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千日回峰行、身体が丈夫なら偉いのか?

千日回峰行を達成した人の本を読んだのですが どうもピンと来ませんでした。 ただ身体が丈夫に生まれて、行を行っただけなような感じがしました。 これでも偉いのでしょうか?

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回答No.24

アマガッパさんが示唆したように、原則として仏教修行の全体(A)の中で千日回峰行(C)がどういう意味を持ちどう役に立つのか理解したうえでないと千日回峰行の評価はできないですね。 それに対して、猪突さんはご自身の研究活動(B)との共感という文脈で千日回峰行(C)を評価しているわけです。 つまり、同じ(C)でも文脈が違うわけです。 また、質問者さんは同じ(C)でも文脈なしの(C)単体で評価していると思われます。 猪突さんは目標達成に地道に精進する点等(もちろん研究者にも修行者にも必要な条件)に共感し、xNekoNyanxさんは千日回峰行だけ尊ぶ風潮を批判しているのでしょう。 千日回峰行が売名なのか、やっつけ仕事か、全体は分からないけど一途にやったのか、修行全体を理解してやったのか、ここが分からない以上、議論は不毛ですよね。

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  • sarasuva
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回答No.39

身体が丈夫なら頭も精神も丈夫だと思います。

回答No.38

Chototu先生、偉いね! 上等な学者は一介の大工の与太話からも学んでしまう能力があるってことですね。 ロイヤルティーは負けときます。 そのかわりって言っちゃあなんだが、あっしの方も、”世の中ってのは確率過程で動いているんだ”、なんてことを、昔から知ってたような顔して言わしてもらいますんで。恐れ入谷のプリゴジンの「混沌から秩序へ」の普及活動もしますよ。 マキタやBlack & Deckerの釘打ち機ですね、確かに生産性は高いし、何時間続けても疲れないってことは優れているんです。 でもね、ベテランの大工が玄翁(げんのう)を使って釘を打つときにはね、一本の釘を三回に分けて打つってのはご存知ですか? 一打目は、釘の長さの10%をめどに「指す」ように打つ、打ちこみの方向を決定する一打目です。 二打目は、釘の長さの90%までをめどに打ち込みます。量を稼ぐ二打目です。 三打目は、残りの部分を打ちこみますが、釘の進行速度が早すぎないよう、ゆっくりとしっかりと打ちます。「決め打ち」です。 まあ、長い釘だと、二打目を繰り返して、合計四打になったりするけど、一打目と「決め打ち」の役割は変わらない。 この決め打ちがキチンとできていると、何年たっても釘が緩まないと言われているんですよ。 多分、木の繊維をあまり破壊しないので、繊維が釘の表面に絡みつき、繊維と釘の摩擦が強くなるんじゃないかな。 だから、新米の大工か、一人前の大工かは、見てなくても、音を聞いていると判るんですね。職人の芸も奥が深いよ。 で、マキタですけどね、これは、ワンストロークで釘を最後まで打ち込んじゃうね。生産性が優先だ。 釘の速度が早いから木材の繊維を破壊していますよ。それにね、ワンストロークでは「方向仮り決め+方向微修正」が出来ないわけだから、「多少下向き」をコンスタントに維持できない。 実験したことは無いけど、きっと、10年、20年の単位で見ると釘が緩む可能性が高いと、大工は信じていますね。 まあ、Black & Deckerはやらないと思いますが、マキタは「自動三段打ち」の釘打ち機を開発しちゃうかもしれませんがね。 そうなったら、大工は均一な仕事で敵わなくなるから、益々不均一な仕事がちゃんと出来るようにならないとイカンのでしょうな。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.37

