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悟りとは

悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • furi-kusu
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.2

わたしは、高校が宗教系のところだったのですが、そこで授業の一環として聞いた逸話をはなしますと、悟りとは、というのは唯一ブッタがひらいたもので、仏教では、ほかに悟った人の話はきいたことがありません。しかし、ある意味悟った人がいるとすれば、親鸞上人が(ちがったかも?)悟りの境地にたっするために荒行をしたが、いっこうに悟れず、「人間だけの力じゃむりだ」といったひとがいた。(親鸞じゃなかったかも?)これを軸に考えると、まさにブッタ(唯一無二の人)だったのだという結論にたっするのでした?  一応こんなかんじでした。参考にしてください。ちなみに、これは浄土真宗東本願寺の話だったようなきがします。なんかメチャクチャになってすみませんでした。

taropoo
質問者

お礼

悟りを開いたのはブッダただひとりと言う見解ですね。 対立意見が出てくるかどうか楽しみな所です。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • vip
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.7

 PHP新書「自我と無我」-個と集団の成熟した関係ー岡野守也著を紹介します。660円です。

taropoo
質問者

お礼

情報提供ありがとうございます。 機会があれば読んでみようと思いますが、せっかくの知的財産の蓄積を目指す教えて!gooです。 ご面倒でなければ、その中で「悟り」についてどのように書かれていたのか、この場で教えていただけませんでしょうか? 知的所有権の侵害に当たってしまうと困るので、vipさんの解釈でで結構です。

taropoo
質問者

補足

>みなさま ご回答頂いた方々、ありがとうございました。 1週間様子を見ましたが変化がありませんでしたのでこの辺りで締めさせていただきたいと思います。 もうちょっと様々な見解を期待していたのですが今一反応が鈍くてちょっとガッカリしています。何でだろー??? 結構面白いテーマだと思ったんですがねー。

  • fwappy
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.6

なんか下の回答を見るかぎり、悟ったというより イッちゃった人の話みたいですね。 ちなみにイクだけなら**でもイケます。 もっとも、肉体をつかってイクのは邪道とかいって あくまで精神だけでイクのがいいのだとかいってる 人もいますが、そういう人は多分早*でしょう。

taropoo
質問者

お礼

一服の清涼をありがとうございました。

  • hb875
  • ベストアンサー率8% (1/12)
回答No.5

悟りとは存在を開始する前の状態のこと。よって悟った人というのは理論上実在しません。非存在界にいる未来の世代だけが悟りの境地にあるのです。私達には彼らの悟りを妨害する権利はありません。

taropoo
質問者

お礼

新興系の宗教の方ですね。 一意見としてありがたく頂戴しました。

  • kageri
  • ベストアンサー率29% (5/17)
回答No.4

すみませんが、以下の点にだけ回答させていただきます。 >他の宗教でも似たような概念はあるのですか? 応用宗教哲学と称した団体(scientology)に、「クリア」という概念があり、それは「悟り」と似たようなものだと思います。 信仰している友人に話を聞いたことがある程度なので、私は詳しいことはわかりません。私が知っていることは、「ダイアネティクス」という本に詳しいことが書かれていて、東京(大塚)に日本の本部がある、ということです。 興味がおありでしたら、ご自身でお調べになるのが吉かと思います。

参考URL:
http://www.mediaworks.co.jp/alt/000/text/sa.html
taropoo
質問者

お礼

情報提供ありがとうございました。

  • orimoto
  • ベストアンサー率32% (130/406)
回答No.3

【お礼への追伸】 >視床下部のA10神経からドーパミンが放出されて快と感じ ると言う話を聞いたこ >とがあります。 これはぼくもNHK3チャンネルで見ましたが、創造的なアイデアが、無意識の世界から生まれて来るという話しです。 >その、奥に入って行った時の状態がどんな状態なのかに興味があります。 これは認知科学や脳生理学では未解決のテーマのようですが、次の本は無意識の世界を論じた面白い本ですよ。 ■藤岡喜愛『イメージと人間』NHKブックス 著者は、精神人類学の人です。

taropoo
質問者

お礼

ありがとうございました。参考にさせていただきます。

  • orimoto
  • ベストアンサー率32% (130/406)
回答No.1

ぼくは経営コンサルタントなんですが、会社経営でも「理念の浸透」のように、これに関連したことが、よく問題になるんです。 そこでいろいろ調べてみたら、認知科学では、人間の知覚というのは、知覚→意味付け→納得→悟り と、だんだん潜在意識の方に深く入って行くと考えているのだそうです。脳生理学でも、追求がなされているようですよ。 これはご質問の宗教的、哲学的「悟り」ほどは深くないとは思いますが、哲学って科学的に理解できないことを考える学問という側面もあると思います。 場違いなお応えですいません。

taropoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 > 人間の知覚というのは、知覚→意味付け→納得→悟り と、だんだん潜在意識の方に深く入って行く その、奥に入って行った時の状態がどんな状態なのかに興味があります。 脳生理学からのアプローチもお待ちしております。 例えば人は愛されたと感じた時、視床下部のA10神経からドーパミンが放出されて快と感じると言う話を聞いたことがあります。 悟りを開いた人の脳の中では何が起こっているのでしょうね?

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