失敗恐怖症について

このQ&Aのポイント
  • 失敗恐怖症の特徴とは、注意されることで自己否定や劣等感が強くなり、それが長くひきずることです。
  • 捉え方を変えるためには、自分の強みや成長できるポイントに焦点を当てることが重要です。
  • また、毎日の生活で少しずつ挑戦することや前向きな言葉を心がけることが役立つでしょう。
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  • ベストアンサー

失敗恐怖症です

大学生です。 注意されると、その瞬間、自分が存在ごと全否定されていると感じてしまいます。 何か失敗したときも、周囲の全員から嘲笑されていると思ってしまいます。 失敗した、次から気を付けよう。言われるうちが花、これでいいはずなんですが、そういった「馬鹿にされている」とか「自分はだめな奴」という劣等感が、注意された瞬間、一気に一瞬で溢れだし、抑えられず、2日はひきずります。 少しずつ変えようと、注意されたら、「これに気を付けたらもっと自分は成長できるよ」と言い聞かせようとはしたり、 苦手なこともあるけど得意なこともある、嘲笑されたとしても部分だけ、などと唱えようとはしてるんですが、 急騰した劣等感がすぐに押し流してしまい、なかなかうまくいきません。 完璧な人間はいませんが、自分は完璧でないと家族にすら見捨てられる馬鹿にされる、という恐怖が先走ります。 特に厳しい教育を受けたわけではないはずですが、教師の家庭の第一子なので、無意識に厳しさを感じていたのかもしれません。 病院では性格の問題と言われましたが、自分では自己愛性人格障害の気があるように思います。少なくとも、プラス思考に切り替えづらいんです。なにか、全部明け渡すような気がして逆に不安になります。 このような前提なのですが、捉え方を変えるコツを教えていただけると助かります。 行動や思考の具体例を添えていただけるとなお嬉しいです。 お時間を割いてしまい申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.10

同じようなことで悩んだ経験者として感じたことを書かせていただきます。 私の場合も人からちょっとしたことで注意されても、自分の全人格を否定されたように感じてしまい、落ち込んだり、辛い思いをすることがよくありました。 また、頭ではこうすれば良いと分かっていても、思うように体がついてこないという経験もよくしました。 私の場合は、これ以外にも、人前で緊張し言葉が出てこなくなってしまうとか、顔が赤くなってしまう、無口な性格に劣等感を感じてしまうといった悩みがあり、10年以上辛い思いをして過ごしました。 しかし、ある時、図書館でたまたま森田療法の本を目にし、これをキッカケにして森田療法の学習をしていく中で、今までの色々な悩みを改善することが出来ました。 そして、自分の悩んでいた症状が「対人恐怖」と言われている神経症の症状であることを知りました。 あなたの書かれている内容を拝見し、あなたの場合も私と同様に「対人恐怖」の症状ではないかと感じました。 ですから、もし、心配性とか内向的といった神経質性格の特長を持っているようであれば、森田療法の学習で治る可能性があると思います。 森田療法の学習は以前は森田療法関係の本を読んだり学習団体に入るのが主な方法でしたが、今はメールカウンセリング(MTカウンセリングなど)でも可能だと思いますので、一度、調べてみてはどうかと思います。 森田療法の学習をしていく中で、人から変に思われたらどうしようという不安や、人前では堂々としていなければならないといった「かくあるべし」の「とらわれ」が薄れてくれば、この結果として、今のあなたの悩みは改善してくるのではないかと思います。 以上、私自身の経験から感じたことを書かせていただきました。

ruri7120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 同じような悩みをお持ちだったのですね。 ちょっとどうしようもないラインに来ていて困っていたのですが、 森田療法ですか…。まずは新書など、手に取りやすいものを買おうと思います。 図書館にもありそうですが、図書館員さんに見せるのに抵抗がありますので…。 日記療法も、自分と上手い具合に向き合えそうで良いかもしれません。 メールカウンセリングも、予算と相談しつつ考えたいと思います。

