神は 何でないか?
神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。
批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。
1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。
2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。
3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。
4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。
5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。
6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。
7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。
8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。
9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。
10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。
11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。
《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。
12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。
13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。
14.エトセトラ。エトセトラ。
15. まとめて 神は何でないか?
A. 神は 人間の精神ではない。
――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。
B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。
――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ
っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと
ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。
つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。
お礼
お礼が大変遅くなり申し訳ありません。 そうそう、Jay'edです!!!!!!!!!!!!! ありがとうございましたm(__)m助かりました。