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Witness

 聖書で時折、Witnessということばが出てまいります。  これは証明者、根拠者。根拠たるもの。  という理解することは不適切でしょうか?  どうか教えてください。

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  • cincinnati
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回答No.2

聖書でこの言葉が用いられる場合はある人がなにか重大なことを体験したり、目撃したときに、目撃したという意味及び目撃した者という意味で用いられるのがもっとも多いのではないかと思います。 例えばI was a witness to Jesus performing some miracles.「わたしはイエスが奇跡を行うのを目撃した目撃者でした。」などと名詞として使用する場合と、動詞として使用する場合があります。I witnessed that Jesus was crucified on the cross.「イエスが十字架に付けられたのを私は目撃した」というような使い方です。 おそらくこのような言葉は拡大解釈されて用途が広がっていると思いますが、基本的にはなにか事件が発生したり、なにか特筆すべき人が居て、それを見たり、その状態を体験したりするときにwitnessという言葉を用いると思います。 従いまして、何かを体験したり目撃したりした結果何かの「証明者」になることはあると思いますが、その目撃の対象者としての「根拠や目撃の対象」とは意味の上から少し距離があるように思います。 I was a witness to Jesusという文章の場合、イエスが目撃の「対象であり、根拠」ですが、a witnessである私は単にその場に居あわせてイエスを見つけた者に過ぎないと思うのですが、いかがでしょうか。 余談ですが、目撃者という訳も実際は少し異なるとおもいます。英語で目撃者はおそらく" eye witness!"という言葉がありますので、むやみに目撃者というと訳しすぎとなってしまう場合があると思います。

krya1998
質問者

お礼

 有り難う御座います。やはり、自然としては“目撃”、“見ていた”、そして“証しの人”ということなんですね。  従って、(“立脚”根拠や基盤)というには、意味の広がりとしても少し距離があるのですね。  やはり、あまりに意訳になってはいけませんね。うぅん残念ですが諦めて理解をしなおします。  有り難う御座いました。

その他の回答 (1)

noname#202494
noname#202494
回答No.1

実際にバイブルスタディの時などにウィットネスという言葉を使うときには、 実際に自分の人生と神の行いが交差したことを実感できるような経験したときに、それをためらわずに周りの人に話して共感を分かち合うことを言います。 仏教で言うところのお蔭話のようなものですが、もっと強烈な体験談が多いです。 例えば、軍隊経験のある一人息子が、妻の元夫を射殺してしまったとき、殺人者の親であるご夫婦は最初は悲嘆にくれますが、収監された人たちの家族がいかに精神的に追い詰められてしまうか体験し、自分達の教会で資金を集めて、”囚人の家族たちの必要に応じて援助してゆく会”を作りました。困難に立ち向かうことで人間として成長してゆけることを”ウィットネス”する本を書き、その収益も援助の会に寄付されているということです。 現在のアメリカでは、そんな風に使われている言葉です。

krya1998
質問者

お礼

 有り難う御座います。  どうもそのような意味での使い方ではないようです。A4、2000pほどの本ですが。その889ページにあるものです。Self-Realization Fellowshipという団体のバガヴァッド・ギータでの超越的神と創造の神をせつめいしている部分です。  PURUSHA, THE LORD'S TRANSCENDENT PRESENCE in creation as the Kutastha Intelligence and the individualized soul, and Prakriti, Nature, indicate示す,表すtwo aspects of the same God. He is causeless and eternal; therefore His manifestations as Purusha and Prakriti are also beginningless and endless. 0889 The Lord in His transcendental or inactive aspect in creation (Purusha, the Kshetrajna or Witness) and the Lord in His immanent kinetic aspect as the Creator of the universe and beings (Prakriti) are not two but One: the Supreme Spirit, Ishvara, Para-Purusha.  キリスト教文化圏におけるヒンドゥ教のせつめいですので、聖書の神学的説明にあわせているとと存じます。どうぞよろしくお願い申しあげます。

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