その他の回答 (15)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.16

質問者さんはなかなか理性的ですね。 このカテの質問者さんたちの多くは感覚的に解決できる方法を求めすぎる傾向がありますから少し驚きです。 今回は一つずつお応えしてみたいと思います。 >どうも考え方が合わないようで、申し訳ない気持ちでいっぱいです。 むしろ合わないということに意味があると思います。 人それぞれ視点が違いますので、自分からはこう見えるが他の人にはどう見えるか、ということを知るための質問ではないでしょうか。 同じ視点を持つということは同じ悩みを持つ可能性があるわけですから問題解決のためには心もとないように思います。 >理解>努力であるとしたら、それではあなたが仰っていた「実績が自信を生む」という考え方は、矛盾していませんでしょうか…? そうですね、なぜこうなってしまったかというと、最初の回答No.5の時点では私は質問者さんを例えば新入社員に例えて考えていました。 経験や実績がない新入社員に自信を持てというのは無理な話だと思ったのです。 日々やるべきことをコツコツ積み重ねれば自然と自信は付くものだと回答したわけです。 他の回答者の人たちも前半(No.8あたりまで)はそのような趣旨の回答だと思われます。 しかし、No.9のお礼の中で今の状態に至った原因について書かれていました。つまり本当の自分を認めたとの記載です。その結果による自己否定が自信のなさにつながっているのだと私は理解しました。 そこで、心理も含めたもっと大きな視点で今の状態をみる必要があると思いました。今の状態を客観的にみるとこういうことですよね?という回答がNo.11です。 心理的な部分の解決には理解が必要であるという回答がNo.5との矛盾に矛盾を引き起こしたようです。どちらも必要なことではあるのですが、質問者さんには内面的な部分の解決が100倍重要だと思います。 >「理解」だけで、これを果たせるのですか? 実際には果たせます。 なぜなら人は自然と一人で生きていけるように出来ているからです。 経験と実績を積めば自信が出るなどという回答は当たり前すぎることで、今私に言われるまでもないと思いますよね、いわゆる一般論ですね。 しかし、質問者さんはにはその自然の流れを妨げているものがあるのではないでしょうか。 それがトラウマや自己否定などの心理的な障害です。これが邪魔をしているのは明らかなのですから、それを取り除けば嘘のように物事は回ると思います。 >実績主義に至ったルーツをここまで隠されるのかは・・・ ルーツとは私の身の上話を聞きたいということですか? 小説になるようなドラマチックなものはありませんが、N0.14の補足に書かれていたものそのものです。 確か18歳のときにNo.14のリンクで紹介した人物の本に出会い、私は自分の人生を決めました。 そのころまでの自分はずいぶんやさぐれておりまして、死ぬとしたら自分は自殺だろうと思っていました。 また、実績主義というより、問題解決には心理的なものは脇に置いて、事実だけを見るようにすることが重要だと考えます。事実だけを見れば案外物事は単純だと思います。 >ここまでに至る人間はなかなかいないと思います。でなければ、偉人がこれほど特別視されましょうか。 私はそれを行っています。 ただ、悟りとは究極の到達点ではありません。日々の日常における小さな気づきの積み重ねとその事象の因果関係を理解することだと思います。 心が何か違和感を感じ、なぜそう感じるのかを観察し考察することで自分と世界の仕組みを知る、それが悟りだと私は考えます。今風にいえば、心理、哲学、宗教についての理解を深める行為だろうと思います。 私の回答には具体的な手法が書かれていなくて物足りなく思うかもしれませんが、私の手法はまさに無選択な気づきと考察なのです。 私はある目的地に行こうとしているのではなく言ってみれば地図を作っているのです。 自分と他人と世界の地図です。 地図を作っている人が道に迷うことなどありえるでしょうか、道に迷うのは目的地を持つ人だけです。 人はどうしても感覚的なものを軸に動きますから、質問者さんは感じている苦痛を何とかしたいと思うのは当然だと思います。 しかし、私はその苦痛には大きな意味があると思います。自分を理解してほしいと無意識が悲鳴をあげているのだとおもいます。それを理解してあげられるのは質問者さんしかできない仕事だと思います。

