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鎌倉時代末期の廷臣、日野俊基の命日について
日野俊基は、元弘の乱で再び捕らえられ、鎌倉の葛原岡で処刑されました。 しかし、その処刑の日は、ネット上で二つにわかれています。 ウィキペディアでは、両方の日付が記述されています。 単純な混乱だと思います。 (質問) 日野俊基の死亡日は、いつでしょうか。 元弘元年(1331)年6月3日ですか。 それとも、元弘2年(1332)年6月3日ですか。 よろしくお願いします。
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河出書房新社発行の「日本史年表」によれば、元徳3年(1331年)5月5日「日野俊基・文覚・円観ら捕えられる(元弘の変)」、翌、正慶元年(1332年)6月3日、「幕府日野俊基を葛原岡で殺害する」と書かれています。 上記の年号表記について、補足しておきます。 1331年8月9日に元徳から元弘に改元されています。 当時の情勢では、後醍醐天皇は元弘元年(1331年)8月24日に京から出奔したため廃されており、9月20日光厳天皇が即位し、翌、1332年4月28日には年号も元弘を廃して正慶に改元されました。 正慶の年号は後世北朝の年号とされていますが、時系列的にいうなら、その時点では北朝という限定的なものではなく、正式なものだったと思います。 ただ、後醍醐天皇は、その後も続けて元弘の年号を用いていたという事実はあります。 そして1333年、鎌倉幕府を倒した後、5月17日、後醍醐天皇は光厳天皇を廃するとともに、正慶の年号を止め、もとの元弘に改めています。
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- izuhara
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回答No.1
角川の『日本史辞典』では、捕らえられた翌年の元弘二年に処刑されたと記述しています。 ウィキペディアの記述を確認しましたが、確かに捕らえられた直後に処刑されたかのようにも読めますが、元弘元年に処刑されたと明確に記述しているわけではないようですね。