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日本史 混乱しています

受験生です 日本史で混乱しています 鎌倉時代の政治機構と室町時代の政治機構の違いを詳しく教えてください もう混乱して全く分かりません 室町時代の政治機構を見ると六波羅探題、鎮西探題と似ているような役職が見当たらないのですが鎌倉時代にあった六波羅探題、鎮西探題は室町時代までに滅んでしまったのですか?

noname#137537
noname#137537
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質問者が選んだベストアンサー

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noname#140269
noname#140269
回答No.1

まず、六波羅探題ですが、1333年、後醍醐天皇の時代、鎌倉幕府執権政治の末期に消滅しています。故に室町時代には無かった事になります。復活もしていません。 一方、鎮西探題ですが、同じく1333年、後醍醐天皇の時代、一時消滅しますが、室町時代に入ると、九州地方統治の為に、「九州探題」と名を変えて再登場してきます。ですから、室町時代には名称は変われど同じ役割を担う部署があった事は事実で、継続していたと言えましょう。 端的に言えば ●六波羅探題 = 鎌倉時代まで。室町時代には存在せず ●鎮西探題 = この名称は鎌倉時代まで。室町時代には「九州探題」と名を変え存在 という事になります。

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  • kusirosi
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回答No.3

混乱するまでもない、教科書参考書落ち着いて一読すれば、すぐわかること(^-^)/ ・鎮西探題 これは簡単  九州探題  九州探題は九州統治を担当し、李氏朝鮮との外交なども行った。後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が京都奪還に失敗して九州へ落ち延び、少弐氏と共に多々良浜の戦いで宮方の菊池氏らを破り、東上した際に一色範氏を大宰府に残したのが始まりである。  一色範氏、直氏、足利直冬、細川繁氏、斯波氏経、渋川義行、今川了俊らが、 南朝勢力の制圧にあたった。後 渋川氏の世襲となり、戦国時代 渋川氏が滅んだ後 大友宗麟が任ぜられたことがある。 ・六波羅探題 鎌倉幕府が、京に朝廷勢力監視のために置いたのが六波羅探題。 室町幕府は、京に置かれたので、わざわざ置くまでもないが、 性質が似ているものとしては、京の室町幕府が、東国当地の要に 鎌倉に派遣した鎌倉公方が、あげられる。

  • tanuki4u
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回答No.2

鎌倉幕府はどこにあった? 鎌倉にあった。 なので、その出張所は 京都の六波羅探題とか 九州の鎮西探題とかをおいた 室町幕府はどこにあった? 京都にあった。 なので 京都に出張所があるはずない、本社なんだから。 ということで逆に 鎌倉に 鎌倉府をおいた 九州には九州探題をおいた なんで鎌倉は鎌倉探題とか言わないの? 鎌倉府のTOPが室町将軍の弟から始まり、探題よりは偉いだろうというので 府 とした。

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