ruri7120
質問者

お礼

お礼が遅れましてすみません。 丁寧に解説をいただき、ありがとうございました。最初に「実績が~」と仰ったとき、ご自身の経験という根拠が添えられていなかったため、実感することができず、率直に言えば納得できなかったのです。ルーツというややこしい単語を使ったせいでわかりにくかったかもしれませんが。 矛盾に関してのご返答もありがとうございます。 いきなり話題が変わった気がしましたので、視点を変えられたことに気づいていませんでした。 今後はもう少し自己理解を進めた上で、行動を考えたいと思います。

noname#161960
noname#161960
回答No.15

何か質疑が盛り上がってるようなのですが、そっちは読まずに質問文だけを読んで書きます。 ここはそういう場ですから。 教師の家庭というのは、ご両親両方共、教育者なんでしょうか。 うーん、大変そうだ。 ご両親が「近所でも評判の素晴らしい方々」であれば、 彼らの顔を潰したくない、という意志もあるかも知れませんね。 でも昔から「素晴らしい息子」で通してきたのであれば、 「演じてきた」と言ってもいいかも知れませんが。 両親としては厳しくする必要もないでしょう。 あれ、病院に行ったということは、その程度の話はもうしてるかな。 私はまったくの素人でテキトーに言うんでよければ、 ご両親と腹を割って話すのが先でしょうか。 言い換えると「家族にすら見捨てられる」その心配をする必然性があるのかどうか。 それを乗り越えないとどっち道、先には進めないでしょう。

ruri7120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ご両親が「近所でも評判の素晴らしい方々」であれば~ というよりは、家庭内で親が無意識に「よその子を教えるからにはうちの子はなおさら」という、一種の職業病的な考えをぶつけていたことがあげられます。 その中で私は周囲からの「しっかりしてるね」という言葉を真に受け、そういう子を保つには失敗したら、怒られたらかっこ悪いと思うようになったかもしれません…。それに加えて、母のヒス攻撃ですね。 下に兄弟がいたこともあり、親のスキンシップがほぼなかったことも、腹を割れない一因かもしれません。 両親には近年話し始めたのですが、精神的なアレコレにはどうも抵抗があるようで、あまり話が進まなかったのです。 私が欲しいのは、視線を合わせて一緒に問題に向き合ってくれる姿勢です。そう訴えても、どうすればいいの?と言われるだけでした。 私のことは考えてくれていると思いますし、ここまで生きてきたのは両親の援助のおかげです。そのことには感謝しています。 でも話しても、やはり親である前に教師、指導者なのかと思ってしまいます。だから、親の前なら失敗してもいい、誰も嘲笑ってないよということにはなかなか繋がらなかったんです。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.14

恐らく私が考えていることと、質問者さんの考えとはベクトルが逆だと思います。 私が思うに必要なのは努力ではなく、理解だと思います。 どうして自分は今のような状態なのかを理解することなく、先に進めばいつかまた同じ思いを味わうと思いますし、貴方のトラウマは永遠に未解決のままです。 努力によっては解決できない問題もあるのではないでしょうか。 観察、気付き、洞察、など内面的なアプローチが必要だと考えます。 ですから、小手先のテクニックに走ることはお勧めしません。 質問者さんは木を見て森を見ていないと私は感じます。 もし、参考にするならリンク先にある人の本を読んでみてはどうでしょう。 ただしこれは成功哲学や人生相談の類の本ではありません。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3
ruri7120
質問者