木造大工さんよ、姫路城の話しと言い、釘の打ち方と言い、あんたからは教わることがあるね。前は日本の学会で会った連中を捉まえて姫路城の話をして来たんだが、今度は釘の話しをしなきゃならん。今はアメリカにいるが、もうこっちを訪れて来た日本の先生の一人に釘の話しをしたよ。「んー、深いですね」って反応した。 だが、ここではっきりさせて置かなくちゃならんことがある。この話しをするときは一々あんたにロイヤルティーを払わなきゃならんかどうかについてだ。あたしには持論がある。一端こちらに共鳴できた考え方は、最早あたしのもんだと言うことだ。こちとらに準備が出来ていなかったら、馬耳東風、猫に小判、豚に真珠、あたしにマリリンモンロー、でえくにかんざしみてえなもんで、貰ってもどお使っていいか解んない。だからあんたには一々ロイヤルティー払わないよ。あとで「このイノシシ野郎、ただで使うたあ、どんな了見しとるんじゃい。こうなったら、お奉行様でも裁判員様でも何でも言いから、出る所に出て、この落し前を付けて貰うおうじゃないか」なんてトンカチ振り回して脅したって、あたしゃ恐くないからね。 ただあたしが心配しているのは、最近の大工どもが何やら得体の知れない機械を使い出したってえことだ。トンカチなんかにゃ脅かされないが、マキタの高圧エア釘打機なんかで迫ってこられたらあたしどうしよう、なんて考えると背筋が寒くなる。あたしゃ毎日家内から家庭内暴力じゃなかった、勝てない暴力で頭をぺこぺこ叩かれている。それで十分反省できているんだから、これ以上の暴力は反対だ。「君、話せばわかる」なんて言ってるのに「問答無用」なんていきなりばっさりなんて、どっかの総理大臣みたいなのやだからね。

  • hi0hi0
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回答No.36

こんにちは。 本は読んでませんが、何となく仰ることはわかります。 人間、心技体そろってなきゃだめということであれば、寝たきりの人はそもそも人としてだめなのか、という話にもつながりますよね。 少なくとも私よりは偉い感じがしますが、身体に障害がある人でその人と同じくらい又はその人以上に素晴らしい人はたくさんいるんじゃないでしょうか。 その方が、身体が不自由な方に対してどのような“説教”をするのか聞いてみたい気がします。

回答No.35

 No.28&32です。  ★ 千日回峰行を達成した人・・・でも偉いのでしょうか?  ☆ もし偉いとすれば――それはいわば生きる力をきたえたのだから―― 生命(寿命)を伸ばすことも出来れば ぎゃくに生命を投げ出すことも自由自在にできるということ。これだと思います。  そうではないでしょうか?  できるだけ仏教に関係なく見てみた結果です。  いま上げた判断の基準は 実際には検証しづらいことですが そういうことを明言して生きているかどうかということでも 或る程度分かるのではないでしょうか?  なんかすごいそうだぞとか 実際にやってみた者でなければ分からないことがあるようだよとか言っているよりは ましではないでしょうか?  《寿命を自分の力で伸ばすことが出来るようになった》やあるいは《もし有益であれば 自分で自分のいのちを投げ出す用意があります》と発言するかどうかです。

noname#156094
noname#156094
回答No.34

もう一度失礼いたします。 葉上照澄さんは東大でドイツ哲学を学んだ方ですが、50を過ぎてから回峰行に挑まれました。 私もTVでお話を聞いた事がありましたが、その中で印象に残っている言葉があります。 インターナショナルという言葉を幾度も仰っていました。 常に広く普遍的なものを求めておられていたのかもしれません。 千日回峰行を哲学的な視点から見ようとされるのなら、葉上さんの著書が参考とするのに相応しいかもしれません。 しかし、行間の意を汲み取って解釈しなければならないという見方からすれば、体験を綴った内容というものは、同様の体験をした者でなければ解釈の仕様がないとも言えるように思います。 つまりは数多くのヒントが並べられていても全く分からないとさえ言えるのです。 葉上さんが弟子の光永澄道さんに、おまえ見たか 見たろ、と言われたそうですが こうした言葉の指す内容というものも同様だと思われます。 同じ人間であり、同じ現実の中に生きていながら、行によって全く違う認識に目覚めてしまうといった感じすらあるような気がします。 行という体験によって人が変化してしまうという事を、外面的に捉えて評価しようとする時、少なくとも求道心が同じくあるかないかによってその評価は大きく違ってしまうのではないでしょうか。 偉い、という世俗の言葉も相応しくないとさえ言えるかもしれません。 世俗の言葉で仏の世界は評価できないようにも思われます。 寂聴さんが修行を終えて阿闍梨になられた時、今東光さんが寂聴さんに、これからは一人の時間をつつしまなければいけないよ、と仰ったそうです。 この言葉も体験があってのもので、阿闍梨としての自覚を持って人に尽くすのだよ、という意味だと思われます。 行を修めた人の言葉には、私達一般人には解釈の届かぬ内容が秘められている、といった感じがいたします。 ご参考になさってください。

