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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.37

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 


> ★ 生活世界
   ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。
  概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っております。 
> ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」
  ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか?  炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。
  でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
   まず、温暖化問題を外させていただきますが、そもそも数式を用いたシミュレーションなるものが、嘘っぱちであったというものと考えております。つまり、温暖化が大前提のまま、それに合致するように作成されてしまった可能性があろうかと推察しております。実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・  そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。    最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづくご回答をありがとうございます。  ★ 実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・  ☆ そういう問題でしたか。《誤差範囲を±5℃等にしてしまえば》 予測とは言わないということですね。  ★ そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。  ☆ あらためて留意してまいります。  さてフッサールについてしばらく放ったらかしにしていました。  原文を翻訳で読んでみたいと思います。  ▼ (世界の構成) ~~~~  1. (最も広い意味での しかし純粋に生活世界的な意味での)世界の意識と事物ないし客観の意識とは一面において不可分な統一をなしていながら しかも両者の意識の仕方には根本的な相違がある。   ☆(ぶらじゅろんぬ) ふむふむ。世界と事物ないし客観との比較ですか。同じようなものに映ります。事物は事象としてその全体が 世界であるように見えますし それらについての客観ということになりましょうし。  2. 諸事物ないし諸客観(常に純粋に生活世界的な意味に理解されたこれら)は われわれにとってそのつど(何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして《与えられている》のであり しかもそれらは原理的に 世界地平のうちにある諸事物 諸客観としてのみ意識されているのである。   ☆ 特に何かが言われたという感覚が起きない。   ▼ 《与えられている》   ☆ これは 受動性を言うのだろうか? すなわち 能動性は その所与のものごと〔の意識〕にもとづき そのあとまさに生活として一歩を踏み出すというかたちなのだろうか?   ▼ (何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして   ☆ この表現がよく分からない。明証性があるものとして という意味だろうか?   ▼ 世界地平   ☆ これも分かるようで 必ずしもはっきりしない。《わが視野》といった意味だろうか? だがそれだと視覚に限られてしまう。心の・概念世界の視野もふくめればよいのだろうか?  3. それぞれの事物は何ものかであり しかも常に地平としてわれわれに意識されている世界《に属する何ものか》なのである。   ☆ そりゃあそうだろうと反応してはいけないのだろうと思われる。が・・・。  4. 他方この地平もまた存在する諸客観に対する地平としてのみ意識されているのであり 従って特別に意識されている諸客観がなければ 地平もまた顕在的には存在しえない。(『危機』H.VI,146)   ☆ 《事物の意識》は すでに早いうちから 《客観の意識・客観としての意識》であるのだろうか? つまりむろん この客観は 主観のうちにおさめられているのだと思われるのだが よく分からない。  ▼ (同主題) ~~~~  5. 意識は これを純粋に考察すれば それ自身に完結した存在関連 すなわち何ものの侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連であると見做さなければならない。(・・・)   ☆ 必要がないと思うのだけれど。   (あ) 《純粋》の度合いが 定まるとも思えない。   (い) 《意識自身に完結した存在関連》・・・何とも奇妙なもののように感じる。   (う) すなわち《何者の侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連》・・・同じく分からない。侵入や逸脱を許しても もし存在の核としての《わたし》――その意識――であるならば ほぼ絶対的な存在の動態であるように推し測られるというのに。  6.他方 人間や人間としての自我を従属的な個別的実在者(レアリテーテン)として包含する空間‐時間的世界の全体は それ自身の意味からみて 単なる志向的存在であり 従って《意識に対しての存在》という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない。(『イデーン』H.III,117)   ☆ 《世界》が 《〈意識に対しての存在〉という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない》とは どういうことか? 《それ自身の意味からみて》なら むしろ志向性なる意味関係として 一次も二次もないと思われるのだが。  主観が 第一次ないし基本だというとしても だから世界は二次だというのだろうか? そんなことを言っても どうなるものでもないように思われるのだが。  ▼ (〃) ~~~~  7. しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり その固有の意味での客観的世界としての世界は 単に私に対してだけではなく 誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・〕   ☆ こうなると 主観は その基本的要素としての《わたし》において 互いに共通である(あるいは 通底している)ということになる。のではないか?  8. 構成的な経験としての世界の経験というのは ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく 共同体的経験 Gemeinschaftserfahrung のことであり 世界それ自身は意味的には 《原理的にわれわれの経験を〈交換〉することによって すなわちわれわれの経験を共同化することによって それについての相互理解を獲得できるような同一の世界》である。   ☆ 主観の共同化 共同主観であるにほかならない。ではないか? これは 感性の次元における共通感覚を基礎とすると言ってよいと思われる。  ただし 主観の共同化は なかなかむつかしいはず。ひとつには おそらく時代や地域による制約が まだまだ まだまだまだまだ 大きくのしかかる。  ひとつには 共同化を果たす前に そもそも人びとの意思疎通が成り立つと言えるのかの問題がある。  ひとつに 意志疎通が成ったとすれば 確かにそのあと細かいところまでを共通の認識および判断形式としなくてもよいかも知れない。  ひとつに それにしても まだまだ いわゆるふるい共同観念ないし共同幻想が あたかも観念の共有として共同主観と同じであるかのごとく錯覚する壁がある。  共同観念とは 地縁および血縁によって仲間となるそのかたちを言う。早く言えば ナショナリズムである。《何々人》あるいは《どこどこの人》を 言わば《生活世界の客観》と見做しそれを言わば人びとのきづなとするかたちである。この共同化に従うならば けっきょく一人ひとりの主観が生かされるのではなく 主観は 誰か一人(あるいは上層の人びと)の主観糾合とその空気によって どこかへみちびかれる。ことになる。  9. 《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(『論理学』FTL.209)   ☆ 共同観念の壁を突き破り 互いに主観を共同化してゆかねばならない。それは 一人ひとりの主観を大事にするという意味での民主制において つねにどこまでもつづく道のりだと考えられる。  ~~~~~~~~~~~~~  

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