お礼

どうも考え方が合わないようで、申し訳ない気持ちでいっぱいです。 でも、理解>努力であるとしたら、それではあなたが仰っていた「実績が自信を生む」という考え方は、矛盾していませんでしょうか…? 実績とは、努力によるものではないのでしょうか。 あなたの意図していた「実績」とは、そもそも何だったのでしょうか。 自分を理解する(自己分析)だけで実績となるのなら、よほど強い、いわば「修行」に近いものをすることになりますよね。 もちろん、「理解」が基盤にはなると思います。 そのための観察、気付き、洞察が、それを占めているとは私も思いますし、大切なこととは思います。 その次のステップ、すなわち行動に踏み出すべき、とあなたは先程の記事で述べられていたと思ったのですが、私の勘違いだったのでしょうか。 >自分の足で立っていないからです。 >その自信と裏付けされた実績がないからです。 >他人の評価を気にするのは裏を返せば他人への依存心の表れではないでしょうか。 >自分を律し、人に依存せず自分の足で歩いてく事でそれが自信につながると思います。 「理解」だけで、これを果たせるのですか? あなたがなぜ、実績主義に至ったルーツをここまで隠されるのかは、「英雄は黙して語らず」ということなのかもしれませんが…。 頭が悪くて申し訳ありません。 もちろん、できるかぎりの「自己理解」はしたいと思います。

ruri7120
質問者

補足

確かに、釈迦は苦行では悟れず、瞑想で自己を見つめ直すことで悟りました。 親鸞も、20年に及ぶ比叡山での過酷な修行でも道を開けず、法然に出会い、念仏することで、信心という拠り所を得ました。 あなたの仰る「理解」とは、こうした「心の修行」でしょうか。 しかし、ここまでに至る人間はなかなかいないと思います。でなければ、偉人がこれほど特別視されましょうか。 私がぜひ知りたいのは、現代でこのような「悟り」を得た実例です。 あなたは、どうだったのでしょうか。物心ついた頃からこうした強い信念をお持ちでしたのでしょうか。 あなたは何らかの経験を経て悟り=理解に至ったからこそ、私に説いてくださっているのですよね? 私はそれを知りたいのです。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10269)
回答No.13

こんばんは。 お話を伺う限りでは、お母様に要因があるやもしれませんね。 お父様に相談するのは難しいのでしょうか? もしかしたら厳しい方かもしれませんが、あなたのことを最も大事に思ってくれているはずです。 (無論お母様も同じですが、愛情表現方法がほんのちょっぴりだけ間違っていたんだと思います) 理解してくれる人がいるだけで、全然違うと思います。 解決の糸口になることを願って。

ruri7120
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね、母に一因があるかもしれません。 それでも、今まで育ててくれた両親ですから、自分がどれだけ思われているかを、もう少し見つめ直してみようと思います。 再三のお言葉、本当にありがとうございました。 自己分析のヒントにもなりました。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10269)
回答No.12

#4です。 仰っていることは、一般的な成功体験や努力とはちょっと違うと思われます。 >自分は完璧でないと家族にすら見捨てられる馬鹿にされる、という恐怖が先走ります。 ということは、ご両親から強く怒られたことはないとか? 私は、子どもというものは親に叱られて育つものだと思っています。 要するに叱られた経験が少ないので、ちょっとした注意にも敏感に反応してしまうとか…

ruri7120
質問者

お礼

逆です。 母がヒステリー持ちでしたので、ことあるごとに金切り声で怒鳴られました。 しつけも、倉庫に入れられるなど、厳しめのものではあったと思います。 それが怖かったですし、今も怖くて母とはうまくコミュニケーションを取れません。 「どうしてそれがいけないのか」ということを上手く説明されずに、 ただ怒鳴られていたからかもしれません。 穏やかな口調だと比較的自分を追い込まないのですが。 親のせいにしたくはないのですが、ある意味「育てられて」いなかったのかもしれません。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.11