  • Yodo-gawa
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回答No.33

#3です。 俺としては、宗教の話にするつもりはなかったのですがね・・・。 結局、「偉い」をどう定義するかによります。少なくとも、常人には成し得ない事から、 達成した者が肉体的に優れている事は確かです。しかしそれだけでは、程度の違いはあれど SASUKEや百人組手と同じです。困難を乗り越えて達成した者は、達成した事によって 今までにない自信を持てるようになったりする事で、その行いに価値があったと言えます。 どんな分野で変化をもたらすかは、それぞれ異なるでしょうが、プラスになれば「利」の 価値を生んだ事になりますし、ただ傲慢になったりするだけならば、「利」においては 負の価値となります。さらに極端な話ですが、苦難は非日常ではなく日常の中にも多数 存在します。苦難を乗り越えるからこそ人は輝きます。その行為自体に価値があるのでは なく、それを成した者の動向によって、プラスであれマイナスであれ価値が生まれます。 包丁そのものの価値は、プラスでもなくマイナスでもなく零(中立)と言えます。 それを料理に使って人に喜んでもらえればプラスの価値が生まれ、怪我をしたり、 ましてや犯罪に使用するようであればマイナスの価値を生みます。 結局は、この包丁の話と同じ事ではないでしょうか。したがって、千日回峰行を 達成した者が偉いと言うのであれば、それは達成した者が自身の行動によって、 立証しなければいけません。 その行いを達成した者に俺が言葉を贈るとすれば、全てに共通しているのは 「お疲れさん」という事だけですね。素晴らしいかどうかは、当人の変化次第です。 ダイエットの方法はさまざまありますが、多数の者に顕著な変化があるからこそ 俺もやってみようと思えるのでしょう。その変化がなければ、効果があるとは思えません。 「価値」とはそういうことではないでしょうか。

回答No.32

 No.28です。  話は 千日回峰行を仏教のもんだいとして扱うのかどうかで分かれます。     仏教とは切り離して捉えるのなら スポーツ選手や登山家とか冒険家あるいは宇宙飛行士の体験と同じ趣きであるとなるでしょう。  けれどもすでにブッダ自身は要らないと判断した難行苦行をそれでもおこなうとしたら それは ブッダがたどり着いたそのさとりに到る過程をもみづから体験したい。これでしかないはずです。  ただですね。ブッダが得たさとりというのは 根本的な生存欲にはひとを惑わせるはたらきがある。これだったはずです。おそらく生命はとうとい。あるいは生きることはとうとい。――だから後世にひとは誰もが仏性を宿すという思想が ブッダ自身の思想と見なすかたちで生まれた。――けれども この生存するという生命力 生きようとする欲求とそのはたらき これも・それでもうつろいゆくもの(諸法無我)だと見た。  すべては 縁起の関係過程であり関係構造である。またそれゆえ 縁起共生となる。けれどもすべては 空観のもとに捉えなくてはいけないのだと。  このすでに現実でありもする目指している世界〔観〕にしても 空観が大事だというその意味は そこにおける生存としてのはたらきがそのままで 絶対(ブラフマンなる主宰神)であると見てはいけない。そのままで梵(ブラフマン)我(アートマン)一如なのではない。  《そのままで》というのは 《人間の力と意志とその為すこと思うこと》だけではということでありそれは それだけなら うつろいゆくものであり 経験的・相対的なことなのだからと。これが 縁起共生に対する・しかもその縁起の過程そのものとしての 空観であると。(つまり 早い話としては 有神論と同じ内容としての無神論なのでしょう。それらが内容として同じというのは ともにどちらも非思考の庭と言います)。  もし人がこの空観に立つならば 難行苦行は どうでもよい。  なぜなら 一般に修行というのは なんとかして目指す何かを得たいというために生きる力をためしきたえる。もしそうではないよ そうではなくすべては 無目的のもとにおこなうのだよと言うとすれば おそらくその無目的というのが 人間のはからひであり 生存欲の為せるわざなのではないか。  そうでなけば 修行などをやりません。(スポーツなり何なりを職業としてするぶんには ですから 話が別です。千日回峰行をおこなったという人間がいることを売りにするのなら それも職業なのでしょう)。   話は 千日回峰行を仏教のもんだいとして扱うのかどうかで分かれます。仏教としてなら 結論はとっくに決まっています。  * ブディズムとしても 阿弥陀仏を想定する浄土系の有神論が出ました。大日如来も 有神論であるかも知れません。道元は 無神論なのでしょうね。

