ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。
  ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?
  ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。
   > ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。
 についてさらに話を伸ばします。あるいは 
 ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?

  ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~ 
  ~~~~~~~~~~~~~
  ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。 

 かなり、端折りましたが、1から8までは当然のことと考えております。そして、以降の問題でございますが、

 >  9.そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。
  10.これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。 
 11.この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?
   うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーされ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰ることとなる。
  ~~~~~~~~~~~~~
  これらの問題につきましては、形而上学的問いが含まれておりますが、突き詰めますと、どうしましても、形而上学的なものも含まれてくるように考えております。  「既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る」、意見を等しく致します。さらに申しますと、本当に美と感ずるものは、既成概念や先入見を飛び越えて人に訴えかけてくるものと考えております。そして、これは、もちろん、主観内での受け止めでございます。10に関しましては、評論等の第二次作業もふくまれるかもしれませんが、内なる心において、さらに深化されることは当然ありうることかと考えております。 > 《わたしがわたしであること》。
 《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?  普遍的”美”に至ことはないかもしれません。しかし、少し基準を緩和させ、「ほぼ美しいとされるもの」につきましては、おおやけに通じる可能性はじゅうぶんにあろうかと推察してございます。 

> つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?
 アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
  
 アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。  もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。  そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。 
> エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
 タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。  愚生が知らないだけかもしれません。ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。 
> ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。

  実を申しますと、”美”を、フッサールのイデア視したもの、という単純なものでございました。申し訳ございませんでした。
 
> ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。
  そうでございましたか。了解致しました。 
> 《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?
  これは、”実験”の変換ミスによるものでございました。深くお詫び申し上げます。
  以降、続きを述べさせていただきます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 次のNo.41のご回答のほうでは この上ないお褒めをいただいたと言ってもよいように思うのですが こちらでは 基礎についての認識でおおむね一致し 応用編ではまだまだ 考えを練って行かねばならないと思いました。  ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  次の表現によくないところがあったと思います。  ☆☆(No.38補足欄) ~~~  7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?           《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》      とイエスは言う。   ・・・  11. この単純な推理とその薄い根拠〔* つまりは イエスなるナゾの無根拠の問題〕にもとづき こう言えまいか?     うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が    大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知    覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向    性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ    れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ    ととなる。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人びとが《わが宝あるいは美》へとおもむくところに 《わが心》があり そこには キリスト・イエスがいるというのは そこでわれは 神に出会うという意味です。  むろん 主観内の ヒラメキとしての――マボロシのような――直感および直観においてという意味ですから 明証性はないのですが それでも 当人にしてみれば その《出遭い》によって――マボロシのうちに―― その美が わが心にかなうものだと確認できたり いや それは美でも宝でもなく むしろ醜悪であり負債であるとさとることが出来たりする。のではないか?  この話のキモは 《美を見るところに わが心があり わが心があるところには キリスト・イエスがいる》ということ つまりは 《ほんとうにわが心にかなった美であるかどうかは 初めは分からないが たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる》にあります。  なにやら 同行二人のようになってしまいました。イエスに出遭えるというところを ご同朋つまり人間としてもよいようにも思えます。  おそらく 現象学プロパーとしては あくまで一人のわたしとしての主観の内部でそのような気づきや見直しや練り直しが 反省の繰り返しとしておこなわれると主張するかとは思われます。  ただ 一人のひとの能力は限られているとすれば そして出遭う相手は神でもなく仏でもなく同朋でもないとすれば ちょうどまだ湯気が立っているところの・《地平》という概念装置をおそわったように 環境における何らかの事物や事象が まだ見えていなかったのに見えて来るというかたちにおいて きっかけになるのではないか? こう考えました。  (それを ふるめかしい言い方では そこにイエスがいて ひとはかれに出遭うのだと――あぁ 抹香臭いですね―― 言っていました)。  ★ ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。  ☆ この用語は もうあまり伸展性はありませんか? どうでしょう? エポケーとかけ離れているわけではないと思われるものですから。  ★ ~~~~~   アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。  もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。  そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。  ~~~~~~~  ☆ お叱りを受けました。  つまりもし未練があるとすれば 例のブディズムに出てくる蓮の花のたとえのように あやまち得る自由にしてむしろ自由奔放なるスサノヲ人間語の中から その根としては アマテラス科学語およびアマテラス人格語が 生じてくるのではないか? こういう見通しを持てないかというものでした。  ぎゃくに言いかえると スサノヲ人間語に根を張らないから アマテラス人格語も科学語も とんでもない陥穽が作られてしまうのではないか? (科学語は どうなのでしょう? 根を張る必要はないでしょうか?)  ★ ~~~   ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。
  ~~~~~  ☆ 確認しました。  ★ ~~~   > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?
  19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。  ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。  そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。  ~~~~~  ☆ なるほどですね。文芸評論でしたら 評論とそれが対象とする作品と 両者とも 文芸であると思われます。音楽評論は 作品じたいの評価と 作品の再現(演奏)についての評価とに分かれるのですね。同じ曲についてピアノかバイオリンかといった楽器の違いによっても 評価が別のものになりましょうか?  比率などについて 美と感じるアプリオリなものがあったとしたら――つまりそれが 科学によって分かったなら―― おもしろいかも知れません。

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