>それを改めようとしたら、他人を見下さずには気を確かに生きられない自分に気付いた次第です。 質問者さんは本当の自分(自分が感じている自分)認めようとしたわけですよね。 それがどんなに惨めであってもあるがままを受け入れることとは大きなステップです。 それはとてもいいことだと思いますよ。たいていの人はそれを見ようとしない場合が多いですから。 そして次のステップですよね。 >「失敗する」「注意される」こと自体に、「おまえはだめな奴」と言われているように感じたり、「皆、私のこと馬鹿にしてる、嘲笑ってる」と反射的に思う状態です。 そのように感じるのは他人がそう言っているからではなく、自分で自分自身をそう思っているからです。 人に何か注意をされたときに「ほら見たことか自分はやっぱりこんな人間なんだ」と始まるわけです。 本来なら、自分の評価を自分が下したのだからそれについて今更思いやむ必要などないはずなのです。そうさ俺はそんなやつさと思えば済む話のはずなのです。 しかし、人間は意識的にせよ無意識にせよあるべき自分の理想像を想定しますから、こんな自分はいやだと自己否定が始まるわけです。 質問者さんはあるがままの自分を認めた時からゼロから出発する覚悟が必要なのではないでしょうか。どうしようもない時分ですからマイナスかもしれませんが、そこから自分を教育するという覚悟が必要なのだと思います。 「おまえはだめな奴」と言われているように感じたり、「皆、私のこと馬鹿にしてる、嘲笑ってる」と感じるのは自分の足で立っていないからです。 その自信と裏付けされた実績がないからです。 他人の評価を気にするのは裏を返せば他人への依存心の表れではないでしょうか。 自分を律し、人に依存せず自分の足で歩いてく事でそれが自信につながると思います。

ruri7120
質問者

お礼

本来の自分に気づいたことは、確かに大きな起点ではあったと思います。 そこからの再教育とは、やはり努力しかないですか? たとえば、難解な資格を取ってみるとか。 一日一つでも目標を決めて、やったことを毎日書き出すとか。 それが実績に繋がりますか? 私としては、できればあなたのご経験と成果と一緒にご意見を拝見できると、 「この方はこんなに頑張ったのだから」ともっと実感させていただけるのですが、 やはりご自身のことを出すのは難しいでしょうか。 正直なところ、ご意見は非常に事実的ではあるのですが、根拠が不確かな、 一般論だけを出されているような…という気持ちも、少しながらあります。

ruri7120
質問者

補足

お礼文では、身勝手なことを書いてしまい、すみません。 しかし、マイナス思考=自己憐憫などのあなたの考え方のルーツにも興味があります。 もしよければ、せめて参考文献だけでも教えていただけませんでしょうか。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.9

>要は「注意された」「失敗した」瞬間に急騰する自己否定に堪えられないのですが。 自己否定をする人と自己否定に耐えている人は別人でしょうか。 この2つが分離しているといつまでたっても葛藤は続きますよ。 なぜ自己否定するのかその理由は分かりますか?

ruri7120
質問者

お礼

再びありがとうございます。 「失敗する」「注意される」こと自体に、「おまえはだめな奴」と言われているように感じたり、「皆、私のこと馬鹿にしてる、嘲笑ってる」と反射的に思う状態です。 そういった気持ちが恐怖として一瞬で溢れます。 こういった気持ちを押し流せないことを、こちらでは自己否定と定義していました。 理由はよくわかりませんが、物心ついたときにはすでに劣等感を持っていました。その後の流れはNo.3さんへのお礼に書かせていただいてます。 あなたはかなりお強いようですが、そうなったご経験や、その成果などありましたら、差し支えのない範囲でお教えていただけませんでしょうか。 私も我を強く張っていた時は、弱いことが罪だと思っており、たくさんの弱い人を傷つけました。 でもそれは昔と本当の自分を直視するのが嫌な気持ちをぶつけていただけでした。 それを改めようとしたら、他人を見下さずには気を確かに生きられない自分に気付いた次第です。

回答No.8

失敗して注意されたときに、「注意してくれるってことは自分を見捨ててないんだな、この方は」と思ってみてはどうでしょう。 私は社会人10年目になりますが、「落ちこぼれ」は注意すらしてもらえませんよ。 「なんとか戦力になれそう」「もう少しで分かってくれそう」という期待された人間しか、注意はしてもらえません(^-^)

ruri7120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに、自分も誰かに注意するときは、一生懸命考えて注意します。 そのことを自分に当てはめればいいだけなんでしょうが、そのためには一瞬で沸き上がる恐怖に知らんぷりする必要があると思います。 直感に素直になりすぎるのも問題ですが。 強くなれないなら、せめて鈍くなりたいです。 ここまで行き着いたんですが、見捨ててないも言い聞かせる言葉に加えようと思います。