noname#128939
noname#128939
回答No.31

bougainvillea さん、こんにちは。 つまらない話ですが、軽く聞き流してください。 私は、4年前まで地方公務員の職に就いておりました。 しかし、仕事をしながら、何かが違う、人として、何かが違うと感じていました。 ある日、私は、論語という一冊の本を見つけました。 そして、その中に、ひとつの答えを見つけました。 「無道の時代に、仕官する輩は、およそ求道者とは、いえない。」 そして、私は、すぐに希望退職し、フリーターとして働きました。 とにかく働きました。昼も夜も働きました。 もし、自分が、怠けたいなどと、一度でも考えたなら、そのときは、 自ら死のうと決めていました。 やがて、わたしは、過労で倒れ、もはやこれまで、と、覚悟したとき、 一年に一度しか会わない友人が、私を訪ねてきてくれたのです。 私は、このときから、自分の中身を自在に操る事ができるようになりました。 これが、私の「千日回峰行」であったかどうかは、御仏のみぞ知るです。

回答No.30

こういうややこしい話になるから長らく傍観していたのであり、差し障りない程度で大まかに述べたのですけどね…。 ※cyototu氏 >>「仏教」という難解かつ体系的な教えがあるにも関わらず、 >>「南無阿弥陀仏」だけ唱えりゃで結構なんて言っている >>源信僧都や法然や親鸞の言うことなんて訳解んないと言う方なのでしょうね。 >>学問や哲学や宗教は難解であるから価値があるんだとでも言いたいのですね。 それは信徒に勧めるべき「易行」であって、その易行を勧めるべき立場の出家が「何故にそれを用いるのか」を心得ていなければならないのは当然でしょう。 仏教というのは、仏の教え(仏説)を拠り所にすることであり、そこから外れて独自の行に没頭する者を「外道」と言います。 それとも何ですか。法然上人がまったく経典に依らず「南無阿弥陀仏」にたどり着かれたとでもお思いですか? 突き詰めればその「南無阿弥陀仏」の易行ですら、末法の凡夫が行うことには問題があるのですが…。 「南無阿弥陀仏」と称えれば何がどうなって成仏に至るのか、ご存知ですか?教えを説くものとしてそれを心得ず、闇雲にこれを広めて、結果として多くの衆生を地獄に堕としても、正しいと言えるのですか? 何も私は、千日回峰行の本来まで否定するつもりはありません。ただ、近代に於ける有り様には疑問を差し挟む余地があるというだけのことです。 仮に譲って「難解であるから価値がある」というご批判に甘んじたとしても、それならそれで、千日回峰行という一般人には成し得ない行を成し得たという体験を本にすることに他にどんな意味があるのですか? そこに宗教的な意義を見い出さないのであれば、それこそ「(修行が)難解であるから価値がある」の具現であり、対外的な評価の自己顕示でしかないのではないでしょうか。 凡そ多くの宗教に携わる人々が書を記すのは、読み手に資する為です。これは菩薩行で言うところの「自利即利他」の精神に該当します。 質問者様の読まれた本が具体的にどのような内容であったかまでは知り得ませんが、せっかく興味を持って手にしたのに「ピンとこなかった」のであれば、それはただ自慢げに自己の修行体験を綴っているからだと見做されても仕方ないでしょう。 同じようなことを書いている人でも、万人に出来るものではないからと行の委細については自重し、その体験に基づき万人にもできるような心構えとして帰結し、勧進されている方はたくさんいます。 哀しいかな、そう感じられなかった時点で読み手にとってそれは「ただの自慢話」としか映らず、そしてまた行を重んじる人たちの中には行をしていない者を見下す傾向があるのも多分な事実です。その「上から目線」な姿勢が、本を目にする「宗教的な苦行そしていない一般人」にどのような心理作用を及ぼすのかぐらいは、おわかりでしょう。 少なくとも、苦行によってのみ仏道がなし得るという教義のもとに於いては、苦行をしていないもの…例えそれが一般人であっても…が卑下されて然るべきであり、これが実際に原始仏教の問題点でもあったのです。 お釈迦様は、御自身が遭遇した受難「九横の大難」や、人間には到底成し得ない「(六難)九易」を挙げ、しかして、滅後に正しい教えを受け持つことはそれ以上に困難なことである、と説かれています。 このことの意味をもう少し考えるべきではないのでしょうか。

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