noname#201721
noname#201721
回答No.7

注意されたら、「気を付ければもっとよくなる」と思う思考は ごもっともで拍手したくなります。 だけど、失敗はわたしもへこみます。 この残念な気持ちを感じないようにすることはできません。 で、どうしたらよいかと考えたところ 失敗しても良い場を設ける、です。 たくさん失敗して、自分の居場所確認をします。 人の言葉は、表面的なものでありますし 相手の言葉も失敗されたものが出ている場合もあります。 どんなけわかっていても、できないことってたくさんあります。 正直、できないことのほうが多いです。 失敗体験で疲れをためていらっしゃるようにも感じられますので、 なんにもしないのもひとつの方法かなぁと思います。 へこんだことを、表現してみる。 ノートに書くなり、相手に言葉にして伝えてみるなど。 失敗を真面目に受け止めることって、けっこう出来ないことですよ。 ぼそぼそ思うこと書いてすいません。 なにかプラスになることがあったら使ってください。

ruri7120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 辛い気持ちの発生を止めることは不可能ですか。 こんなに劣ってるのは私だけだといつもがっかりしてしまうのですが。 皆も静かに耐えているとしたら、自分の忍耐力ってなんて低いのだろうと自分の限界が嫌になります。 ノートに書き出すことに、少し効果が見られそうな気がしたので、やってみようと思います。

noname#152969
noname#152969
回答No.6

よほど留年も浪人もしていない限り、貴方は全然若いです。 若く人生経験がないからこそ失敗を恐れてしまうのでしょう。 でも考え方を変えてみてください。 若く人生経験が少ないからこそ、失敗をしても許される部分は(少なくとも私よりは)たくさんあります。 因みに私も貴方くらいの年齢(大学生というだけで何歳かは分かりませんが)の頃は、失敗を恐れて出来なかった事がたくさんありました。今でもそうです。 御祈祷をするのはどうでしょう。 これによって、「自分は神に守られているから大丈夫なんだ」という気持ちになり、多少は失敗を恐れずに行動ができるのではないのでしょうか。 私は最近、「信じる者は救われる」といいますが、信じる対象は神であるのではないかと思いました。 当てにならないかとは思いますが、少しは力になれればありがたいです。

ruri7120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 阿弥陀様の教えを学んだことはありますが、 まだ「全てをゆだねきる」ことに不安があるようです。 しかし「失敗しても許される若さ」はまだあるようなので、それは良い意味で自覚していきたいと思います。

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  • 「会話が途切れる」恐怖症。

    「会話が途切れる」恐怖症。 誰かと会話する時、会話が途切れて無言の時間が出来ると、「相手を楽しませなくてはいけない」という脅迫感に駆られ、とっさに他人に話すべきでないプライベート(自分の失敗や金や異性にだらしない親戚の事など)を自らぺらぺらと話してネタに使ってしまい、その後どうして赤の他人にあんな事を喋って自分の事をさらけ出してしまったのだろう、と物凄く自己嫌悪します。 その話に相手が興味を持ち、それでそれで?と嬉しそうに聞かれると、何でもかんでも馬鹿正直に全て話して話のネタに使ってしまいます。 普段も隠し事がほとんど出来ず、何か嫌なことがあったりするとすぐ誰かに話したくなり、話さないと消化不良のような気持ち悪い感じがして、そわそわして落ち着くことが出来なくなります。 そして話し終わった後、どうして言ってしまったのだろうと嫌悪感にかられます。 黙っていればいいのに。いつもそう後悔します。 でも、気づくと喋ってしまいます。 自分は決して普段はおしゃべりでなく、むしろ人見知りし出来ることならば誰とも喋りたくない。一人でいるのが好き。と考えているような性格です。 なのに、何か喋らない気がして気づけば逆の行動を取っています。 こんな私は一体どうすれば良いのでしょうか。